選ぶということ
教室の窓から、やわらかな春風が入り込んでいた。
まだ新しい机と椅子は、どこかよそよそしい。
入学してまだ間もない教室には、木の匂いと、真新しい教科書の紙の匂いが混じっていた。
窓際の席では、外を見ながら小さな声で話している子たちがいる。
前のほうでは、すでに仲良くなったらしい数人が、次の授業のことよりも昼休みの話で盛り上がっていた。
その一方で、まだ誰とどう話していいのかわからず、静かに配られたプリントへ目を落としている子もいる。
少しずつ形になり始めたクラスの空気は、まだ完成していなかった。
誰もが同じ制服を着ているのに、そこにいる一人ひとりの距離感はまだばらばらで、教室の中には小さな遠慮や様子見が、春の陽射しみたいにうっすらと広がっている。
追川うさぎは、自分の机に座りながら、そんな教室の空気を静かに感じていた。
高校生活が始まって、まだ日も浅い。
新しい校舎にも、時間割にも、先生たちにも、少しずつ慣れてきた。
けれど、“慣れた”と胸を張って言うには、まだ少し早い気がする。
クラスメイトたちの顔と名前も、やっとなんとなく一致し始めたところだ。
うさぎ自身は、もともと大勢の中心で話すようなタイプではない。
でも、人と話すことが苦手なわけでもなかった。
誰かが困っていたら気づくほうだし、少しずつ距離を縮めていくのも嫌いじゃない。
ただ、最初の一歩だけは、少し慎重になる。
そんなうさぎの隣の席では、咲宮マリーが今日も元気いっぱいだった。
「ねえうさちゃん、今日の一時間目ってこれで合ってるよね?」
「合ってるよ。昨日も確認したでしょ」
「確認したけど、念のため!」
「念のためが多すぎるんだよ、マリーちゃんは」
うさぎが小さく笑うと、マリーは「えへへ」と悪びれもせず笑い返す。
入学してからというもの、マリーは毎日ほとんど変わらない調子だった。
新しい環境に緊張している様子はまったくなく、初日から自然に教室の空気へ飛び込んでいって、気づけばあちこちで話している。
その明るさは、見ているだけで少し安心する。
うさぎがまだ言葉を選んでいるあいだに、マリーはもう笑っている。
そういうところが、昔から少しうらやましかった。
そのとき、教室の前の扉が開き、担任の教師が入ってきた。
ざわついていた教室の空気が少しだけ引き締まる。
「はい、席についてください」
先生が黒板の前に立ち、出席簿を机に置く。
生徒たちがぱたぱたと席へ戻る音が、あちこちで重なった。
うさぎも背筋を伸ばし、前を見る。
今日のホームルームは、いつもより少し長いらしい。
そう聞いていたから、何の話だろうとは思っていた。
担任は教卓の上のプリントを整えながら、落ち着いた声で話し始める。
「本校では、二年次からの専門コースに向けて、一年生のうちに選択科目を決めてもらいます」
その一言で、教室の空気が小さく揺れた。
「え、もう?」
「早くない?」
そんなひそひそ声が、あちこちから聞こえる。
先生は慣れた様子で続けた。
「もちろん、今日ここで即決しろという話ではありません。説明を聞いて、よく考えて、希望を出してください。ただし、後で慌てないように、今のうちから意識しておくことは大事です」
前の列から順番にプリントが配られていく。
うさぎのところへ回ってきた一枚の紙には、選択科目の一覧と簡単な説明がまとめられていた。
書道科。
華道科。
茶道科。
どれも伝統的で、落ち着いた響きを持つ名前だ。
紙面を目で追いながら、うさぎは少しだけ首をかしげた。
どれも素敵だとは思う。
でも、今の自分の中で「これをやりたい」と強く言えるものがあるかというと、すぐには答えが出なかった。
字をきれいに書けるのは憧れるし、お花もきっときれいだ。
