初恋欠片
忘れたくて、投げ捨てたのに。
今もまだ、忘れられないでいる。
※
静かな工房では、かちゃかちゃという小さな音だけが響いている。
持ち主が迷子な音箱を、一人の幼い少年が組み立てている音だ。
彼の名前はマイラ。この工房の主の片割れ。そして音箱の箱を作る役割を持っている。
無心に、無言で、ひたすらに小さな部品を緻密に正確に組む姿は、まるで歴年の職人だ。否、事実そうである。
そして歯車一つで狂ってしまう繊細な音を作るのは、もう一人の店主である双子の妹。
その妹は出かけていた。日用品の買い物である。
組み立てが一区切りしたところで、マイラは手を止めた。
休憩の為ではない。来客のベルが聞こえたからだ。
呼び声がしないのは、店に陳列されたものに魅入っているか、戸惑っているからか。
だが、もう一つの可能性も思い出して、マイラは腰を上げた。
カウンターに出ると、やはり、品物を手にしている女性が居た。
こちらに気付かず、開かないかと試しているようだ。
マイラは苦笑し、女性の近くまで歩み寄り告げる。
「お客様。それはお客様のお求めの品ではございませんよ」
「きゃあっ」
驚いた女性が短い悲鳴をあげて、手にしていた商品であるオルゴールを取り落とす。
マイラはすかさずそれをキャッチし、棚に戻しながら問いかける。
「お客様、このお店にいらしたのは、どういった御用ですか?」
「……探しに来ましたの。あたくしの、初恋の音を」
困惑と恥じらいを混ぜたような表情で、女性はそう答えたのだった。
※
音箱屋、という店がある。そこはとても小さな店で、ショーウィンドウすらない。
だが、いつの間にか、いつからか、その店は当たり前に存在していた。そう噂されている。
その店は名前の通り、オルゴールを商品にしている。だが、ただのオルゴールではない。
この店のオルゴールは特別なのだ。一つの箱につき、一つだけ、思い出を音にして残す。思い出の品を部品にして。
その代わり、持ち主は思い出を忘れてしまう。それはオルゴールを開いた時だけ、思い出せるようになるのだ。
そして持ち主以外は箱を開ける事も出来ない。たとえ音を聴いても何も感じない。そう、今しがた開けられない音箱を開けようとしていた彼女のように。
そんな彼女は、名をリモネと言った。
「ずっと昔、あたくしは叶わぬ恋をしておりましたの。お相手は、家庭教師のお方でしたわ」
話を聞く為に一旦店を閉めたマイラは、スタイラが戻るまで話を聞く事にした。
リモネはとある貴族で、嫁いで十年だという。
今は里帰り中らしい。そこでこの店の噂を聞いて、訪れたようだった。
マイラは話の続きを待つ。
「当時のあたくしはまだ十二ほど。恋に夢中になり、勉学が疎かになりがちでしたわ。そんな中、気晴らしにと、かのお方は街へお忍びに連れて来て下さり、ブローチをお一つ買って下さったのです」
だが、それは手元に無い、とリモネは続ける。
「程なくして突然、家庭教師を辞めるとかのお方に言われましたの。……結婚を、するからと」
当時まだ幼さの残る少女には、無慈悲な失恋だったに違いない。影を落とすリモネは、手をぎゅっと握りしめて言った。
「あたくし、あまりの辛さに……ブローチを、海に投げ捨ててしまったのですわ。ご存知かしら。思い出を捨てる場所として有名な、街はずれの岬を」
「ああ、よく足を運びますよ。……お客様のように、後から取り戻したい方も居ますから」
マイラの箱作りの部品は、それこそ大半が、捨てられても浜に打ち上げられた装飾品や小物だ。それを使って、腕が鈍らないように持ち主不明の箱を作っている。
「では、あたくしのブローチも、もしかしたら……」
「いえ、それは保証しかねます。捨てたのはずっと昔なのですよね? 当方がたまたま拾って、というのは滅多なことではありません」
マイラはリモネにそう言いながら、一度立ち上がって店の中を示す。
「しかし、探す事は出来ます。……妹が居れば、ですが」
「そ、それはどういう事ですの?」
詳細は教えられないが、妹は思い出を音にする役割が故に、マイラには出来ない事が出来る。
ちょうどその時、店の扉が開いた。
「帰ったわよ、マイラ。……あら、お客様が居たのね。どうりで閉めてると思ったわ」
腕に抱えた荷物を運びながら、妹は言う。
「スタイラ、良かった。ちょうど君の力が必要なんだ」
「私の? ああ、そういうことね。これを置いたらすぐ戻るわ」
ぞんざいな口調で妹のスタイラは奥に一度入り、少ししてからまた戻ってきた。
「さて、それじゃあ探し物の記憶を教えてくれる?」
「え、ええ」
困惑気味に頷いて、リモネは先ほどと同じ内容を伝える。
スタイラはしばらく考え込んでから、棚の一つに向かった。
「ここね」
「あったの? 驚いたよ、まさか見つかるなんて」
「いいえ。元より不完全な音だったもの。呼んでいたんじゃない?」
ガラスの棚から取り出されたのは、複雑な色合いを持つ石が嵌め込まれた、上品な外装をしたオルゴール。
それを見たリモネが、はっと息を呑んだ。
「その石は……! あたくしが貰ったブローチの……!」
「どうぞ、開けてみて」
思い出の持ち主ならば、開けるはずだ。
果たしてそれは、容易く蓋を開けた。
「……! あ、あぁ……!」
リモネは膝から崩れ落ちて泣き出した。
「これだわ……あたくしの、初恋よ」
