祖母は孫と語らう
舞台は、産業革命の時代に似た、魔法が存在するファンタジー世界です
郊外に、赤い屋根のこじんまりとした一軒家があった。
古い家ではあるものの、丁寧に手入れがされており、小さいその庭にはいつも季節の花が咲いていて、美しい。
先日から時おり木枯らしが吹くような時期になったが、今はちょうどアスターが真っ盛りだ。庭に、色とりどりのアスターが咲き乱れている。
なお、この家の住人は年配の女性である。
暮らしぶりは質素だが、とても品の良い女性で、どこか大店の奥さまだったのではと周囲の村人たちは噂している。
そんな彼女の元に……月に一度くらいの頻度で孫らしき少年が馬車でやって来る。その日は、朝から美味しそうな料理の匂いが周囲に漂うため、近隣の人たちも(あ、今日は彼が来る日だな)とすぐ分かる。
今日も、思わず鼻がひくついてしまう美味しい匂いが朝から漂っていた。
少年のやって来る日だ―――。
「こんにちは、お祖母さま!」
馬車から降りるなり少年は勢いよく駆け抜けて、庭にいた祖母に抱き着いた。
「いらっしゃい」
見事な白髪を緩く結い上げた、ややふくよかなこの家の主は優しく少年を迎える。ここ一年ほどで祖母の身長を抜きつつある少年は、キラキラとした眼差しを祖母に向けた。
「今日はちょっと、お祖母さまに意見をうかがいたい話があるのですけど」
「あらあらまあ、どんな話かしら。こんな年寄りの意見なんて参考にならないでしょうけれど、楽しいお話だと嬉しいわねぇ」
「ごめんなさい、そんなに楽しい話ではないです。でも、お祖母さまが頼りなのです」
「うふふ。頼りにされると、聞かない訳にはいかないわね。じゃあ、お昼を食べたあとで、ゆっくり聞かせてちょうだい。……エイドリックも、さあ、早くこちらにいらっしゃいな」
馬車の御者に車代を渡し、庭の入り口に佇んでいた青年は、女性に声を掛けられて頭を下げて中へ入ってきた。
少年と青年は同じ柔らかな栗色の髪に栗色の瞳をしている。
兄弟だろうか。ただし、容貌はまったく似ていない。少年は天使もかくやというほどくりっとした瞳の可愛らしい顔立ち、対照的に青年は鋭く切れ上がった眦、そしてナイフのような切れ味の印象を与える人物なのだ。
しかし女性は、少年にも青年にも等しく温かい笑みを向けて、優しく家の中へ招き入れた。
家の中に入ったソーニャは、キッチンでサラダを盛り付けていたポリーナに「二人が来ましたよ」と嬉しげに伝える。
ソーニャと同じく白髪の老侍女ポリーナは、顔を上げてにこりと笑んだ。
「いらっしゃいませ、アレクセイさま」
「ポリーナ。今日は何?」
「ソーニャさま特製のミートパイです」
「うわあ、僕の大好きなやつだ!」
足取りも軽く、アレクセイはダイニングのいつもの席に座る。祖母の隣の席。大好きな祖母とゆっくり話の出来る特等席。
席に座り、アレクセイはパチンと指を鳴らした。
途端に栗色の髪は艷やかな青銀に、瞳は美しい紫に変わる。変化の魔法だ。
アレクセイが変化を解いたので、ポリーナを手伝ってサラダを運んできたエイドリックも、サラダを置いて自身の変化を解く。
エイドリックは、髪も瞳も黒に変わった。それだけで、彼の持つ雰囲気がますます硬質に鋭くなる。
「まあ、二人とも……何度言えば分かるのかしら。変化を解いてはダメって」
「だって変化の魔法は、ふわふわした薄い膜みたいな感触がして、好きじゃない」
口を尖らせて答えるアレクセイに、ポリーナが呆れたように諭す。
「ですが、御身を守るためですよ。エイドリックも。あなたの役目はアレクセイさまを守ることでしょう。」
「大丈夫。もうこの近所の人たちには、僕らは兄弟だって思われているから。家の中くらいは変化を解かせて。この家には、守護の魔法が掛かっているから大丈夫でしょう?ね?」
エイドリックが答えるより早く、アレクセイが両手を合わせてお願いポーズをした。
アレクセイの言う通り、この家にはかなり高難度の守りの魔法が掛けられている。妙な輩は入ることが出来ないし、中の様子を窺うことも出来ない。更に、隣には普通の村人の振りをした護衛の人間が住んでいる。古いただの一軒家に見えて、そうではないのである。
結局、ポリーナはそれ以上は強く言えず、困ったように眉を下げるだけに留めた。可愛い主人の孫には、どうしても厳しく出来ない。彼の正体がご近所に知れたら、主人もここで今までのようにのんびり暮らすことは出来なくなるのだが。
「リョーシカ」
キッチンから運んできたミートパイを卓の真ん中へ置き、ソーニャはアレクセイを愛称で呼びかけた。