茶道も、静かな所作がかっこいいと思う。
でも、それは“素敵”であって、“自分が選ぶ理由”とは少し違う気がした。
「へぇ〜、華道科って楽しそうじゃない?」
隣から、ひょいっとマリーが覗き込んでくる。
「お花きれいだし。アタシでもなんとかなるかも」
「マリーちゃんはお花より走り回ってそうだけど」
うさぎが小さく言うと、マリーはすぐに頬をふくらませた。
「なにそれ〜! ちゃんとお花だって愛でられるよ!」
「愛でる前に、うっかり花瓶ごと倒しそう」
「そんなドジっ子みたいに言わないでよ!」
「みたい、じゃなくて実績があるからね」
「うさちゃん、ひどーい!」
周りに聞こえないくらいの小声で言い合いながら、二人は顔を見合わせて笑う。
そんな何気ないやり取りのあとで、うさぎはもう一度プリントへ目を落とした。
そして、その視線が止まる。
一覧のいちばん下。
他の科目とは少しだけ雰囲気の違う文字。
地域貢献科(通称:鉄道)
「……これ、なんだろう」
うさぎは思わず小さく呟いていた。
マリーが再び顔を近づける。
「地域貢献科?」
説明欄には、短くこう書かれていた。
――駅業務を通じて地域社会に貢献する実践科目。
「駅で働くってこと……?」
マリーが首を傾げる。
「みたいだね……」
うさぎも、小さく読み上げるように答える。
けれど、その短い説明文の中に、なぜだか目を離せない何かがあった。
駅業務。
地域社会に貢献。
実践科目。
並んでいる言葉はどれも特別派手ではない。
けれど、静かな文字の並びの向こうに、人の流れや、日々の暮らしが見えるような気がした。
駅には、いろんな人が来る。
毎日学校へ向かう学生。
仕事へ向かう大人たち。
買い物帰りのおばあちゃん。
ベビーカーを押すお母さん。
少し急いだ顔の人もいれば、疲れた顔の人もいる。
うさぎは自分でも気づかないうちに、そんな景色を思い浮かべていた。
駅は、ただ電車に乗るための場所じゃない。
そこを通る誰かの一日の始まりだったり、
帰る途中のほっとする場所だったり、
人と人がすれ違う、暮らしの途中にある場所だ。
そんなところで働くって、どういうことなんだろう。
「うさちゃん?」
マリーの声で、うさぎははっと我に返る。
「……あ、ごめん」
「そんなに気になる?」
気になる。
たぶん、そうだった。
うさぎはプリントを持つ手に少しだけ力を入れた。
書道も華道も茶道も、どれも立派で、すてきな科目だと思う。
でも、この“地域貢献科(鉄道)”には、ほかとは違う温度がある気がした。
上手く言葉にできないけれど、
何かを“見せる”よりも、誰かを“支える”ことに近いような。
その感覚が、うさぎの胸の奥に小さく触れた。
先生は教壇の前で、それぞれの科目について説明を続けている。
書道科ではどんな授業があるのか。
華道科では地域の行事への参加もあること。
茶道科では礼法や所作も学ぶこと。
どれもちゃんと魅力的に聞こえる。
それでも、うさぎの中に残り続けるのは、やっぱりあの一行だった。
駅業務を通じて地域社会に貢献する実践科目。
「みんなを笑顔にしたいな」
気づけば、その言葉がぽつりと口からこぼれていた。
マリーが目を丸くする。
「うさちゃん?」
うさぎは少しだけ視線を落とし、それからゆっくりと言葉を探した。
「駅ってさ、いろんな人が来るでしょう?」
「うん」
「通学の人も、仕事の人も、おばあちゃんも、小さい子を連れた人も……」
言いながら、自分の中のイメージが少しずつ形になっていく。
「みんな、それぞれ用事があって、急いでたり、疲れてたり、ちょっと不安だったりするかもしれないけど」
そこでうさぎは一度言葉を切った。
そして、ほんの少し照れたように笑う。
