はじまりの朝
朝の光が、やわらかく部屋に差し込んでいた。
薄いレースのカーテンを透かして入ってくる春の陽射しは、まだ少しだけ遠慮がちで、部屋の中をほんのり明るくしている。
夜の名残をわずかに残した空気の中で、時計の針の音と、台所から漂う味噌汁の香りだけが、静かに朝の訪れを知らせていた。
キッチンには、まだ湯気の残る味噌汁。
きれいに並べられた朝食。
焼き魚に、小鉢のおひたし。
それから、つやつやの白いごはん。
派手ではないけれど、ちゃんと整った食卓だった。
いかにも――作った人の性格が、そのまま出ているみたいに。
制服姿の少女、追川うさぎは、少し離れたところからその食卓を見渡して、小さくうなずく。
「これで大丈夫かな」
そっと呟く。
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
今日は追兎高校の入学式。
新しい生活が始まる日。
だからといって、急に別の誰かになれるわけじゃないし、昨日までとまるで違う朝になるわけでもない。
うさぎはそんなふうに、少しだけ大人びた気持ちで考えていた。
――でも。
胸の奥が、ほんの少しだけ落ち着かないのも本当だった。
今日から高校生。
その響きは、思っていたよりずっとまぶしい。
制服の袖口を指先で整えながら、うさぎはもう一度流し台を見る。
洗い物は残っていない。
コンロの火も消えている。
急いでいたつもりはないのに、気づけばいつも通りきっちり朝の支度を済ませていた。
昔からそうだ。
落ち着かない時ほど、手を動かしているほうが安心できる。
お椀の位置を少しだけ直して。
箸置きをそろえて。
椅子を軽く引き直して。
最後に時計を見る。
「……あ」
思わず声が漏れた。
「もうこんな時間」
少しだけ慌てて、エプロンの紐をほどく。
外して、畳んで、いつもの場所へ掛ける。
その動作まで妙にきっちりしているあたりが、いかにもうさぎらしかった。
玄関へ向かおうとした、その時。
廊下の奥から、ぺたぺたとゆっくりした足音が聞こえてきた。
「……ふぁ……」
小さなあくび混じりの、眠たげな声。
うさぎが振り向くと、そこには、まだ少し夢の中にいるみたいな顔をした雪乃が立っていた。
長い髪を片手で軽く整えながら、ぼんやりした足取りでこちらへ歩いてくる。
「おはよ、お姉ちゃん」
うさぎが声をかけると、雪乃は半分閉じたような目のまま、ふわっと笑った。
「……はぁい……おはよ、うさちゃん……」
起きているのか寝ているのか、よくわからない返事。
でも、そのゆるやかな声を聞くと、うさぎは少しだけ肩の力が抜けた。
「朝ごはん、作ってあるから食べておいてね」
「うん……ありがと……」
「ちゃんと温かいうちに食べてよ?」
「たぶん……」
「たぶん、じゃだめだよ」
うさぎが少し呆れたように言うと、雪乃は困ったように笑った。
「だって、まだちょっと眠いんだもの……」
その言い方がおかしくて、うさぎは思わず小さく笑ってしまう。
高校の入学式の朝だというのに、家の中の空気はいつも通りで、拍子抜けするくらい穏やかだった。
でも、うさぎはその“いつも通り”が好きだった。
何か大きなことが始まる日でも、帰る場所の空気が変わらないこと。
朝起きれば、お姉ちゃんがいて。
台所に立てば、いつもの食器があって。
廊下を歩けば、床が少しだけ鳴ること。
そういうものに守られて、自分はここまで来たのだと、うさぎは言葉にしなくても知っていた。
玄関へ向かいながら、うさぎは軽くバッグの中身を確かめる。
ハンカチ。
ティッシュ。
筆記用具。
書類。
定期入れ。
大丈夫。
忘れ物はない。
鏡の前で髪を手早く整え、襟元を確認する。
新品の制服は、まだ少しだけ身体になじんでいなくて、肩のあたりがそわそわした。
いつもの自分なのに、少しだけ違う誰かになったみたいだった。