「あなたは変化の魔法を使っていても、人目を惹くのだから。外であまり、エイドリックに面倒をかけないようにね」
「はぁい」
返事は素直に返しながらも、アレクセイはほんの少しだけ肩をすくめた。実は今日も、来る途中で本屋に寄りたいとエイドリックに我が儘を言ったばかりだ。祖母には内緒にしておかなければならないだろう。
「さあ、それでは食の神に感謝を捧げて、食事を始めましょう」
全員が席に着いたのを待って、ソーニャは両手を組んだ。
月に一度の楽しい昼食会のあと、ソーニャとアレクセイは居間に移った。これからは二人の語らいの時間である。
その間、ポリーナとエイドリックは片付けだ。老侍女には厳しい力のいる仕事を、エイドリックは訪問のたびに片付けている。
祖母と孫は仲良くソファに並んで座った。
「さあ、それではあなたの相談を聞かせて」
ソーニャはアレクセイを促す。
アレクセイはさっそく、相談事を口にした―――
※ ※ ※
―――先日、マルコーフィ・モトキン伯爵が亡くなられたことはもうお聞き及びですか?
彼、自宅の庭にある小屋の中で亡くなっていたそうですよ。その小屋は、元は倉庫として使っていたもので、石造りです。大きさは、三m四方の小さな小屋らしいです。
……はい、そうなんですよ。
今日、お祖母さまに伺いたいのは、伯爵の死に関する件なのです。
では、順を追って話をしていきますね。
半年ほど前、伯爵は幻燈機を手に入れました。そして、その幻燈機をゆっくり楽しむために、倉庫を改装したそうです。
改装といっても、小屋にテーブルと椅子を運び込み、明かり取りの高い位置にある二つの窓に厚いカーテン、ただ一つの出入り口も内側から厚いカーテンを掛けて、わずかでも外の光が入らないようにしたくらいですが。
ああ、それと、蓄音機も運び入れたそうです。伯爵は、独りでゆっくり音楽を聴きながら絵を見たかったようですね。
小屋は、窓を閉じて使うため、一応、換気用の穴も開けられました。光が入らないよう、外側に覆いを付ける形で。
僕としては、そこまできっちり暗くしなくても映像は見えると思うんですけどねぇ。
あ、そうそう。幻燈機はご存じですか?
さすが、お祖母さま。やはりご存じでしたか。
僕は本物も触りましたよ。面白い機械ですね。
レンズとランプを使って、硝子板に描かれた絵を大きく映し出す機械。
これ、そのうち動く絵も映せるようになるんじゃないでしょうか。え?だって少しずつ動きを変えた絵を繋ぎ合わせ、それを連続で映し出せば、動いているように見えるでしょう?ふふ、そうですね、かなりの労力が必要でしょうけど。
……話を元に戻します。
事が起きたのは三日前です。マルコーフィ伯爵は、昼過ぎに幻燈小屋へ行きました。
夕食の時間になっても小屋に籠もったままだったため、使用人が呼びに行きました。しかし返事はなく、使用人は奥方にそのことを伝えます。
奥方は、マルコーフィ伯爵が熱中すると時間を忘れる質なのを知っているため、そのうち空腹を感じて出てくるでしょうと言い、そのまま放っておこうとしました。
ところが、伯爵の叔父が―――叔父のドラガ子爵が数日前から滞在中しています―――「夕食はマルコーフィの好きなステーキだ。呼んだ方がいいんじゃないか」と言い出しました。
そこで、もう一度、使用人が小屋へ行き、扉の前でその旨を伝えました。
が、返事はありません。
使用人も少し不審に思い始め、扉を大きく叩きました。それでも返事がなく心配になり、慌てて執事を呼んで、予備の鍵を使って扉を開けました。
中へ入ると……椅子に座ったままで、伯爵が亡くなっていました。
伯爵は、とても良い顔色をしていたそうですよ。なんとなく意外な感じがして、使用人の一人は印象に残ったようです。
なお、伯爵に既往歴はありません。乗馬や狩猟を楽しむ、とても健康的な方だそうです。御年三十八歳です。
亡くなり方が不審だったため、すぐに犯罪捜査局へ連絡が行き、調査が行われました。
しかし、魔法が使われた形跡は無く――きちんと魔法痕の検査はしました――、残されていた食べ物や飲み物も調べましたが、毒物の使われた形跡はない、誰かから襲われた様子も見られない、もちろん外傷もない、内側から施錠されていた……以上の点で、捜査局は病死の可能性を検討しています。
奥様は納得されていないのですけどね。
……お祖母さま。
以上のような次第なのですけれど、伯爵は病死でしょうか、それとも事故または他殺の可能性はあると思いますか?
