だいじょうぶ、迎えにきたよ
そして、電車は静かに動き出した。
みこはまだ、気づいていない。
その電車が、追兎天神駅には止まらない特急だったことに。
窓の外を流れていく景色は、来た時よりも少し速く見えた。
でも、みこは気にしていなかった。
大きな駅でちゃんと書類を届けられた。
美久宮駅の駅長さんにも「業務お疲れさま」と言ってもらえた。
それだけで胸がいっぱいだったのだ。
「えへへ……」
思わず口元がゆるむ。
うさ姉さま、褒めてくれるかな。
マリーちゃんも、すごいって言ってくれるかな。
そんなことばかり考えていた。
だから最初は、少しおかしいことに気づかなかった。
次の駅に、止まらない。
みこは窓の外を見ながら、ぱちぱちと瞬きをした。
「あれ?」
いつもなら減速するはずの場所を、電車はそのまま通り過ぎていく。
ホームが見えたと思った次の瞬間には、もう後ろへ流れていた。
みこは首をかしげる。
「……つぎかな」
小さく呟いて、また座り直す。
でも、その次も止まらなかった。
ひとつ、ふたつ。
駅のホームが見えては、すぐに後ろへ消えていく。
そこでようやく、みこの胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
「……あれ?」
今度は、さっきより少しだけ小さい声だった。
みこは窓の外と車内の案内表示を見比べる。
見たことのない駅名が流れていく。
聞き慣れないアナウンスが流れる。
追兎天神駅の名前が、なかなか出てこない。
「……なんで?」
胸の奥が、きゅっと縮こまる。
おかしい。
変だ。
何かが違う。
みこは自分のスカートの裾をぎゅっと握った。
周りの乗客たちは、誰も騒いでいない。
当たり前みたいな顔で座っている。
そのことが余計に、みこを不安にした。
自分だけが分かっていない。
自分だけが、取り残されているみたいだった。
アナウンスが流れる。
でも、早くてよく聞き取れない。
知っている駅名も出てこない。
みこの喉が、からからになった。
「……どうしよう」
やっと出た声は、息みたいに小さかった。
近くの大人に聞けばいい。
駅員さんに聞けばいい。
そうすれば、たぶんすぐに分かる。
頭では、それが正しいと分かっていた。
でも――
まかせてよ。
朝、自分でそう言った。
大丈夫だって、胸を張った。
うさ姉さまにも、駅長さんにも、心配しないでって顔をした。
それなのに。
ここで「わからないです」なんて言ったらどうなるだろう。
ちゃんとできると思ってもらいたかったのに。
任せてもらったのに。
そう思うと、どうしても声が出なかった。
聞かなきゃ。
でも、聞けない。
助けてって言わなきゃ。
でも、言いたくない。
言ったら、ちゃんとできなかったことになってしまう気がした。
そんなこと、きっとないのに。
みこはもう、それ以上動けなくなっていた。
やがて電車は、大きな駅に止まった。
人がたくさん乗り降りする。
ホームも広い。
でも、追兎天神駅ではない。
みこはおそるおそる立ち上がる。
このままずっと乗っていたら、もっと遠くへ行ってしまうかもしれない。
それだけは、なんとなくわかった。
だから、降りる。
それしかできなかった。
ホームへ降り立つと、電車はすぐに発車していった。
その後ろ姿を、みこはただ見送る。
ひゅう、と風が吹く。
知らない駅。
知らない人たち。
知らない音。
大きな案内板も、行き交う人の流れも、みこには全部難しく見えた。
「……ここ、どこ」
ぽつりと呟く。
もちろん、答える人はいない。
みこはきょろきょろと辺りを見回した。
駅名は書いてある。
でも、見たことがない名前だった。
