迎え入れる家
不動産ポータルサイトに、一軒の空き家が掲載された。
『閑静な住宅街・即入居可・家族向け』
写真の窓辺には、三人の人影。
父と母、そして娘。
彼らは幸せそうに微笑みながら、画面の向こうの「次の家族」を誘っていた。
◆◇◆◇◆
ニュータウンとは名ばかりの、バブルの狂騒とともに忘れ去られたような街だった。
かつて「理想の暮らし」を謳った看板は色褪せ、鉄道の延伸計画など最初からなかったかのような辺鄙なその場所は、今や公共交通機関すら通わない「陸の孤島」のようにも思えた。
私と夫の和彦が、この家へ辿り着いたのは半年前のことだ。
「……やっと、息がつけるね」
引っ越し作業の合間、和彦が絞り出すように言った言葉を今も覚えている。以前住んでいたマンションの耐震偽装が発覚し、私たちは住処とわずかな蓄えのほとんどを失った。そこからは施工者の責任のなすりつけ合いと、住民たちの醜いいざこざだった。
そういった人間関係にうんざりとした私たちにとって、格安で売りに出されていたこの戸建ては、文字通り「救いの手」に見えたのだ。
周囲には、主を失い腐食した「売物件」の看板が立ち並び、異様な不気味さが漂っていた。隣も裏も空き家で、膝まで伸びた雑草は建物に近づくことさえ拒絶しているようだ。しかし、私たちの家だけは違った。庭の植栽はまるで昨日手入れされたかのように整い、外壁も年月を感じさせないほど綺麗に見えた。
「静かでいいじゃないか。二人でやり直そう」
「うん」
「ちょうど、日曜大工の趣味でも始めようと思っていたところだしね」
軽口を言って微笑みを浮かべる和彦に、私は微かな影を感じ取った。自分の不安を押し殺し私を励まそうとしているのだ。彼はいつもそうして私のわだかまりを取り除こうとしてくれる。私も不平ばかり言い続けるわけにはいかない。微笑みを返して家の扉を開く。
山を降りて数十分かけて買い出しに行く不便な生活も悪くない。私には和彦がいる。そして彼も私のことをそう思ってくれているはずだ。だからこの家を選んだのだ。この静寂の中こそ「贅沢な隠居」なのだから。
入居から一か月が過ぎた頃、その平穏は静かに歪んだ。
それは、毎朝玄関ポーチに置かれる、誰かからの「貢物」のようなものだった。最初は片方だけの汚れた軍手だった。それがアゲハ蝶やトノサマバッタなどの昆虫へと変わる。あまりにも正確に同じ位置に置かれていた。気のせいだと言い聞かせるには無理があった。そして近所の子供の悪戯を疑う。だが、この街に来てからは子供の声など聞いていない。
不気味に思いつつも、箒で掃いて集積場のゴミ箱に捨てることを繰り返した。
しかし、次第にネズミ、モグラ、そしてある朝には首の折れた野良猫へと、大きなものへと変わっていった。
「……誰が、何の目的でこんなことを」
最初のうちは野良猫が運んでいるのだろうと取り合ってくれなかった和彦も、猫の死体を見てさすがに眉間に皺を寄せる。
そして玄関に防犯カメラを設置することになった。けれど、新たな死体が転がっていても、映像には何も映っていない。ただ、砂嵐のようなノイズが走る一瞬の間に、それは忽然とそこに「在る」のだ。
さらに、家の中でも異変が起こり始めた。寝る前に確実にかけたはずの鍵が、朝になると解錠されている。そういった日には必ず家の前に「貢物」が置かれているのだ。防犯性の高い最新のものに付け替えても、翌朝には開いていた。
ある日、数少ない近隣住民である老人が家の前を通りかかる。私はこの家になにかいわくがあったのではと、できるだけ平静を装って尋ねた。笑い飛ばされるかと思ったが、老人は静かな眼差しで私たちの家を眺めた。
「……その家は、あなたが考えているような事故物件じゃない」
そうして大きく深呼吸をするように息をはいた。
「ただ、その家に暮らしていた住民には夢があって、その残滓が残っているのだろうな」
