1話 奇妙な客
「はぁ……」
ヒナタは小さな飲食店の厨房で深くため息をついた。
今日ものんびりとした一日になりそうだ。
彼が営む「ひなた亭」は商店街の片隅にひっそりと佇む小さな洋食屋だ。
決して派手さはないが、ヒナタが作る料理はどれも温かみがあり、一度食べれば忘れられないと評判だった。
今日も朝から仕込みに追われている。
山盛りの玉ねぎをリズム良く刻む包丁の音だけが、静かな店内に響いていた。
すると、店の入り口の戸が、控えめに、しかし確かに開く音がした。
「いらっしゃいませー」
思わず声を出して顔を上げると、そこに立っていたのは、見慣れない小さな女の子だった。
年の頃は10歳くらいだろうか。
黒髪のおかっぱ頭に大きな黒い瞳。
まるで時代劇から飛び出してきたかのような、古風な着物を身につけている。
こんな時間に子供が一人で?
とヒナタは不思議に思った。
「あの、お一人ですか? お父さんやお母さんは?」
「いいえ、一人でございます」
透き通るような声で、その子から答えが返ってきた。ヒナタは戸惑いながらも、カウンター席へ促す。
「どうしたの? 迷子かな?」
「わたくしは、迷子ではございません。ユズと申します。座敷童子にございます」
ユズと名乗る少女は、きっぱりと言い放った。
ヒナタは思わず目を見開く。座敷童子?
冗談だろうか。
「えっと、ユズちゃん、かな? 座敷童子って、あれだよね、お伽話に出てくる……」
「左様でございます。そして、わたくしは料理が壊滅的に下手でございますが、どうしても食べてみたいものがあるのです。『幻の妖怪飯』というものを」
ユズは真剣な表情で続ける。
ヒナタは完全に話についていけなかった。
妖怪飯? この子は一体何を言っているんだ?
「あの、ユズちゃん?もしかしてお腹が空いてるの? 何か作ろうか?」
ヒナタが優しく問いかけるとユズは首を横に振った。
「信じていただけないのも無理はございません。では、少しだけ力をお見せいたしましょう」
そう言うとユズの周りに、ふわりと淡い光が灯った。
それはまるで蛍の群れが踊るように優しく瞬いている。
ヒナタは息を呑んだ。幻覚を見ているのだろうか? しかし、その光はあまりにも鮮やかで、
そして温かかった。
「……少し、信じます」
ヒナタは半信半疑ながらも、
そう答えるしかなかった。
ユズは淡々と話し始めた。
「妖怪飯とは、その昔、妖怪のために人間が作っていた特殊な料理のことでございます。妖怪の集落にはその伝承が残っておりますが、人間と妖怪が関わらなくなって久しく、今やそれを正しく作れる者はおりません。廃れてしまったのです」
ヒナタはまだ頭の中でうまく整理できていなかった。
妖怪……。そんなものが本当にいるのだろうか?
「わたくしは、ある本でその『幻の妖怪飯』のことを知りました。」
「様々な妖怪に伝わる妖怪飯とは別に、それら全てを凌駕する、まさに幻と称される妖怪飯が存在するのだと」
ユズはそう言って、表情を引き締めた。
「ですが、実際にその幻の妖怪飯を食べた妖怪に、わたくしは一度も出会ったことがございません。本当に存在するのかさえ、定かではないのです」
ヒナタは、未だに理解ができていなかった。
「わたくしは、あなた様のように料理が上手ではございません。一度、見よう見まねで作ってみたのですが……」
ユズは遠い目をして、小さく首を振った。
「その時は、まずお米を炊くところから失敗いたしました。水加減を間違え、鍋から炭が生産されてしまい、その煙で火災報知器が鳴り響いたほどでございます。結局、台所は惨状となり、わたくし自身は煙で真っ黒になり、数日は炭の匂いが取れませんでした」
想像に容易いその光景に、ヒナタは思わず吹き出しそうになったが、なんとか堪える。
「この巻物には、座敷童子に伝わる妖怪飯のレシピが記されております。ですが、これは人間でないと作れないと書かれておりまして……」
ユズは懐から古びた巻物を取り出した。
「人間であり料理の評判がよく、そして何より、わたくしが初めてお会いした時から、その目元が格好良かったので、あなた様の店に参りました」
ユズは大きな瞳でヒナタを見つめた。
(え、格好いいって……まさか、そんな理由で?)
