季花の散る頃に
薄紅の美しい花が咲く。
格子窓の中からそれを見上げるのは、あの日が最後だった。
※
「セリシャ、どこへ行くのかね」
夫となった男が尋ねる。
セリシャは柔和な笑みを向けて答えた。
「ちょっと、街にある雑貨屋へ。そんなに長くは出掛けませんわ」
「そうかい。門限までには帰ってくるんだよ」
「ええ、もちろん」
そうしてセリシャは門を出る。
セリシャがここを出るのには条件があった。
行き先を夫に告げる事。
門限を守る事。
買い物をしたら品と明細を全て見せる事。
人と会う時はその相手と目的を告げる事。
他にも細々とした条件はあるが、これを破る事は許されない。
結婚したらそうしなければいけない、と最初から分かっていた事でもある。
着慣れた東洋の衣服に身を包み、セリシャは街の中にあるという店を探す。
程なくして、そこは見つかった。
「音箱屋……ここなら」
小さな看板と扉しかないその店に入ると、まるで街中とは別世界のようだった。
外の喧騒からは切り離され、静かな店内にはオルゴールが並んでいる。
どれも個性的なデザインで、興味をそそるものばかりだ。
それらを眺めていると、声を掛けられる。
「いらっしゃい」
振り向くと、まだ幼い少女がすぐそこに立っている。にこりともしない彼女は、続けて言った。
「初めての客ね? ここの事はどう知ったの?」
「あらあら……。お客様には愛想良くした方が繁盛するわよ?」
元は商売をする側だったセリシャも、さすがに苦言を呈する。しかし少女は首を横に振った。
「大抵が一度きりの客を相手に? そんなのは兄がやれば十分よ。ま、今は居ないけど」
「それでやっていけてるなら、いいけれどね。思い出の品を使ってオルゴールを作る店、で合ってるかしら?」
「ええ。あなたは何を持って来たの? そこで話を聞かせてちょうだい」
奥まった場所にあるテーブルを示され、セリシャはそこに座る。
少女は入り口やら奥やらに行って、最終的にはお茶を運んできた。
「はい。その見た目だと、東方からわざわざ? お茶も合わせてあげたわ」
「あら、博識ね。それに、懐かしい香りだわ」
出されたのはティーカップだが、中身は緑茶と呼ばれる、薄緑色のお茶だ。甘さと苦さのバランスが調和していると、上質とされる。
それを一口含むと、懐かしい思いが湧き起こった。
「……そうね、こちらに嫁いで、何年かしら。もう、このお茶を飲む事も無くなったわ」
「ふうん。取り寄せくらいすればいいのに」
「出来ないのよ。主人の束縛が強くて」
「束縛?」
流石に茶菓子は焼き菓子だった。マドレーヌをかじり、セリシャは苦笑する。
「ええ。そもそも私は身請けされたの。私を欲しがって大金を出した、主人の元にね」
「遊女だったんだ。育ちのいいお嬢様の出かと思った」
「育ち良く見えるように、躾けられるからね。ただ、教養は良くても、金にはちょっとばかり強欲な人間に育てられたのよ」
身請け話も、セリシャの合意など無かった。
全てが決まってから、セリシャには伝えられたのだ。
「身請けの時に名前も変えさせられてね。元は八重、って呼ばれてたのよ」
「ヤエ? 不思議な響きね」
「その名前を持つ花はとても綺麗でね。故郷では春に咲くのよ。……その頃に私は、とある客と恋仲になったの」
お金はあまりない男だった。だが、気持ちは通じ合っていて、いつか身請けする、と約束していた。
だがそれよりも早く、身請けされてしまったのだ。
八重の手元に残ったのは、もう果たされない約束と、密かに贈られた簪だけ。
そうして八重はセリシャとなった。男には何も伝えられないまま。
セリシャは簪を懐から出して、テーブルの上に置く。
「これで、私と彼の約束を思い出に残してくれないかしら」
「いいわよ。時間は……一ヶ月くらいね。取りに来れないなら送るけど」
「いえ、絶対に私が取りに来るまでは置いておいて」
「……どういう事?」
「これだけは、主人の手に渡す訳にはいかないの。絶対に」
「安心して。持ち主以外は箱も開けられないから」