「そういう人たちが、ちょっとでも安心できる場所だったらいいなって」
マリーは黙って、うさぎの横顔を見ていた。
ふざけるでもなく、すぐに口をはさむでもなく、ちゃんと最後まで聞いてくれている。
そのことが、うさぎには少しうれしかった。
「なんていうか……」
うさぎは続ける。
「困ってる人がいたら声をかけたり、迷ってる人がいたら案内したり。ほんの少しでも、その人の一日がいいほうへ向いたら素敵だなって思って」
自分でも、うまく説明できているかはわからなかった。
でも、言葉にしてみると、不思議なくらいしっくりきた。
ああ、自分はたぶん、こういうことをしたいんだ。
派手じゃなくてもいい。
目立たなくてもいい。
誰かの役に立てる場所で、ちゃんと働けたらいい。
そんな思いが、胸の中で静かに形を持ち始めていた。
マリーは少しだけ驚いた顔をしていたけれど、次の瞬間には、にっといつもの笑顔になった。
「じゃあ決まりじゃん」
「え?」
あまりに迷いのない言い方に、うさぎは目を瞬かせる。
「うさちゃん、それやりたいんでしょ?」
「……たぶん」
「たぶんじゃないよ、今のすごくうさちゃんっぽかった」
「そうかな」
「そうだよ。人を笑顔にしたいって、うさちゃんが言うと本当にそうなんだなって思うもん」
まっすぐ返されて、うさぎは少しだけ言葉に詰まる。
そんなふうに言われると照れてしまう。
「それに」
マリーは自分のプリントをひらひらさせながら言った。
「アタシ、うさちゃんと一緒がいい」
「えっ」
「だって、うさちゃんとならなんでも面白くなりそうだし」
さらっと、とんでもなく大事なことを言う。
マリーは昔からそういうところがある。
迷うより先に心で決めて、気づいたら口に出している。
でも、その言葉に嘘がないことを、うさぎはよく知っていた。
「ちゃんと考えなくていいの?」
「考えてるよ?」
「そうは見えないけど……」
「ひどい!」
口ではそう言いながらも、マリーはちっとも気にした様子がない。
むしろ楽しそうに笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「でもね、アタシ一人だったら、どれがいいか決められなかったかも」
「マリーちゃんでも?」
「うん。お花も楽しそうだし、お茶もなんかかっこいいし。でも、さっきのうさちゃんの話を聞いたら、そっちのほうがわくわくした」
その言い方は、とてもマリーらしかった。
“正しいから”ではなく、“わくわくしたから”。
けれど、その感覚は決して軽いものじゃない。
うさぎはプリントの「地域貢献科(鉄道)」という文字を見つめる。
まだ知らないことばかりだ。
実際にどんなことをするのかも、どれくらい大変なのかもわからない。
それでも、ここに丸をつけたい気持ちは、もうはっきりしていた。
うさぎはそっとペンを取り、
地域貢献科の欄に小さく、でも確かに丸をつけた。
そのすぐ隣で、マリーも迷いなく丸をつける。
「よしっ」
マリーが満足そうにうなずいた。
教室のあちこちでは、華道や茶道の話で盛り上がっていた。
「書道、親が喜びそう」
「華道ってなんかおしゃれじゃない?」
「茶道は制服似合いそうだよね」
そんな声が、あちこちから聞こえる。
けれど、地域貢献科の話をしている声は、ほとんど聞こえなかった。
少しだけ珍しい選択なのかもしれない。
そう思ったけれど、その時点ではまだ、うさぎも深くは考えていなかった。
ホームルームが終わり、授業をいくつか終えて、放課後になる。
教室の中は、朝とは少し違う空気になっていた。
一日を一緒に過ごしたぶんだけ、会話は少し増え、笑い声も少し大きくなっている。
それでもまだ、みんなが“これから仲良くなっていく途中”にいる感じは変わらない。