ヒナタは心の中で少し照れたのを隠すように頬を掻いた。
しかし同時にユズの言葉が彼の好奇心を刺激した。
未知の料理、未知の調理法、未知の食材。
料理人として、この好奇心を抑えることはできなかった。
「……見せてくれますか、そのレシピ」
ヒナタは前のめりになって尋ねた。
ユズは小さく頷き、巻物を差し出す。
「わたくしが持っていても作れませんので、差し上げます」
ヒナタは巻物を受け取ると、早速厨房へ向かった。
ヒナタは気合を入れた。
巻物には見慣れない文字と共に一般的な食材の絵が多く描かれている。
しかし、その中に一つだけ異質な絵があった。
それは、まるで星屑を閉じ込めたような透き通った実の絵だった。
「これは……どこかで見たような、似たようなものがあったはず……」
ヒナタは自身の知識と経験を頼りに記憶を辿る。
そして、閃いた。
「これなら、代用できるかもしれない!」
彼はすぐに食材を用意し調理に取り掛かった。
まずは新鮮な野菜と鶏肉を丁寧に下処理し大きめにカットする。
鍋に水を張り、昆布と鰹節で丁寧に出汁を取る。
沸騰寸前で火を弱めアクを丹念に取り除きながら野菜と鶏肉を加えてじっくりと煮込んでいく。
次に別の鍋で米を研ぎ、たっぷりの水と代用した
「星屑の実」に似たハーブの葉を数枚入れて炊き上げる。
ハーブの香りがふわりと立ち上り、米粒一つ一つに染み渡る。
煮込みが完了した鍋に炊き上がったご飯を投入し、さらに少量の味噌と醤油で味を調える。
最後に、ユズが「秘密の隠し味」だと言って差し出した小さな壺に入った粉末を一つまみ加える。
粉末が鍋に落ちると、ごくわずかだが確かに淡い光が瞬いた。
ヒナタは、そのかすかな光を見逃さなかった。
「できました!」
ヒナタが湯気を立てるお椀をカウンターに置くとユズの大きな瞳が輝いた。
見た目はごく一般的な雑炊のようだが、その表面はほんのわずかにキラキラと瞬いている。
ユズはスプーンを取り、一口。
その瞬間、ユズの顔に驚きと感動が入り混じった表情が浮かんだ。
「……おいしい! とても、とても美味しいでございます!」
ユズは今まで聞いたことのないような、心からの声で言った。
瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「わたくしが昔食べた、座敷童子の妖怪飯と少しだけ違う気がいたしますが……これは、それ以上に素晴らしい味でございます!」
ヒナタはユズの喜びを目の当たりにして言いようのない達成感に包まれた。
完璧な妖怪飯ではなかったかもしれないがユズが心から喜んでくれたことが何よりも嬉しかった。
「ヒナタ様! お願いがございます!」
ユズは皿を置いて、ヒナタの目を真っ直ぐに見つめた。
「幻の妖怪飯のレシピを探し、わたくしに作っていただきたいのです!」
ヒナタの胸は高鳴った。
まだ見ぬ料理、未知の調理法、そしてまだ出会ったことのない不思議な食材。
彼の料理人としての探求心が、猛烈な勢いで刺激される。
(今回使えなかったあの「星屑の実」の本当の食材を見つければ、この座敷童子の妖怪飯も完璧に再現できるかもしれない。
いや、それ以上のものを作れるはずだ!)
ヒナタは今回の料理で代用した食材と本物の食材への思いを巡らせた。
悩みはしたが、彼の料理への情熱が勝った。
「分かった! 作ろう、全部!」
ヒナタは快諾した。
ユズの顔に、満面の笑みが広がる。
「ありがとうございます!では、まずは雪女の伝承が残る北海道へ行ってみませんか?」
ユズは目を輝かせながら提案した。
ヒナタは、これから始まる奇妙な旅に早くも胸を躍らせていた。
数日後、ヒナタとユズは北海道行きのフェリーの中にいた。
「よりによって、こんな時期に北海道とは……」
ヒナタは、窓から見える荒れ狂う海を見て思わず肩をすくめた。
時は真冬。
北海道の僻地へ向かうには、あまりにも過酷な季節だった。
フェリーを降りると、そこは一面の銀世界。
吹きつける風は肌を突き刺し、積もった雪はヒナタの膝まで達する。
ユズは時代物の着物姿のまま、雪の中を軽やかに進んでいく。
ヒナタは分厚い防寒具に身を包んでいるものの、すでに体の芯まで冷え切っていた。
「おい、ユズ! 雪、深すぎだろ! 本当にこの先に村があるのか!?」
「ええ、ございますとも。伝承によれば、この先に雪女の集落があったと記されておりますから」
ユズは涼しい顔で答える。
ヒナタは、重い足取りでユズの後を追う。
「ふざけんな! 俺、こんなところで凍死したくないんだよ!」
「大丈夫でございます。ヒナタ様は料理人として必要不可欠な存在ですから、わたくしが守って差し上げます」
ユズは頼もしげに胸を張るが、その華奢な姿を見て、ヒナタはますます不安になった。
猛吹雪の中、視界は真っ白で二人を飲み込むように雪が降りしきる。
「くそっ、何だよこれ! 遭難するって!」
ヒナタの不平不満が雪の中に吸い込まれていく。
しかし、その顔にはどこか楽しげな表情が浮かんでいることに彼自身は気づいていなかった。
幻の妖怪飯を求める、奇妙な旅は始まったばかりだ。