何がそんなに心配なのか、と言いたげな少女に、セリシャはぎゅっと膝の上で拳を握る。
ただのオルゴールだと言って手元に置くには、自らの手で買わねばならない。
「そうではないの。主人は非常に嫉妬深いので、出どころが不明なオルゴールならば、たちまち壊されてしまうわ」
「それは困るわね。分かったわ。でも、出来るだけ引き取りの日は守ってね」
「よろしくね。これさえ失ったら、私は、どうなってしまうか」
す、と簪を手にした少女を見ながら、大事な何かが薄らいでいくのを感じる。それでも先ほどのやりとりは鮮明に覚えていて、セリシャは立ち上がった。
「それじゃあ、一ヶ月後に」
「ええ、確かに承ったわ」
店を出て、家に帰る。それを思うと憂鬱な気分になった。
帰ったら、報告をしなくてはならない。たとえ何も買わなかったとしても、だ。
大枚をはたいて手に入れてもなお、その妻を信じられない。ある意味ではそれもまた、強欲だろう。
門限までの時間も少ない中、セリシャはそっと人混みの中でため息をついたのだった。
※
その一月後、セリシャは目の前でオルゴールが壊されるのを見て愕然とした。
「不気味な、噂のある、店から、こんな物を、買った、など! 一体、誰とのどんな、思い出と、やらをっ!」
床に叩きつけるでは飽き足らず、何度も踏みつけて主人は吐き捨てる。
「や、やめて!! やめて下さい!!」
半ば開いたオルゴールは、歪んだ音を鳴らす。
セリシャは主人の足にしがみついて破壊を止めようとしたが、それを振り払われた。
「ワシを裏切る、つもり、かっ! お前を、せっかく、買ってやった! この、ワシを!」
そして攻撃の矛先は、セリシャに向いた。
ところ構わず蹴られ、杖で殴られ、セリシャは呻いた。
「ひっ、酷い、ですっ。たった、一つきり、の、思い出、をっ」
「やかましいっ! お前に、男が、居たのは、知っていた! だからっ、先にっ、買ったのだ! なのにっ、貴様はっ、貴様はぁっ!」
繰り返される殴打の音が、静かな屋敷内に響く。誰も主人を止めず、誰もセリシャを助けない。
やがてそれが止まる頃、何もかもが静まり返っていた。
セリシャは身動き一つせず、オルゴールは修復不可能なほどにひしゃげて音を止めている。
ただ、主人の荒い息だけ。
「はぁっ、はぁっ……はぁっ……」
足元も杖の先も床も、血に塗れて汚れている。
それを床に叩きつけると、主人はふらふらと自室に戻って行った。
そこでやっと、息を潜めていた使用人が動き出す。
セリシャは手当てをされて寝室で寝かされた。
枕元には、破片も集められた、壊されたオルゴールが置かれて。
――その更に一ヶ月後、セリシャはオルゴールと共に屋敷から姿を消した。
※
新聞の見出しには、大きな文字が並んでいる。
『大富豪の主人、病死か!?』
それをちらっと見たスタイラは、小さくため息をつく。
「女を怒らせると、怖いのよ」
「まあ、僕達は依頼されてオルゴールを作っただけだしね」
マイラも苦笑してそう返す。
結局、あのオルゴールは修復できなかった。
それを聞いてがっかりしていたセリシャだったが、それでも理性をしっかり保っていたのはさすがと言うべきか。
怒りを向けるべき相手が誰なのか、よく分かっていたらしい。
今頃は船にでも乗って、故郷に帰っている頃だろうか。
壊されたオルゴールはもう聴けない為、処分しようかとスタイラ達から願い出たが、彼女はそれを拒否した。戒めとして持ってるらしい。
何にせよ、終わった話だ。
新聞を畳むマイラは、コーヒーを飲み干して軽く伸びをする。
「さて。今日も仕事があるから、頑張らないとね」
「今度は壊されないといいわねー」
「そうそう無いと思うよ? 多分」
片付けて、またいつもの日常だ。彼らは今日も、オルゴールを作る。
※
薄紅の美しい花が散る。
その中を、指を絡めて歩く男女が居た。
そこに居るのはセリシャという女性ではない。
隣の男から愛おしげに、八重、と呼ばれた女性だった。




