追憶の色彩
その絵を描き終えた時、自分はもう、いつ死んでもいいとさえ思えた。
だが同時に、勿体無いと。そう思ってしまった。
※
「……暇ねぇ」
スタイラはカウンターで突っ伏しながらぼやいた。
今日は珍しく手が空いていて、マイラも岬に行ってしまっている為、話し相手も居ない。
客が来れば話は別だが、こんな時に限って誰も来ないものだ。
依頼品の残留物整理でもしようかと思い始めた時である。
ちりん、と音がして扉が開いた。
「!」
やっとマイラが帰宅したかと思いきや、入ってきたのは腰の曲がった男性の老人。
内心がっかりしつつも、せっかくの客だ。
スタイラはいつも通り「いらっしゃい」と告げる。
「おお、お前さんが思い出のオルゴールを作れるという店主か?」
「ええ。もちろんタダではないけれど」
「む、失敬な。金ならあるわい」
「なら、そこに座って。今、お茶を用意するわ」
こうして、スタイラの暇な時間は終わった。
改めて話を聞くと、この老人――ハイルは昔、画家だったらしい。しかも高名な。
しかも、王室の御用達でもあったそうで、異国に嫁いだ王女の肖像画なども描いたそうだ。
興奮気味にハイルはその当時を伝える。
「あの王女殿下の愛らしさといったら! それを絵に起こす方が余程苦労したわい。あの感動だけは忘れられん」
「へえ……」
あの我儘王女をそこまで褒め称える人間を、スタイラは初めて見た。が、口にはしないでおく。
「で、それが残したい思い出?」
「いんや?」
本題に入ろうとしたスタイラは、あっさり肩透かしを喰らう。
がくりと脱力して、深いため息をついた。話し相手は欲しかったが、こういうのは求めていない。
「すまんすまん、じゃが、オルゴールにすれば忘れてしまうじゃろ? そうではなく、思い出したい思い出が別にあるんじゃよ」
「じゃあそれを教えてもらえるかしら」
話し好きの人間は、スタイラの好みではない。マイラならば根気強く付き合うだろうが。
ハイルは咳払いをして、やっと本題に入った。
「わしがまだ駆け出しの頃じゃ。近所のとある娘さんが、モデルを申し出てくれた。わしは喜んでお願いしたんじゃ」
「そう。それで?」
「娘さんは美しく、何枚描いても飽きん程じゃった。私服から礼服まで、練習も兼ねてわしは熱心に娘さんを描いた」
ハイルは、おもむろに持っていたカバンを探り、一本の細い絵筆を出す。
「ある日、最後に描いて欲しいと頼まれたのは……花嫁衣装じゃった。その時にわしは、初恋が破れたと思ったんじゃよ」
「あなたも初恋の話なのね……まぁいいけど」
ここに来る者は大抵が初恋絡みだ。よほどその初恋というものは大事にしたい思い出らしい。
と思いきや、ハイルは首を横に振った。
「ところが、これは娘さんのサプライズでな。今はわしの妻じゃ。わっははは」
「……あのねぇ」
またしても脱力感に襲われたスタイラは、こめかみを押さえる。
「じゃがの。その姿を絵に起こしていくうちに、わしは気付いてしもうた。わしはあの瞬間、確かに人生で最高の絵を描いていた。最後の仕上げを惜しんでしまう程にの」
「それとこの絵筆の関係性は?」
「……筆先に、絵の具が付いてるじゃろ」
手に取ってよく見ると、筆の穂先に白い絵の具が確かについていた。
「完成した瞬間には、人生に悔いなし、と思ったがの……。この色を洗い流すのが、勿体なく思えてしまったんじゃよ」
「白い絵の具なんて、散々使ったでしょうに」
「特別な白、じゃ。これでどうか、作ってもらえんか?」
「まぁ出来るけど……いいの? 一時的にとはいえ、忘れるわよ」
確認するスタイラに、ハイルはまっすぐな目で頷く。
「こればっかりは、嫁さんにも知られたくないんじゃ。恥ずかしいじゃろ」
「ふぅん、よく分からないけど、そういうものなのね。……わかりました。あなたの思い出、音箱にしましょう」
そうして記憶を預かると、ハイルは首をひねった。
「何じゃ今のは……。ひとまず、よろしく頼むぞい」
「勿論。そうね……一ヶ月後にまた来て」
詳しくは教えないままにそう伝えると、ハイルはそのまま店を去った。
それからしばらくして、マイラが戻り、依頼の話をすると苦笑して頷いた。
「分かった。面白いおじいさんだったんだね」
「勘弁して欲しいわ、全く……」
出来ればその手の客はあまり増えないでもらいたい。スタイラの負担がかかるから。
※
一ヶ月後、予定通り来たハイルは、隣に年老いた女性を連れていた。
「あら、その方が話に出ていたお嫁さんかしら」
「うむ! どうじゃ、美人じゃろ?」
「ちょっとあなた、他所様の前ではやめてって言ってるじゃない」
ハイルの嫁である老婆は、恥ずかしそうにハイルを小突く。
甘い空気に、やってられるか、とスタイラはオルゴールを出した。
「ご注文の品よ。これは依頼人しか開けられないし、思い出も本人にしか思い出せないから、安心して。さ、どうぞ」
「おお! なかなか趣のあるデザインじゃな。では……」
ハイルが喜んでオルゴールの蓋を開けると、美しい音色が響いた。
隣で聴いていたハイルの嫁は、驚いた顔をしている。
「まぁ……素敵な音」
「う……うむ! 我ながら、良き思い出じゃな……」
赤くなったハイルは、そのままオルゴールの蓋を閉じてしまう。
それをラッピングしながら、スタイラは何となく察していた。
(まあ、たまにいるものね。思い出を恥ずかしがる人)
そういう人は大抵、後は聴かないようなのだが、捨てられてないだけまだマシでもあった。
支払いも済ませた夫婦は店を立ち去り、だが少しして嫁の方が戻ってきた。
「ねえ、あの人は何を残したの?」
「申し訳ないけど、依頼内容は誰にも教えられないわ。いつか本人から聞いてみたらどうかしら」
「あら、そうなのね。……そのうち、私も来ようかしら」
たまにこうして、依頼人の身内や関係者が、話を聞き付けて暴こうとするのだが、守秘義務があるスタイラ達には教える事など出来ない。
嫁である老婆の言葉にも、スタイラは相好を崩す事なく言った。
「ええ、本当に残したい思い出があれば、私達は歓迎するわ」
「ありがとう。それじゃあね、小さなお嬢さん」
そうして客が今度こそ居なくなった店内で、はあ、とスタイラはため息をついた。
「小さなお嬢さん……ねえ。あーあ、本当に……失敗しちゃったわ。私達」
思い出すのは遙か彼方に残る記憶。思い出とすら呼べないそれは、いつまでもこの身をこの店に縛り付けている。
あの夫婦のような幸せな老後は、二度と望めない。
客が来ないのを確認したスタイラは、陰鬱な気分を紛らわす為に、マイラが戻るまで、マイラの持ってきた部品の選別を行う事にしたのだった。
※
それから何十年も先の話。
とあるオークション会場で、不思議なものが落札された。
それは昔も昔、有名な画家が描いた花嫁の絵と、それに付随していたオルゴール。
落札したのは、その画家の末裔だった。
だがそれよりも不思議な事に、誰一人開けられなかったオルゴールを、彼だけが開けられたという――。




