2話 吹雪の中の出会い
猛吹雪の中、ヒナタとユズは文字通り手探りで進んでいた。
ヒナタの顔は雪と凍った息で真っ白になり、もはや文句を言う気力すら失せかけていた。
「ユズ……本当に、この先なんだろうな……。もう、俺、限界だ……。どこか、洞窟とか、休めるところはないか?」
ヒナタの声はか細く、風にかき消されそうになる。
ユズはそんなヒナタを気にする様子もなく、時折立ち止まっては、雪に埋もれた道の痕跡を探すように目を凝らしている。
彼女の小さな体からは、不思議と冷気を感じさせない。
「洞窟でございますか。承知いたしました。少々お待ちを」
ユズはそう言うと、目を閉じ、何かに耳を澄ませるように集中した。
数秒後、彼女は目を開き、ある方向を指差した。
「あちらに、安全な洞窟がございます。モノの声が、そう申しております」
「へぇ……便利なもんだな、その能力」
「全てのモノの声が聞こえるわけではありませんが」
ヒナタは感嘆の声を漏らし、ユズが指差す方へと足を進める。
ようやくたどり着いた洞窟は吹雪から身を守るには十分な広さがあった。
ヒナタはリュックから簡易調理道具を取り出し、暖を取るためにパパっと手際よくご飯を作り始めた。
今日のメニューは、インスタントラーメンをベースに、持参した乾燥野菜と干し肉でアレンジしたものだ。
凍え切った体には、温かいものが一番効く。
鍋に湯が沸き、具材が煮え立ち、食欲をそそる香りが洞窟内に充満し始めた、その完成間際のことだった。
洞窟の入り口の方から、外の空気とは明らかに違うキンと冷たい空気が流れ込んできた。
同時に、涼やかで美しい声が響く。
「……美味しそうな匂い」
ヒナタとユズは、思わず身構えた。
入り口には、白い着物をまとった、透き通るような肌の女性が立っていた。
その髪は白と黒の混じり合った不思議な色で、年齢はヒナタと同じくらいか少し下だろうか、17歳ほどの印象だ。
その美しさは、まるで雪の精が具現化したかのようだった。
「ごめんなさい。このような場所に、人がいるとは思いませんでした。私はシズクと申します」
女性は静かにそう言って頭を下げた。
ヒナタは彼女の纏う空気に、ある種の妖怪の気配を感じ取っていた。
「俺はヒナタです。こっちはユズ。妖怪飯のレシピを探して旅をしてるんだ」
ヒナタが自己紹介をすると、ユズも軽く会釈する。
シズクはヒナタの言葉に、わずかに眉を上げた。
「妖怪飯、ですか……」
「はい! ヒナタさん!わたくしたち雪女の妖怪飯のレシピに近づきました!」
ユズが興奮気味に言うと、シズクは目を丸くした。
ということは、やはりこの人は雪女なのだろう。
ヒナタは、ラーメンを器によそいながらシズクに声をかける。
「よかったら、シズクさんもどうですか? 温かいですよ」
ユズもシズクに器を差し出す。
「わたくしたちのご飯でございますが、よかったらお召し上がりくださいませ」
シズクは少し戸惑った様子だったが、やがて差し出された器を受け取った。
「ありがとうございます……」
シズクは一口食べると、ふわりと小さな笑みを浮かべた。
ヒナタはそんなシズクを見ながら自分たちの旅の目的を説明した。
幻の妖怪飯のこと、各地に伝わる妖怪飯を集めていること。
「なるほど……幻の妖怪飯、ですか。それは聞いたことがありませんが、私たち雪女に伝わる妖怪飯のレシピなら、この近くにある集落の跡地に眠っています」
シズクは静かに言った。
「もうその集落には、私たち雪女は誰もいませんが……もしよろしければ、明日、私が案内しましょう」
ヒナタとユズは顔を見合わせ、喜びを分かち合った。
「ありがとうございます! 助かります!」
ヒナタが礼を言うと、シズクは再び静かに頭を下げた。
「では、私はこれで。明日、またお迎えに上がります」
シズクはそう言って、来た時と同じように、ふわりと洞窟の入り口から外に出た。
猛吹雪の中に、その白い姿が吸い込まれていく。
ヒナタは、その光景を呆然と見送った。
「すげぇ……。あんな吹雪の中に、躊躇なく出ていくなんて……」
「雪女でございますから」
ユズが呆れたように笑った。
ヒナタは温かいラーメンを食べながら、ふと現実的なことを考えた。
「にしても、寒いし、お風呂にも入りたいし、地面は堅いし……次からは、たとえ僻地でも、ちゃんと宿に泊まれるように計画的に動かないとなぁ」
「まあ。わたくしを襲ってもいいんですよ?」
ユズがニヤニヤしながら言うと、ヒナタは即座にツッコんだ。
「襲うわけないだろ、10歳くらいの女の子を! っていうか、そんなこと言うな!」
ヒナタは顔を赤くして反論し、ユズは楽しそうにクスクスと笑った。
夜が明け、目覚めると外の吹雪は嘘のように晴れ上がり、空には青空が広がっていた。
ヒナタは凝り固まった体を伸ばし、ユズと共に洞窟を出る。