よくわからない答えだった。老人の話によれば、かつてこの街では住民が次々と姿を消した時期があったという。その人々は皆、大きな借金を抱えていた。バブル経済が弾け、家は資産価値を失い、払いきれない借金だけが残ったのだ。この家に最初に暮らしていた一家もある日忽然と姿を消したという。警察が一家の行方を追ったが、霧の中を彷徨うようで足がかりさえも掴めなかった。そしてある日現れた親族により、一家は死亡したと届け出がされ、この家は売却されたという。
「町が、あいつらを逃がさなかったんだ」
不気味な一言を残して去っていく老人の背中は、この街の歪みそのもののように思えた。
異変は家の中へと忍び込んでくる。私たちは主に一階で生活し、二階へ上がることはない。その階段からい草の香りが漂ってきたのだ。
顔を見合わせたあと、和彦は階段を登っていく。私もおそるおそるその背中を追った。
二階の和室の扉を開くと、その香りは強く濃い匂いとなって鼻をつく。そしてその光景に目を見張った。いつの間にか畳が真新しく張り替えられていた。
私たちはずっと家にいる。散歩をするとしてもせいぜい一時間ほどだし、買い物に行くにしても一緒に行動をする。お互いの目を盗んでこのような作業ができるはずもない。
だけど、私は和彦を疑わずにいられなかった。彼のいたずらだと考えれば辻褄が合う。これまでの不穏な出来事は彼以外にできないのだ。そう思い彼を見つめると、彼もまた見開かれた黒い目で私をじっと見つめ、そしてその焦点は心の深い奥底に合わせようと瞳孔を開かせていた。
「あなた……」
「いや、わかっている……、でも、そんなはずはないんだ」
彼は首を振ると、自分に言い聞かせるように呟いた。
そしてその日の夜、冷蔵庫の食料が二人で消費する量を超えて減っていることに気づく。和彦に尋ねようとした。しかし、それはためらわれた。またあの目で見つめられる。いや、またあの目で和彦を見つめてしまう。そんな自分も和彦も嫌だ。彼はどんなときでも私の心強い味方なのだ。
さらに深夜、私たちの寝室のすぐ外の廊下が、めしりめしりと音を立てた。もちろん和彦は隣で寝ている。見た目は綺麗でも、古い家だからしかたがない。そう思って目を閉じたが、その物音は扉の向こうで何度も往復をしていた。
「和彦、お願い、もうここを出よう」
翌朝、私は和彦に訴えた。「町が、あいつらを逃がさなかったんだ」といった老人の言葉が頭から離れない。この町が、いやこの家がなにか恐ろしい生き物のように思えた。とっくに鄙び、本来なら朽ちていたはずなのに、この町は意思を持っている。町が建てられた頃の、光あるニュータウンにしようと意思を持っているのだ。そして、足らない住民をなにかで補おうとしているのだ。
ポーチに置かれた死体は貢物ではなく、この町の「住民」ではないのか。
もちろん、このような妄想は和彦に言えない。でも、同じ目で私を見た和彦なら、わかってくれるはずだ。
「……そうだな。お前のいうとおりだ。この町は私たちの終の家としては寂しすぎる」
そう言って力なく笑った。
その次の日。
玄関のポーチに、指サックのようなものが落ちていた。いつもの場所だ。何気なく拾い上げて凍りつく。それには爪がついていた。和彦は「逆剥けがひどくてね」と言って絆創膏を貼っていた。それが巻かれていた。ゴムとはいえない弾力があり、そしてまだ生暖かかった。思わず投げ捨てると、タイルに赤いシミがついた。
喉が裂けるような悲鳴を押し殺し、和彦を呼びに走った。だが、家の中に彼の姿はなく、車も消えていた。狂ったように警察へ電話したが、担当者の声はあくびを噛み殺すように間延びしていて、ひどくのんびりとしたものだった。
「まだ、捜索願いをだすほどのことでもないでしょう。そのうち戻ってくるんじゃないですかねぇ。ああ、指のようなものは捨てないで置いておいてください。後ほど回収に伺いますので」