帰り方を聞けばいい。
駅員さんのところへ行けばいい。
それも、頭ではわかる。
でも足が動かない。
自分で帰るって、決めたから。
任された業務を、ちゃんと終えて帰るって、決めたから。
ここで誰かに頼ったら、ぜんぶ失敗になる気がした。
みこはホームのベンチへ向かって、ちょこんと座った。
制服の裾をそろえて、膝の上で手をぎゅっと握る。
胸の中では、心臓がずっと落ち着かない。
でも、泣かない。
泣いたら、もっと困る気がした。
泣いたら、本当に何もできなくなりそうだった。
だから、じっとする。
考える。
たぶん、少し待てば分かるかもしれない。
たぶん、次の電車で戻れるかもしれない。
そんな“たぶん”だけを握りしめて、みこは動けなかった。
時間が過ぎていく。
ホームの明るさが少しずつ変わっていく。
人の流れも、昼とは違うものになっていく。
みこは何度か時刻表を見上げたけれど、やっぱりよく分からなかった。
聞けばいいのに。
その一歩が、どうしても出ない。
その頃。
追兎天神駅では、うさぎが時計を見て小さく眉を寄せていた。
「……遅いね」
マリーもホームのほうを見たまま、珍しく静かだった。
「うん。そろそろ帰ってきてもいい頃じゃない?」
「だよね……」
うさぎの胸の中で、朝からあった小さなざわめきが、少しずつ重くなっていく。
だいじょうぶかな。
ちゃんと戻れてるかな。
考えれば考えるほど、嫌な想像が浮かんでしまう。
駅長も様子に気づいたらしく、事務所から出てきた。
「まだ戻っていないのかい?」
「はい……」
うさぎが答える。
駅長はすぐに美久宮駅へ連絡を入れた。
少しして返ってきた答えに、うさぎの顔色が変わる。
「書類は、もうちゃんと届いてるそうです」
「じゃあ、そのあと……」
マリーが言葉を切る。
駅長は受話器を置き、少し厳しい顔になった。
「今のところ、美久宮駅を出たあとの足取りはわからない」
その一言で、うさぎの胸がひやりと冷たくなる。
ちゃんと届けられた。
そこまでは、よかった。
でもそのあと、みこちゃんは――
うさぎは無意識に手を握りしめた。
朝の、あの笑顔。
まかせてよ、と胸を張った顔。
困ったら人に聞いていいんだからね、と言った時の、あの元気すぎる“うん”。
嫌な予感が、少しずつ輪郭を持ち始める。
「みこちゃん……」
小さく名前を呼んだ、その時だった。
事務所の電話が鳴った。
駅長がすぐに受話器を取る。
短いやり取りのあと、その表情が変わった。
「……そうですか。ありがとうございます。はい、こちらで対応します」
受話器を置く。
うさぎもマリーも、息をのんで駅長を見た。
駅長は静かに言った。
「遠くの駅から連絡があった。みこちゃんを保護しているそうだ」
「……っ」
うさぎの肩から、少しだけ力が抜ける。
見つかった。
でも、安心しきるにはまだ早い。
どんな顔でいるんだろう。
どれくらい不安だったんだろう。
うさぎはマリーに真顔のまま言う。
「迎えに行こう」
「うん」
マリーはすぐに頷いた。
迷いはなかった。
駅長も小さくうなずく。
「先方には、こちらから迎えに行くと伝えておく」
「お願いします!」
二人はすぐに電車へ向かった。
夜の車内は、朝とはまるで違って見えた。
窓の外は暗く、ホームの明かりだけが流れていく。
マリーは珍しく静かだった。
うさぎも、膝の上で手を握ったまま何度も同じことを考えている。
もっと早く気づけたかもしれない。
朝、止めたほうがよかったのかもしれない。
やっぱり一緒に行けばよかったのかもしれない。
そんな考えばかり浮かんでくる。
でも今は、後悔している場合じゃない。
行く。
迎えに行く。