洞窟の入り口には、すでにシズクが待っていた。
彼女は白い肌を雪景色に溶け込ませるように、静かに立っている。
「おはようございます。では、参りましょうか」
シズクはそう言って、先導するように歩き始めた。
一面の銀世界の中を、三人は進んでいく。
道中、シズクは廃墟となった集落について語り始めた。
「かつて、この集落には人間と雪女が共に暮らしていました。人間は私たちに生活の知恵を教え、私たちは彼らに冬の恵みを与えました。妖怪飯も、その交流の中から生まれたのです」
シズクは遠い目をして語る。
「しかし、文明が発達するにつれ、人間たちはより便利な都心へと移り住んでいきました。新たな知恵を得られない場所から雪女もまた、好きな場所へと移動していったのです」
静かに語られるシズクの言葉には寂しさの中に、どこか諦めのようなものが含まれていた。
その時、目の前に巨大な影が躍り出た。
冬眠から覚めたばかりなのか、凶暴な目つきをしたヒグマだった。
ヒナタは思わず
「うわっ!」
と声を上げるが、シズクは微動だにしない。
シズクが片手をかざした瞬間、唸り声を上げて突進してきたヒグマの巨体が、まるで時間でも止まったかのように完璧な氷の塊と化していた。
その透明な氷の中にはヒグマがまさに飛びかかろうとしていた瞬間の形が鮮明に閉じ込められている。
「……さすがにちょっと怖いな、この人」
ヒナタはあまりにもあっけなく、そして美しく凍り付いたヒグマを見て、呆然とつぶやいた。
ユズは何も言わず、ただ静かに頷いている。
やがて、一行は雪に埋もれた集落跡にたどり着いた。倒壊した家屋の残骸や、朽ちかけた鳥居が、かつての賑わいを物語っている。
「レシピは、恐らくこの辺りの蔵に保管されていたはずです」
シズクの言葉を参考に、ヒナタとユズは手分けしてレシピを捜索し始めた。
ユズは、物の声を聴く能力で古びた蔵の奥に隠された巻物を発見した。
「ヒナタ様! 見つけました!」
ほぼ同じタイミングでヒナタも崩れかけた食糧庫の跡で、これまで見たことのない不思議な食材を見つけていた。
それは、まるで雪の結晶がそのまま固まったような、半透明の塊だった。
「これは! 妖怪飯の食材に違いない!」
ヒナタは興奮してそれをバッグにしまう。
三人は合流し、シズクの家の囲炉裏を借りて、早速雪女の妖怪飯を調理することになった。
ヒナタは、未知の食材(「氷華の実」というらしい。)を手に入れたことに喜びを隠せない。
雪解けの清らかな水に、透き通った魚の身をくぐらせ、氷華の実を削って加える。
すると、鍋全体が冷気を帯びながら、虹色の光を放ち始めた。
「こ、これは……!」
ユズは目を丸くして息を呑んだ。
シズクもまた、その光景に驚きを隠せない様子だ。
ヒナタは、前回作った座敷童子の妖怪飯とは比べ物にならないほどの輝きに、自身の高揚を感じていた。
「できた!」
完成した料理は白いスープの中に無数の氷の結晶が踊り、七色の光を放っている。
その輝きは建物の中に満ち溢れ、まるでオーロラが揺らめいているかのようだった。
その時、集落から外れた場所。
崩れかけた社を調べていた女が、集落跡から放たれる強烈な輝きを目撃した。
「あれは……?」
女は細められた瞳の奥に何かを探るような光を宿していた。
三人は完成した妖怪飯を囲み、温かい湯気を吸い込む。
シズクは恐る恐るスプーンで一口食べると、その瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「……ああ、この温かさ。この味……。紛れもなく、私たちが昔食べていた雪女の妖怪飯です……!」
シズクの全身が、温かい光に包まれていく。
まるで心が溶かされていくようだ。
それは、ヒナタが初めて作った座敷童子の妖怪飯の輝きとは比べ物にならないほど強く、そして優しい光だった。
ユズもまた、感動で頬を紅潮させていた。
「ヒナタ様! これは、最高の味でございます!」「よかった……」
ヒナタは、二人の喜びに、心から安堵した。
「ヒナタ、ユズ。もし、幻の妖怪飯のレシピを見つけたら、どうか、私にも食べさせてください。この味を、忘れずにいたい……」
シズクは、懇願するように言った。
ヒナタは力強く頷いた。
「もちろんです! 必ず見つけ出して、最高の妖怪飯を作ってみせます!」
しかし、幻の妖怪飯に関する新たな情報はこの集落では手に入らなかった。
「うーん、次の目的地も決まってないし、ここは寒いし最北だし……とりあえず、南に行こうか、ユズ」
ヒナタが提案すると、ユズは元気よく頷いた。
シズクは、別れを告げる二人を、静かに見送った。
ヒナタとユズの姿が小さくなっていくのを見届けた後、シズクはふと、空を見上げた。
「面白そうだし、少し様子見しようかしら……」
シズクは呟き、その白い瞳の奥に秘めた決意の光を宿していた。