幸せのボタン
追兎天神駅の朝は、今日もにぎやかだった。
改札の近くを人が行き交って、ホームからは電車の音が聞こえてくる。
そんな中で、みこは今日もぴしっと背筋を伸ばして立っていた。
制服よし。
姿勢よし。
やる気は――もちろん、たっぷりだ。
「よぉし……今日もがんばるぞ……!」
小さく気合いを入れた、その時だった。
「みーちゃん、みーちゃん」
ひょいっと横から顔を出してきたのは、マリーだった。
ふわりと波打つ金髪を揺らしながら、いかにも何か思いついた顔をしている。
「どうしたの、マリーちゃん?」
「ねえ、あのボタン知ってる?」
マリーが指さした先には、駅の柱のそばに取り付けられた赤いボタンがあった。
みこはそれを見て、すぐにうんっと頷く。
「知っているよ。非常ボタンでしょ」
「そうそう、非常ボタン」
マリーはにっこり笑った。
そして、ちょっとだけ声をひそめる。
「押すとね、“非常に”幸せになるんだよ」
「ホ、ホントに!?」
みこの目が、ぱあっと丸くなる。
マリーは大きく頷いた。
「ホントだよ」
「す、すごい……」
「押した人みんな、びっくりするくらい幸せになるんだって」
「び、びっくりするくらい……!」
みこの視線が、じわじわと赤いボタンに吸い寄せられていく。
非常ボタン。
名前だけ聞けば、たしかに“非常に”何かが起きそうではある。
みこはごくりとつばを飲みこんだ。
「そ、それって……押したら、どうなるのかな」
「うーん、わかんない。でも、すっごく幸せになるんじゃない?」
「すっごく……」
みこの頭の中に、いろいろな想像が広がっていく。
おいしいおやつがいっぱい出てくるかもしれない。
お姉ちゃんが急に増えるかもしれない。
うさ姉さまが、今日一日ずっと褒めてくれるかもしれない。
「で、でも……非常ボタンって、勝手に押しちゃだめなボタンなんじゃ……」
「えー、でも幸せになりたくないの?」
「な、なりたい……!」
みこは思わず本音を口にしてしまった。
マリーは満足そうにうんうんと頷く。
「でしょ?」
「で、でも……」
「ちょっとだけだよ。ちょっとだけ押したら、ちょっとだけ幸せになるかも」
「ちょっとだけ幸せ……」
その響きが、妙に魅力的だった。
みこはおそるおそる一歩、ボタンに近づく。
赤い丸いボタンは、じっとそこにあった。
「ほ、ほんとうに……?」
「ホント、ホント」
マリーは真顔で言った。
それが余計にあやしいのに、みこにはもう半分くらい信じる気持ちができあがっていた。
そっと、指を伸ばす。
もう少しで届く。
その瞬間だった。
「だ、だめぇぇぇぇぇっ!?」
駅の奥から、うさぎの声が飛んできた。
次の瞬間には、うさぎがものすごい勢いで駆け込んできていた。
みこの手首をそっとつかんで、ボタンの前でぴたりと止める。
「みこちゃんっ、それ押しちゃだめだよ!?」
「う、うさ姉さまっ」
「非常ボタンは、非常の時だけなの! 幸せのボタンじゃないよ!?」
「えっ」
みこは目をぱちぱちさせた。
ゆっくりと、マリーを見る。
マリーはにこっと笑った。
「えへへ」
「えへへ、じゃないよー!」
うさぎが珍しく声を上げる。
でも怒っているというより、ものすごく慌てているだけだ。
みこは赤いボタンを見て、うさぎを見て、もう一度マリーを見た。
「……じゃあ」
「うん」
「幸せのボタンじゃ、なかったの……?」
「うん、ちがうかなぁ」
「かなぁ、じゃないよぉ……」
みこはしゅん、と肩を落とした。
その様子があまりにもわかりやすくて、マリーはつい吹き出してしまう。
「だ、だってみーちゃん、すっごく本気で信じるんだもん」
「だって、マリーちゃんがホントだよって……」
「うん、それは言った」
「言ってたよぉ……」
みこは半分泣きそうな顔でうさぎの後ろに隠れた。
うさぎはそんなみこの頭を、そっとなでる。
「もう、大丈夫だよ。押してないから」
「……はい」
「みこちゃん、素直すぎるんだから」
「だ、だって……ちょっと幸せになってみたかったんだもん……」
ぽつりとこぼれたその一言に、うさぎは思わず言葉をつまらせた。
みこは本気だったのだ。
ほんの少しでも幸せになれるなら、押してみたかったのだ。
そう思うと、怒るより先に、なんだか可愛くなってしまう。
うさぎが困ったように笑っていると、マリーが急に胸を張った。
「でもさ」
きらきらした顔で、みこを見る。
「み-ちゃん、今ちょっと笑ったでしょ?」
「え?」
「ほら、うさちゃんもすっごく慌ててくれたし」
「……」
「みーちゃんが笑ったから、ちょっと幸せにはなったでしょ?」
一瞬、みこはぽかんとした。
それから、自分でも気づかないうちに口元がゆるんでいたことに気づいて、はっとする。
「……あ」
「ね?」
「マリーちゃん、それ、うまいこと言ってるみたいでごまかしてるだけじゃ……」
「えへへ、ばれた?」
「ばれてるよぉ」
うさぎがあきれたように言うと、みこもとうとうくすっと笑った。
その笑顔を見て、マリーも満足そうに笑う。
うさぎも、つられて小さく笑った。
追兎天神駅の朝は、今日もにぎやかだ。
非常ボタンは押されなかったけれど。
その前で三人が笑っていたなら、たしかに少しだけ、幸せな朝だったのかもしれない。