「そう。だけど、これじゃお渡し出来ないわ」
スタイラはあっさりと箱を取り上げる。
「あなたの思い出。それが無いと、このオルゴールは完成しないの。まあもちろん、不完全でもいいなら話は別だけど」
「どういう……?」
「このオルゴールには、思い出が足りない。つまり、持ち主に未練が残っている状態なの。その未練も組み込んで音を直して初めて、完成したと言えるのよ」
「……あたくしは、昔の初恋を捨てきれていないのです。この十年、夫は優しいけれど、子供はどうしても作れず……。一年、三年、五年……いつかは、と思ってもうこんなにも……」
空になったリモネの手には、見えないはずの『未練』が見えた気がして、マイラは目を細める。
「完成させる事で、未練は思い出に昇華出来ます。いかがなさいますか?」
そう問えば、リモネは顔を上げた。
そして縋るように言う。
「お願い致しますわ。あたくしの醜い未練を……どうか、どうか、美しい思い出にして下さいまし!」
マイラとスタイラは顔を見合わせ、一礼する。
「かしこまりました。では、お客様のお望みのままに」
「お客様の初恋の記憶、お預かり致します」
一週間後に、と約束を交わしてリモネは店を去った。
「やれやれ、急ぎの仕事が入っちゃったわね」
「ありがとう、スタイラ。僕じゃ探せないから助かったよ」
「いいわよ、仕事だもの。さ、支度しなくちゃ。一応店は時間まで開けておくわ」
そう言ったスタイラが扉の外から戻った時、奇妙な事に新たな客を連れていた。
※
それから一週間、店は開けられなかった。急ぎの注文が二つも入ったからだ。
しかも厄介な注文な為、マイラのみならずスタイラまでもが缶詰状態になった。
その甲斐あって、文句のつけようが無い完成品が出来上がったのだが。
「さて、今回のお客様は来てくれるかしらねー」
「届けるのは少し手間だからね。来てくれた方がありがたいな」
店を開けてしばらく待つと、ベルの音がして扉が開いた。
入って来たのは、リモネ。
「ごめん下さいまし。注文の品を受け取りに来ましたわ」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
マイラはにこりと微笑み、彼女のオルゴールをカウンターに出す。
「こちらになります」
「あら? 前と装飾が少し変わりましたのね」
彼女の言う通り、丸ごと使っていた石が半分の形になっている。他にも宝石の欠片が一つ増えていた。
今日で里帰りは終わりらしく、急いでいるのか、品を受け取り代金を支払ったリモネは、扉で誰かとぶつかりかけてしまっていた。
「あっ、申し訳ございませんわ」
「いえ、こちらこそすまない」
そして入れ代わりに入って来た男性は、まっすぐカウンターへ来て問うた。
「注文の品を受け取りに来た。出来ているかね?」
マイラが頷いて品をカウンターに出す。
その蓋には、リモネの装飾に使われていた石のもう半分が使われていた。更に、小さな石の欠片も埋め込まれている。……先ほどと同じ石が。
「はあ、よかった。ありがとう。……すまないね、急がせてしまって。代金は多めに置いておくよ。それじゃ」
「ありがとうございます。またいつか、ご入用の際はご贔屓に」
慌ただしく去った男性。それは、リモネの初恋の相手だった。
『ずっと昔に慕ってくれていた少女が居てね。僕に婚約者が居なければ、彼女を選んでいたかもしれないね』
その彼女が里帰りしたのを偶然知った彼は、当時の彼女の恋心に気付いていたという。
独善的ではあるが、大人が嵌めるには小さな指輪を用意し、それを使ってオルゴールにしてくれと頼んできたのである。しかも、彼女が聴けるように、と追加の注文までして。
本来ならば、持ち主以外はオルゴールが開けないが、今回は特別にどちらでも開けるようにした、というのが顛末だ。手の込んだこの仕組みを生み出すには、リモネのオルゴールも彼が開けるようにした方がいい、と考えて二人はそう細工したのである。
普段はやらないだけに、今回は流石に疲れた、と双子はお互いを労う。
「あのオルゴールがどうなるかは知らないけど、『忘却の岬』に投げ込まれない事を祈るわ」
「それは同感だよ。稀に見つかると、寂しくなるからね」
この店が作るのはあくまでも「思い出す為の品」であって、記憶を捨てる為ではない。
それでも、居るのだ。勘違いして、記憶として捨て去ってしまう者が。もちろんその人間は出禁である。
それはともかく、一仕事終えて安堵の息をついた二人は作業場に戻り、作りかけていたオルゴールに手を付けた。
今作っている物にも、いつか持ち主が現れるだろうか。
その日を待ちながら、マイラもスタイラも、オルゴールを作り続けている。
※
――オルゴールの音が流れている。
部屋にはゆりかごと、その中で眠る赤子。
その近くでうたた寝をする母親は、夢を見ていた。
『ねえ先生、あたくし、思い出が欲しいですわ!』
『記念にかい? それはいいね。僕に選ばせてくれないだろうか』
『まあ! 嬉しいですわ! それでは、このお店で探しましょう!』
――それは、かつての少女の初恋。叶わぬ想いを切り取って、煌めきに変わった思い出。
けれど、この思い出は彼女のものではない。
彼女があの日買ったオルゴールは今、もう一つの初恋の元にあるのだから。