なんとなく話しかけたわけじゃない
放課後の教室って、音がすごく遠くに聞こえる。靴音も、笑い声も、どこか別の世界で鳴ってるみたいで、俺は一人だけ取り残された感じがしてた。
「……帰るか」
プリントを鞄に突っ込んで、椅子を引いたときだった。
カーテンの向こう、窓際の一番後ろにまだ誰かがいた。
俺はなんとなく、そいつの顔を知ってた。
みつき。たしかそんな名前。ほとんど喋ったこともないし、どんな声かも知らなかったけど、女の子みたいな顔してて、いつも教室に溶けてるように静かだった。
「……なあ」
気づいたら俺は、声をかけてた。
「まだ帰らないの?」
「うん。別に急ぐ理由もないから」
返ってきた声は意外と低くて、でも眠たそうだった。顔はやっぱり女の子みたいに整ってるのに、喋り方が妙に冷めてる。
「なんか読んでんの?」
「見ればわかるでしょ」
そう言って持ち上げたのは、古びた文庫本だった。カバーも何もない。
「それ、面白い?」
「ともくんは、面白いかどうかで本読むの?」
「え、名前……」
「席、近いし。体育のとき、前だったよ」
俺はちょっと言葉に詰まって、みつきの横の席をちらっと見た。……空いてる。
「そこ、座ってもいい?」
「ともくんが座るかどうかは、僕が決めることじゃないよ」
「じゃあ座るわ」
イスを引いて、ゆっくり座ると、みつきは本のしおりを挟んで、閉じた。
「じゃあ僕も、ともくんに質問していい?」
「お、おう……」
「どうして声かけたの?」
「……なんとなく、ってのが正直なとこだけど」
「なんとなく、で話しかけられるの、僕すごい苦手なんだけどな」
「……ごめん、うざかった?」
「ううん。たぶん、ともくんは大丈夫なひと」
みつきはそう言って、机に腕をのせた。頬を軽くのせるみたいにして。
「じゃあ、代わりにお願いしていい?」
「ん?」
「今日の放課後だけ、僕の“ともだち”してくれない?」
「……ともだち?」
「10分だけ。終わったら、元に戻る」
「なんだそれ……新手の宗教かよ」
「ちがうよ。ただの“気分”」
俺はちょっと笑って、それからみつきの顔を見た。ぜんぜんふざけてなかった。
真顔で、ちゃんと俺のこと見てた。
「…わかったよ。10分な?」
「うん。……ありがと、ともくん」
その声は、驚くくらい綺麗だった。
声は小さいのに、やけに教室に響いた気がした。
俺たちはそのまま机を挟んで座って、何を話すでもなく、
ただぼんやり時間を使い始めた。
まだ全然、始まりって感じじゃない。
けど、何もなかった放課後に、ほんのちょっとだけ“名前”がついた気がした。