※ ※ ※
話を聞き終え、ソーニャは無意識に左手で自身の耳たぶを触りながら首を傾げた。
「そうね……小屋へ入ったとき、小屋の中は暖かかったかしら?」
「そうですね……確か、最初に入った執事が、そのようなことを言っていたと聞いています。小屋は寒いと伯爵は言っていたのに、不思議だ、と」
「そう。小屋に暖房器具はないの?あと、小屋へ入った者で、頭の痛くなった者や気分の悪くなった者はいたのかしら」
「暖房器具はないです。頭の痛くなったものや気分の悪くなった者もおりません」
「そう……」
両手を膝の上に置き、アレクセイは祖母が熟考しているのをじっと見守る。祖母は、何か思い当たる死因があるようだ。
「それで、ダニールは関係者への聞き込みはしたの?」
「もちろん」
アレクセイがこの話を誰から聞いたか、祖母はそれもお見通しだ。
ダニールは犯罪捜査局に勤めている。アレクセイの又従兄弟だ。ただし、アレクセイはやんごとなき身分だが、ダニールは普通の平民である。年も十五ほど離れている。
しかしアレクセイがまだ幼い頃、事情があってダニール家族の元へ身を寄せていたことがあり……その縁で、通常は秘匿されている捜査情報を特別に教えてもらっている。というより、ダニールがアレクセイにわざと教えているという方が正しいだろう。アレクセイやソーニャの知恵を借りたいというダニールの策略なのだ。アレクセイもソーニャも、そのことを充分承知した上で乗っている。
「それでは、幻燈部屋へ行った者、または近付いた者について、順番に述べますね」
アレクセイは指を一本立てた。
※ ※ ※
まず、昼過ぎに若い侍女がマルコーフィ伯爵と共に幻燈小屋へ入りました。これは、小屋の掃除のためです。
伯爵は貴重な幻燈機が盗まれたり、壊されたりすることを恐れ、使用人だけで小屋へ入らせることはなかったそうです。
この侍女は十五分ほどで掃除を終え、伯爵を残して小屋を出ました。
侍女いわく、伯爵は新しい絵をたくさん手に入れたと言って、かなり機嫌が良かったということでした。
小屋を出るとき、少し寒いので毛布や温かい飲み物、軽食などを持ってくるようにと彼女は伯爵から言い付けられました。
という訳で、さほど間を置かずに次は四十代の下男が小屋へ。伯爵の要望した物を持って行きましたが、一度では全て運べなかったため、二度、出入りしました。
その後、伯爵は彼に、夕方まで誰も小屋に来させるなと命じました。下男は、その言葉を執事に伝えます。
が、執事は仕事のことで確認したいことがあり、すぐに小屋へ向かいました。彼は小屋には入らず、入り口で伯爵と短い時間、話をしたそうです。
その後……三時間ほど後でしょうか、老侍女がお茶のお代わりは必要ないか聞きに行ったそうですが、扉を叩いても返事がなかったため、伯爵と顔を合わすことなく屋敷へ戻りました。
他は誰も小屋へ近付いていないということでしたが―――詳しい聞き込みの末、料理長が伯爵の叔父ドラガ子爵が小屋へ向かったのを見たと言いました。
子爵に確認したところ、最初は否定しました。
しかし隠し切れないと分かると、素直に認めましたよ。自分は伯爵の死とは関わりがないから、話さなかった。そもそも、伯爵とは会っていない、小屋へ行き、伯爵に声を掛けたが返事すらかえってこなかったので、腹を立て扉を蹴りつけて屋敷へ戻っただけだ、とのことです。老侍女の後くらいに行ったようです。
ちなみに今回の件と関係あるか分かりませんが、ドラガ子爵はモトキン伯爵にお金を借りるために伯爵家に来たようですね。
それ以外は……夕食の時間になるまで、誰も小屋には近付いていません。
何故そう言えるかというと、屋敷から直接、小屋は見えないのですが、小屋へと向かう道は、屋敷の執事室や調理室、使用人休憩室の窓などに面していて、誰かの目に留まりやすいからです。
……ええ、でも、お祖母さまのおっしゃるとおり、屋敷を回って人目につかず行くことは可能です。裏口ではなく、表の玄関から横に回れば行けるそうです。