それだけが、うさぎを前へ向かせていた。
やがて電車が止まる。
降りた先の駅は、知らない夜のにおいがした。
駅員さんがすぐに気づいて、こちらへ歩いてくる。
「追兎天神駅から来られた方ですね」
「はい!」
うさぎが答える声は、少しだけ震えていた。
駅員さんはうさぎたちを駅事務室の方へ案内した。
「あちらの駅事務室にいます」
その言葉を聞いた瞬間、うさぎは駆け出していた。
駅事務所の隅に、小さな背中があった。
制服姿のまま。
膝の上で手をぎゅっと握って。
うつむいたまま、じっと座っている。
「みこちゃん!」
その声に、みこの肩がびくっと震えた。
ゆっくりと顔を上げる。
そこにいたのは、うさぎだった。
その隣には、マリーもいる。
一瞬、みこの目が大きく開く。
夢みたいに見えた。
「……うさ、姉さま……?」
小さな声だった。
うさぎはそのままみこの前にしゃがみこむ。
そして、迷わず言った。
「だいじょうぶ。迎えにきたよ」
その一言で、みこの顔がくしゃっと崩れた。
ずっと我慢していたものが、いっぺんにあふれる。
「……っ、う……」
声にならない。
泣いちゃだめだと思っていた。
ちゃんと帰らなきゃと思っていた。
ひとりでなんとかしなきゃと思っていた。
でも、本当はずっとこわかった。
知らない駅で。
知らない人たちの中で。
どうしたらいいか分からなくて。
でも、助けてって言えなくて。
「ご、ごめんなさい……っ」
やっと出た言葉は、それだった。
「ちゃんと、できるって……おもって……」
涙がぽろぽろこぼれる。
「でも、わかんなくなって……でも、聞けなくて……」
うさぎは何も責めなかった。
ただ、そっとみこの手を握る。
あの日と同じように。
やさしく、あたたかく。
「うん」
それだけを返す。
「こわかったね」
その言葉で、みこの涙はもっとあふれた。
「……う、うぇ……っ」
もう我慢しなくてよかった。
うさぎが迎えにきてくれた。
マリーも一緒にいる。
それだけで、張りつめていたものが全部ほどけてしまう。
マリーも、しゃがみこんでみこの顔をのぞき込んだ。
「みーちゃん、ばかー」
その言い方は、ぜんぜん怒っていなかった。
むしろ泣きそうなくらい、ほっとした声だった。
「心配したんだからね」
「……うぅ……ごめんなさい……」
「でも、ちゃんと書類届けたのはえらい」
「……え」
みこが涙の中で目を瞬く。
マリーは、ぐしゃっと笑った。
「そこまではちゃんとできたじゃん」
その言葉に、みこの涙がまたこぼれる。
失敗した。
迷惑をかけた。
もうだめだと思っていた。
でも、全部だめだったわけじゃないと、今はじめて思えた。
うさぎは、みこの目を見てやわらかく言う。
「帰ろう、みこちゃん」
「……はい……」
今度の返事は、とても小さかった。
でも、さっきまでとは違う。
ひとりじゃない返事だった。
帰りの電車の中で、みこはうさぎの肩にこてんともたれて眠ってしまった。
安心したら、急に力が抜けたのだろう。
マリーはその様子を見て、小さく笑った。
「ほんとにがんばってたんだね」
うさぎは眠るみこの髪をそっとなでる。
「うん」
それだけ答えて、窓の外を見た。
暗い夜の向こうに、少しずつ見慣れた景色が戻ってくる。
今日のことは、たぶんみこちゃんにとって忘れられない一日になる。
きっと失敗だった。
きっと、こわかった。
でも、それだけじゃない日にしたい。
ちゃんと帰ってこられた日。
迎えに行けた日。
ひとりじゃないって、もう一度知れた日。
追兎天神駅に着いた時、ホームの空気はもうすっかり遅い時間のものになっていた。
でもその夜、みこの手はもう冷たくなかった。