玄関で靴を履きながら、うさぎは小さく息をつく。
緊張しているのかな、と自分で思う。
たぶん、そうだ。
でも、それを口にしてしまうほど子どもでもいたくなかった。
今日から高校生なのだ。
少しは、しっかりして見えたい。
そんな気持ちが、背筋をほんの少しだけ伸ばしていた。
バッグを持つ。
ドアノブに手をかける。
ひとつ、深呼吸。
「いってきます」
小さくそう言って、うさぎは家の外へ出た。
朝の空気は少しひんやりしていて、春の匂いが混じっていた。
空は明るいのに、風はまだ少し冷たい。
その温度差が、冬の終わりと春の始まりのあいだに立っているみたいで、今日という日に似合っている気がした。
駅へ向かう道は、見慣れたはずの通学路だった。
古い塀。
角の小さな花壇。
少し離れた場所から聞こえる電車の音。
何度も歩いた道なのに、今日は景色の輪郭が少しだけくっきりして見える。
今日から高校生。
その言葉を胸の中でそっと繰り返すたび、なんとなく足取りまで変わる気がした。
うれしいような。
くすぐったいような。
不安なような。
はっきり名前のつけられない気持ちが胸の中にいくつもあって、それが全部まざりあいながら、うさぎの朝を静かに揺らしていた。
そのまま数歩進んだところで――
「あ」
うさぎは足を止めた。
何かを思い出したように振り返る。
そして次の瞬間、小走りで家へ戻っていた。
玄関のドアを勢いよく開ける。
「……あら?」
リビングから顔を出した雪乃が、少し驚いたように目を丸くする。
「どうしたの? 忘れ物?」
うさぎは靴を履いたまま、少し息を弾ませて立ち止まった。
忘れ物ではない。
でも、大事なことを忘れていた気がした。
さきほど家を出るときに「いってきます」は言ったけれど、それだけじゃ足りない気がしたのだ。
高校生になる最初の朝。
新しい世界へ出ていく最初の一歩。
その前に、どうしても言っておきたい言葉があった。
「忘れてた」
そう言ってから、うさぎは一瞬だけ呼吸を整える。
そして、まっすぐ雪乃を見て
「お姉ちゃん、いってきます」
雪乃は、ほんの少しだけ目を見開いて、それからふっと微笑んだ。
「いってらっしゃい」
飾り気のない、いつもの声。
でもその声は、とても優しくて、とても自然で、うさぎの胸の奥にすっと入ってきた。
たったそれだけで、不思議なくらい落ち着く。
ああ、これで大丈夫。
うさぎは小さくうなずいた。
「うん。いってきます」
今度はさっきより、少しだけしっかりした声で言えた。
雪乃はリビングの入り口に立ったまま、やわらかく手を振る。
その姿を見ていると、子どものころから変わらないものが、そこにちゃんとある気がした。
うさぎはもう一度玄関を飛び出す。
今度こそ、本当の出発だった。
再び歩き出した通学路は、さっきよりも少しだけ明るく見えた。
気持ちの問題だとわかっていても、不思議とそう感じる。
角を曲がると、同じような新しい制服姿の生徒たちが少しずつ目につくようになった。
まだ着慣れない制服に包まれて、どこかぎこちなく歩く子。
親と一緒に歩いている子。
友達同士で笑い合っている子。
みんなそれぞれに、今日が新しい朝なのだと思うと、少しだけ心強かった。
その時、背後から元気いっぱいの声が飛んできた。
「うさちゃん、おはよー!」
聞き慣れた声に、うさぎはすぐ振り向く。
そこには、大きく手を振りながらこちらへ走ってくる少女の姿があった。
ふわふわと揺れる金髪も、きらきらした表情も、朝から全力で、見るだけで周りの空気が明るくなるような子。
咲宮マリーだ。
「おはよ、マリーちゃん」
うさぎが言うと、マリーはうれしそうにうんうんとうなずいた。
「うさちゃん! 今年も一緒のクラスだよ!」
息を弾ませながら、それでも満面の笑顔。
あまりにも勢いよく言うので、うさぎはぱちぱちと瞬きをした。