鍵も、予備の鍵が執事室に保管されていることは知っている者も多いので、機会を窺えばこっそり持ち出すことも出来ると思います。
ただ、屋敷外の人間は難しいでしょう。小屋は屋敷の裏手にあり、元は倉庫ですので外部の人間は存在をほぼ知りません。また基本的に閉まっている入り口の門を、外部の人間が勝手に抜けて行くことはないはずですから。まあ、高い塀を軽々と乗り越える者がいたら、分かりませんね。
※ ※ ※
話し終えたアレクセイに、ソーニャは優しい眼差しを向けた。
「ところで……今さらですけど、リョーシカは、マルコーフィ伯爵は病死ではなく誰かに殺されたと考え、わたくしに相談に来たということでいいのかしら」
「はい。そもそもダニールがそう考えて、僕のところへ来ましたから」
ダニールは、妙な勘だけは働くのだ。往々にしてそれが間違っていることはない。残念ながら彼の勘に引っ掛かっても、事件の謎を解くことが出来ないのだけれども。
ソーニャはアレクセイの言葉に頷いた。
「それで……リョーシカ、あなたは誰が怪しいと思っているの?」
「えっ、僕ですか?」
祖母からの問いに、アレクセイは困ったように眉を寄せる。軽く左の人差し指を唇に当て、しばらく考える。
やがて、ゆっくりと話し始めた。
「僕は……そうですね、伯爵と最後に話した執事も気になりますけど、掃除をした侍女か、軽食を持って行った下男かなと思っています」
「まあ、ふふ、その理由は?」
間髪入れずに理由を尋ねられ、少年の眉は情けない形に下がった。
「……小屋で、何かを仕掛けられるのはその二人だからです」
「そうね、あなたの着眼点は悪くないと思うわ」
「では」
アレクセイはパッとソーニャを見つめた。
「やはり、何者かによって伯爵は殺害されたと考えて間違いないですか?」
「断言は出来ないわよ?あなたの話を聞いて、こういう可能性はあるなと思っただけですから」
「それでも構いません。教えてください、お祖母さま」
アレクセイとて、考えたのである。しかし、分からないのだから仕方がない。
悔しいなぁ、でもさすがお祖母さまだと素直に感心しながら、少年はキラキラした瞳を祖母に向け、続きを待つ。
ソーニャは(こういうことに興味を持ちすぎるのは困ったものね……)と内心で溜め息をつきつつ、マルコーフィ伯爵の死因として思い当たる現象の説明を始めた。
※ ※ ※
一週間後。
新聞各紙の一面は、マルコーフィ・モトキン伯爵の殺人事件のニュースで賑わっていた。
犯人は四十代の下男、伯爵家の高価な皿をこっそり売ったことがバレて、弁償を迫られたことが動機であった。
各紙とも、下男のこれまでの人生や人付き合いのあれこれを面白可笑しく書き立てている。
ダニールは新聞を閉じ、ふと、最初の取り調べのとき、しおらしく振る舞っていた下男を思い出した。見破られまいと高を括っていたからだろう。真面目そうな男に見えていた。
ところが逮捕の際は……別人かと思うくらい凄まじい形相になって暴れ回り、大変だった。その時に殴られた目の周りの青あざは、まだ消えていない。
そっと青あざを押さえて溜め息をもらしたとき、ちょうど離宮の主が現れた。
「ごめん、ダニール。待たせちゃった?あれ、目の周り……」
「ん、捕物のとき、ちょっとな。どうってことない。……これ、土産だ。こっちは王太后さまに」
新聞を脇に置いて、持ってきた手土産を渡す。高級菓子店の菓子詰め合わせは、まあまあ懐が痛むのだが、彼の協力に対する対価としては安いくらいである。
アレクセイはダニールから菓子を受け取り、後ろに控えているエイドリックに渡した。
「ありがとう。でも、気を使わなくていいのに。ああ、それと……王太后さまと呼ばれるのは、お祖母さまはキライなんだ。ソーニャさまって言ってあげて」
「ムリだよ、オレみたいなのがお名前を口にするなんて!アレクとは違うんだからな」
正直なところ、この離宮に来るだけでも毎回、身がすくむ。自分は根っからの庶民なのである。こんな場所では、落ち着いてタバコも吸えない。
豪奢なソファに座って寛げるのは、目の前の少年のようなキラキラした人間だけだ。