「だ、だけどっ」
たどたどしく自分の状況を繰り返すも警察の態度は変わらなかった。
私はいらいらして声を荒らげようとして、ぴたりと止める。これ以上話し続けても、間延びした応答を繰り返す警察官には通じるようには思えなかった。そして、状況を正しく伝えても、私が錯乱していると疑うに違いない。そうなると状況はもっと悪くなる。私は諦めて通話を切った。
そして唇を噛み締める。こんな状況なのになにもできない。この家に取り込まれようとしている。そんな絶望感が込み上げ、嘔吐しそうになる。とにかく和彦を探さなくてはならない。そう思って顔をあげたそのときである。ふとリビングの棚に飾ってあったポートレートが目に映る。
和彦と私の二人きりだったはずの写真に、見知らぬ人物が写り込んでいる。私は首をかしげポートレートを取り上げた。そのシルエットは子供のように思えた。ただ、そこにはピントが合っておらず表情も服装も鮮明ではなかった。
翌朝、和彦が戻ってくることはなかった。
私は眠れないまま夜を越え、疲れ切っていた。漫然と家事をこなし、玄関の扉を開く。和彦がいつ戻ってきてもいいように鍵を開けておいたのだ。だが、そんなことを意識する必要はなかったのかもしれない。
そんな擦り切れかけた気持ちに冷水を浴びせられたかのような衝撃だった。
ポーチに置かれているものを見て目を瞠る。二つの「貢物」が置かれていた。人の一部のように見えたが、私はもう直視することができない。和彦のものであるはずがない。そう信じ、乱暴に箒で掻き込むように袋に詰め、集積場のゴミ箱へ投げ捨てた。
鉄の蓋を乱暴に閉め、その騒音に自分で驚く。そして、周囲が不自然なほどに静かだったことに今さらながら気がついた。風もなく、草木が揺れる音も鳥の声もない。音が消えたというより、町が聞き耳をたて私の物音を聞き取ろうとしているようだった。
逃げなきゃ。でもどこへ。その問いかけを幾度も繰り返す。それは海岸に打ち寄せる波のように私の心を削り取っていく。そういえば、あの写真も海に旅行に行った時のものだったと、リビングの棚に視線を送る。
昨日はぼやけてはっきりとしなかった人物はしっかりと私たち夫婦の隣に並んでいた。小学生くらいの娘だった。当然のような顔をして、私たちと一緒に微笑んでいた。
「……誰?」
声に出した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
問いが間違っている。正すべきは「誰」ではない。
――私たちは、いつから「二人」だと思い込んでいたのか。
台所に、見慣れないコップが一つ増えている。違う。最初から三つ並んでいたのだ。
洗面所に立てられた、小さな子供用の歯ブラシ。
二階の和室は、彼女のために買った新品のランドセルと勉強用の机。
慌てて首を振る。違う。間違っている。
これ以上はダメだ。本当に逃げなければならない。
そう思ったはずなのに、足が動かない。いつの間にか、小さな手がぺたりと私の腰に触れていた。その手のひらが何かを握りつぶした瞬間、ぷつんと切れた音がした。そして誰のものとも知れぬ記憶が流れ込んできた。砂のようにザラザラと粒度は荒く、ただただ不快で不鮮明だった。しかし、写真に映った砂浜のように綺麗に慣らされていく。
ここは終の棲家だ。
そう決めたのは、私自身だった。和彦が私を気遣って勧めてくれたのだ。
玄関の鍵が、背後で静かに閉まる。
「ただいま。遅くなってごめん」
懐かしい声がした。和彦だ。違う。「彼女」の父親が帰ってきたのだ。私は手にしていた写真を静かに棚に戻した。
窓の外には、相変わらず荒廃したニュータウンが広がっている。けれど、私たち一家は違う。この家だけは三人の息吹がある。
写真の中の三人は、永遠に変わることのない微笑みを浮かべていた。




