落とし物は、冷蔵庫の中
追兎天神駅の事務所には、小さな冷蔵庫がある。
飲み物を入れておいたり、駅員さんたちが交代の合間に使ったりする、ごく普通の冷蔵庫だ。
でも、今日のそれは、ちょっとだけ特別だった。
「ねえ、うさちゃん」
マリーが、いかにも意味ありげな声で言った。
「……なに?」
うさぎは書類を整えながら返事をする。
その横で、みこはほうきを抱えたまま、きょとんとしていた。
マリーはにやにやしながら、部屋のすみにある冷蔵庫を指さす。
「あの中、気になる?」
「……別に」
うさぎの返事は、いつも通り落ち着いていた。
けれど、その目がほんの一瞬だけ冷蔵庫に向いたのを、マリーは見逃さなかった。
「ふーん?」
「なによ」
「いやべつにー?」
そう言いながらも、顔はぜんぜん“べつに”ではない。
明らかに何か面白がっている顔だった。
みこは二人のやりとりを見比べてから、そっと冷蔵庫のほうへ目を向けた。
「あの中に、なにかあるの?」
「あるよー」
マリーは待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「落とし物のケーキ」
「ケーキ!?」
みこの目が、ぱっと大きくなった。
反応があまりにも素直で、マリーがくすっと笑う。
「そう。ケーキ。しかもただのケーキじゃないんだよ」
「ただのじゃないの?」
「駅員さんが言うにはね、近くの有名なお店のケーキなんだって。いつもすぐ売り切れちゃう、伝説のケーキらしいよ」
「で、伝説……」
みこはごくりとつばを飲み込んだ。
伝説。
その響きだけで、すでにおいしそうな気がしてくる。
うさぎは書類を持ったまま、小さくため息をついた。
「伝説って……大げさでしょ」
「でもほんとに人気なんだって。予約しないと買えない日もあるって言ってたよ」
「へえ……」
そう返事をしたうさぎの声が、ほんの少しだけやわらかくなった。
それを聞いて、マリーの口元がまたにやっとする。
「うさちゃん、ちょっと気になってるでしょ」
「だから違うって」
「じゃあ見なくていいの?」
「見ないとは言ってないわよ」
「気になってるじゃん!」
「気になってるわけじゃなくて、確認しようと思っただけ!」
そう言いながら、うさぎは自分で少しだけしまった、と思った。
マリーがぱっと笑う。
「ほらー!」
「もう……」
みこはそんな二人を見ながら、そろそろと聞いた。
「ケーキって……冷蔵庫に入ってるの?」
「うん。駅に届いた落とし物だからね」
うさぎが答える。
「箱に入ってたし、傷まないようにって駅長さんが冷蔵庫で預かることにしたの」
「そっか……」
みこは素直に頷いた。
たしかに、落とし物だ。
しかもケーキなら、ちゃんと保管しないといけない。
でも、ケーキ。
しかも伝説。
そう思うと、みこの視線も自然と冷蔵庫のほうへ向かってしまう。
事務所の中には、しばらく妙な静けさが流れた。
誰も冷蔵庫を開けようとは言わない。
でも、なんとなくみんなその存在を意識している。
書類を見ているふりをしながら、うさぎの目が一瞬そちらへ行く。
ほうきを立てかけ直したみこも、そっと横目で見る。
マリーはそんな二人を見て、にやにやしている。
「……なんでみんな、意味もなく冷蔵庫の周りに集まってるの?」
うさぎが言った。
その時にはもう、三人とも冷蔵庫の近くに立っていた。
「意味あるよ」
マリーが真顔で言う。
「ケーキの気配を感じてるの」
「気配ってなに」
「なんかこう……おいしそうなオーラ?」
「マリーちゃんの言ってること、よくわかんない……」
みこが首をかしげる。
でも、そのあとでこっそり言った。
「でも、ちょっとだけわかるかも」
「みこちゃんまで……」
うさぎはあきれたように言うけれど、自分もそこに立っているのであまり強くは言えない。
冷蔵庫の中にあるのは、白くてつやつやした箱だった。
駅員さんが確認のために少しだけ開けた時に見えたらしく、
中にはいちごがのった丸いケーキが入っていたという。
それを聞いた時から、うさぎの頭の片すみに、ふわふわした生クリームと赤いいちごの絵が住みついてしまっていた。
もちろん、落とし物だ。
勝手にどうこうしていいものじゃない。
そんなことは、ちゃんとわかっている。
わかっているけれど。
「……賞味期限、今日じゃないんだよね」
ぽつりと、みこが言った。
マリーがすかさず乗る。
「明日まで、だったよね」
「……そうだけど」
うさぎは小さく答える。
「じゃあ、落とし主が来なかったらどうなるんだろう?」
みこの素朴な疑問に、事務所の空気がまた少しだけ静かになった。
その問いには、うさぎもちょっと気になっていたのだ。
駅の落とし物には決まりがある。
でも、ケーキみたいな生ものはずっと置いておけるわけじゃない。
「どうするんだろうね」
マリーが腕を組む。
「さすがにずっとは置けないよね」
「そうだよね……」
みこも真面目な顔で頷く。
それから、ふと少しだけ声をひそめた。