「そうなの? でも、どうして知ってるの?」
するとマリーは、待ってましたとばかりに得意げに胸を張る。
「さっき学校まで走って見てきた!」
うさぎは思わず立ち止まった。
「えっ……もう見に行ったの?」
「うん!」
「朝から?」
「朝から!」
「……もう高校生なんだから、ちょっと落ち着いたら?」
やや呆れ気味に言ううさぎに、マリーはまったく堪えた様子もなく笑う。
「いいじゃん! 元気なのがマリーなんだから!」
「威張って言うことじゃないよ、それ」
「でも、うさちゃんもちょっと気になってたでしょ?」
「……少しは」
「ほらー!」
マリーは勝ち誇ったように指をさす。
その様子があまりに子どもっぽくて、うさぎはつい吹き出してしまった。
「気になってたけど、普通は走って見に行ったりしないの」
「えー、だって待てなかったんだもん。うさちゃんと一緒のクラスだったらいいなーって思って」
その言葉はあまりにもまっすぐで、うさぎは一瞬だけ返事に困る。
照れくさいような、うれしいような気持ちが胸の中でふわりと揺れた。
「……そっか」
「うん! だから見た瞬間、やったー!ってなって、そのまま走ってきた!」
「そのまま?」
「そのまま!」
「ほんとに元気だね……」
「でしょ!」
全然反省していないマリーに、うさぎは苦笑する。
でも、その明るさに救われるのも事実だった。
一人で歩いていたら、きっともう少し緊張していた。
新しい制服。
新しい校舎。
新しいクラス。
楽しみより少しだけ不安のほうが大きかったかもしれない。
でも、隣にマリーがいるだけで、朝の景色が少しやさしくなる。
二人は並んで歩き出した。
新しい制服の裾が、歩くたびにまだ少しぎこちなく揺れる。
けれどそのぎこちなささえ、今日だけの特別なものに思えた。
道の途中、風に乗って桜の花びらが一枚、ひらりと目の前を横切る。
満開にはまだ少し早いけれど、春はもうすぐそこまで来ている。
「高校生かあ」
マリーが、しみじみしたような声で言った。
「ね」
「なんか実感あるような、ないような感じ」
「わかる。朝起きても、急に大人になるわけじゃないし」
「でも制服かわいいよね!」
「そっち?」
「大事だよ! 毎日着るんだから!」
マリーがくるりとその場で軽く回って見せるので、うさぎはあわてて止めた。
「危ないって。転ぶよ」
「だいじょーぶ!」
と言ったそばから少しよろけて、「あっ」と声を上げる。
うさぎはすぐに手を伸ばし、マリーの腕を軽く支えた。
「ほらね」
「……えへへ」
「えへへ、じゃないよ」
「でも、うさちゃんが支えてくれたから平気!」
どこまでも前向きなその言葉に、うさぎは呆れながらも笑ってしまう。
こういうところは昔から変わらない。
元気で、まっすぐで、少しだけ騒がしくて。
でもその明るさに、どれだけ助けられてきたかわからない。
やがて、前方に高校の校門が見えてきた。
朝の光の中に立つ大きな門は、今まで見てきたどの景色よりも少しだけ立派に見えた。
門の向こうには、新しい校舎と、新しい教室と、まだ知らない日々が待っている。
うさぎは一瞬だけ足を緩める。
これから始まる毎日は、どんなふうになるのだろう。
楽しいことばかりではないかもしれない。
うまくいかないことも、悩むことも、きっとある。
それでも、今日ここから何かが始まるのだと思うと、胸の奥が静かに熱を持った。
隣でマリーが、いつもの調子で言う。
「行こっ、うさちゃん!」
その声に押されるように、うさぎは顔を上げた。
「うん」
大きな門をくぐり、新しい世界へ踏み出す。
朝の光の中を、二人の後ろ姿がゆっくりと進んでいく。
まだ少しだけぎこちなくて。
でも、たしかに前を向いた足取りで。
これは、追川うさぎの新しい朝。
そして、やさしい日々がひとひらずつ重なっていく物語の、はじまりの一歩だった。