うさぎは机の中を整えてから、ふと廊下側の掲示板に目を向けた。
そこには、選択科目の希望者一覧が仮で貼り出されていた。
「もう出てるんだ」
マリーも隣から顔を出す。
「見に行こ!」
二人で並んで掲示板の前へ向かう。
書道科。
華道科。
茶道科。
それぞれの欄には、いくつもの名前が並んでいる。
人数の偏りはあっても、どの科目にもそれなりに希望者がいるようだった。
そして、その下。
地域貢献科――
うさぎはゆっくりと視線を滑らせる。
そこに書かれていた名前は、たった二つだけだった。
追川うさぎ
咲宮マリー
「……あれ?」
思わず、声が小さくなる。
もう一度見ても、やっぱり二人だけだ。
名前の並びが妙にはっきり見えて、逆に現実味が薄い。
「……もしかして」
うさぎは喉の奥で、そっとつぶやく。
「ダメなやつ選んじゃった?」
その言葉は、自分でも思っていた以上に弱々しかった。
胸の奥を、ちくりと小さな不安が刺す。
みんなが選ばないものには、何か理由があるんじゃないか。
知らないうちに、とんでもなく大変なものを選んでしまったんじゃないか。
そもそも、希望者が少なすぎて成立しないなんてこと、あるんじゃないか。
さっきまであんなに自然に丸をつけたのに、
たった二つの名前を見ただけで、気持ちが少し揺らいでしまう。
そんなうさぎの隣で、マリーは掲示板を見たまま、ふっと笑った。
「大丈夫だよ」
軽く言ったはずなのに、その声は不思議としっかりしていた。
うさぎが顔を向けると、マリーはいつもの明るい目でこちらを見る。
「だって、アタシたち二人なら何でもできるよ」
あまりにもまっすぐな言葉だった。
根拠なんて、たぶんない。
でも、その一言には不思議な力があった。
うさぎは小さく息を吐く。
さっき刺さった不安が、すぐに消えるわけじゃない。
でも、ほんの少しだけ、やわらいだ気がした。
「……そういうところ、ずるいよね」
「えっ、なんで?」
「マリーちゃんが言うと、本当にそんな気がしてくるから」
「でしょ?」
「そこで威張るんだ……」
うさぎが呆れたように言うと、マリーは楽しそうに笑う。
教室に戻ると、夕方の光が差し込み始めていた。
うさぎは窓際へ歩いていき、そっと窓を開ける。
春の風がふわりと入り込み、髪をやさしく揺らした。
下の校庭では、もう部活動が始まっているらしい。
遠くから、掛け声やボールの音が聞こえてくる。
どこかで吹奏楽の音もしていた。
まだまとまりきらない演奏が、逆に新学期らしくて、うさぎは少しだけ耳を澄ませる。
新しい学校。
新しい毎日。
新しい選択。
何もかもがまだ始まったばかりで、正解も不正解もわからない。
けれど、何も選ばないまま立ち止まるより、
自分で選んだものに向かって進んでみたいと思った。
たとえそれが、少し不安で、誰もあまり選ばない道だったとしても。
「……出来ることをやってみるよ」
うさぎは静かに言った。
誰かに宣言するというより、自分自身に言い聞かせるような声だった。
マリーが隣で大きくうなずく。
「うさちゃんらしいね」
その言葉に、うさぎは少しだけ笑う。
自分らしい、というのがどんなことなのか、まだ全部はわからない。
でも、誰かの役に立ちたいと思う気持ちだけは、たぶんずっと変わらない。
二人並んで、窓の外を見る。
まだ何も始まっていない。
駅でどんなことをするのかも、
そこにどんな人たちがいるのかも、
自分たちが何を学ぶのかも、まだ知らない。
でも、確かに何かを選んだ。
その小さな選択は、きっとこの先の毎日につながっていく。
どこへ続くのかは、まだわからない。
それでも――
前を向いている。
春の風が、二人の髪をそっと揺らしていた。