「……捨てるくらいなら、食べちゃう?」
うさぎが勢いよく振り向いた。
「だ、だめだよ!」
思ったより大きな声が出てしまって、自分でも少しびっくりする。
みことマリーも目をぱちくりさせた。
「えっ」
「いや、その……」
うさぎは慌てて言い直す。
「勝手に食べるのはだめでしょ。落とし物なんだから」
「でも、明日までなんだよ?」
マリーが言う。
「お腹こわしちゃうよ?」
「そういう問題じゃないよぉ……」
うさぎは額に手を当てた。
たしかに気になる。
たしかに、もったいないとも思う。
でも、だからって食べていい理由にはならない。
そう、頭ではきちんとわかっているのに、自分がこんなに必死に否定していることが、逆に少し恥ずかしかった。
マリーがそんなうさぎを横から見上げる。
「……うさちゃん、本当は食べたいんでしょ」
「ち、違うわよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ冷蔵庫、もう見なくて平気?」
「見ないとは言ってないってば!」
「やっぱり気になってるじゃん!」
「もう、マリーちゃん!」
みこがくすっと笑う。
「うさ姉さまも、甘いの好きなの?」
その問いに、うさぎは少しだけ言葉に詰まった。
「……好きだけど」
「わあ」
みこの目がきらきらする。
「なんか、ちょっとかわいい」
「かわいいってなに……」
うさぎが小さく頬を赤くすると、マリーがますます楽しそうに笑った。
結局その日は、何かと理由をつけて三人とも何度か冷蔵庫の近くへ行った。
飲み物を取りに行ったり。
雑巾をしまいに行ったり。
特に理由もないのに前を通ったり。
でももちろん、ケーキはそのままだった。
そして翌朝。
「……確認する?」
と、最初に言い出したのはマリーだった。
うさぎはすぐには返事をしない。
でも、しないだけで、止めもしない。
みこはきょとんとしながらも、なんとなくいっしょについてきた。
三人で冷蔵庫の前に立つ。
なぜだろう。
別に悪いことをするわけじゃないのに、少しだけどきどきする。
マリーが冷蔵庫の取っ手に手をかけた。
「開けるよ?」
「……うん」
うさぎが小さく頷く。
みこも、なぜかごくりとつばを飲み込んだ。
冷蔵庫の扉が開く。
ひんやりした空気が流れ出る。
そして――
「あれ?」
箱が、ない。
昨日までそこにあった白いケーキの箱は、きれいさっぱり消えていた。
三人はそろって中をのぞき込む。
ない。
ほんとうに、ない。
「……なくなってる」
みこがぽかんと呟く。
「ほんとだ」
マリーも目を丸くした。
その時、ちょうど事務所の奥から駅長が出てきた。
「ああ、ケーキなら昨夜のうちに持ち主が取りに来たよ」
三人がいっせいに振り向く。
「えっ」
駅長はやわらかく笑った。
「娘さんの五歳のバースデーケーキだったようだね。見つかって、ずいぶん安心していたよ」
その言葉を聞いた瞬間、事務所の空気がふっと変わった。
五歳の女の子の、誕生日ケーキ。
それを思い浮かべたら、さっきまで胸の中にあった“気になる”とか“惜しい”とかいう気持ちが、少しだけちがう色に変わっていく。
「……そっか」
うさぎが小さく言う。
「見つかってよかった」
その声は、ほんとうにそう思っている声だった。
マリーも頷く。
「うん。ちゃんと戻ってよかったね」
みこも、ほっとしたように笑った。
「お誕生日、できたのかな」
「きっとできたよ」
うさぎが言う。
「間に合ってたらいいね」
しばらく三人は、もう空っぽになった冷蔵庫の中をなんとなく見ていた。
さっきまであんなに気になっていたのに、
いざなくなってみると、胸の中には不思議と静かなあたたかさが残っていた。
でも、その静けさを破るように、マリーがふっと口元をゆるめた。
「でもさ」
「なに?」
うさぎが振り向く。
マリーはじーっと、うさぎの顔を見る。
「うさちゃん、本当は食べたかったんじゃない?」
「へっ……」
変な声が出た。
一拍遅れて、うさぎがぶんぶんと首を振る。
「ま、まさか」
「ほんとに?」
「ほんとに!」
「昨日、冷蔵庫の前いちばん通ってたの、うさちゃんだったよ?」
「ち、ちがうの! それはたまたまで――」
「うさ姉さま、昨日お茶取りに行くたびに冷蔵庫見てた」
「みこちゃんまで!?」
二人に挟まれて、うさぎの顔がみるみる赤くなる。
マリーがけらけら笑う。
みこも、つられてくすくす笑う。
うさぎは「もう……」と小さくため息をついたけれど、本気で怒っているわけではなかった。
だって、見つかってよかったのは本当だから。
それに――
少しだけ惜しかったのも、たぶん本当だった。
追兎天神駅の朝は、今日もやわらかくにぎやかだ。
落とし物のケーキは、ちゃんと持ち主のもとへ戻った。
それがいちばん良いことだと、三人ともちゃんと知っている。
でもそのあとに残る、少しだけ他愛ない気持ちまで含めて。
きっとこういう朝も、やさしい日々のひとつなのだ。