ンンッ!と咳払いが聞こえた。
「ダニール様。恐れながら "アレクセイ様" と。もしくは殿下で」
菓子を持つ男からの鋭い忠告に、ダニールが答える前にアレクセイが手を振る。
「エイドリック。ダニールはいいんだよ」
「駄目です。ご身分を隠している外ならば黙認しますが、ここでの目溢しはいたしません」
「ああ、いや、その……大変失礼した、アレクセイさま」
ダニールが急いで言い直すと、途端にアレクセイの頬がぷくっと膨れた。今年、十三歳になったはずなのに、そんな顔をするとあどけなさ全開である。
「もう、エイドリックは頭が固い!」
主の苦情に、エイドリックは気にした風もなく菓子を持って下がった。
ダニールは内心、苦笑する。
エイドリックは、ダニールのことが気に食わないのだ。初めて会ったときから敵視されている。親しく愛称で呼ぶことも許せないのだと思う。本当はこの宮にも入れたくないはずだ。
もっともアレクセイから許可が出ているので、ダニールは何もエイドリックに阿る必要はないのだが。
阿る必要はないものの、この青年の臍を曲げると、アレクセイが気軽にダニールの元まで出向くことが難しくなる。ここは大人しく、エイドリックの機嫌を取っておくに越したことはなかった。
「……それで、被疑者はもう罪を認めたの?」
まだ頬を膨らませたまま、アレクセイが質問してきた。
ダニールは軽く肩をすくめる。
「最初はシラを切ったよ。でも、アレク……セイさまの言った殺害方法を指摘したら、すぐに狼狽してね。まさか見破られるとは思ってなかったんだろうな」
そして、ポンと手を打つ。
「……ああ、そうそう。通気口を確認したら、詰め物がしてあった。回収するのを忘れていたらしい。ヤツの部屋に火鉢も残っていた。といっても、それだけでヤツの犯行と断定するのは厳しいんだが、詰め物や火鉢を前に並べたら勝手に全部自白したよ」
「そう。それは良かった」
膨れ面から一転してにこにこ顔になり、アレクセイは頷いた。尊敬する祖母の推理が間違っていなかったことが嬉しいのだ。
―――事件のあらましは以下のようなものだ。
伯爵が軽食や毛布を持ってくるよう言ったので、下男は軽食と共に火鉢を持って行った。狭い閉ざされた空間で、木炭を燃やすと……悪い空気が充満して、人は死ぬということを知っていたからである。
彼は北の地の出身で、換気せずに木炭を使う危険性をよく知っていた。幻燈小屋がほぼ密閉空間であることが、この計画を思い付かせた要因だったらしい。
一方の伯爵は木炭の危険性を知らなかったので、火鉢をとても喜んだという。それが自分を殺すために用意されたものとは知らず。
その後、下男はいつも通り仕事をして過ごし、老侍女が小屋へ行って帰ってきたときに「伯爵から返事がなかった」との話を聞いて、狙い通り伯爵が死んだのだと思った。急いで執事の目を盗みつつこっそりと執事室から鍵を持ち出し、表玄関からぐるりと回って小屋へ。ドラガ子爵が扉を蹴って戻ってゆくのを見送ってから、小屋へ入って火鉢を回収した。暖房器具が無ければ、伯爵の死んだ原因は誰も分からないだろうと踏んでのことである。
「ま、実際、王た……ソーニャさまに教えてもらわないと、謎の突然死で処理されて終わりだったからな。現場を見たワケでもないのに、死因を特定しちまうなんて、本当にソーニャさまはすげぇよ」
「うん」
「それにしてもソーニャさまは、よくご存じだったな。閉ざされた部屋で木炭を燃やすと人が死ぬって」
「そうだね。この辺りの冬はそんなに寒くないから。寝るときでも最初に部屋を暖めておいて、そのあとは厚めの布団に温石でもあれば大丈夫だけど……北の地だと、一日中、なるべく外気が入らないよう窓や扉をしっかり閉ざして木炭や泥炭を燃やし続けないといけないらしいから。そうすると何か悪い空気が充満して、具合が悪くなって死んでしまうんだって。だから、ときどき換気する必要があるというのは、北では周知の事実なんだとか。それでね、木炭で発生した悪い空気で亡くなった人は、とても血色のいい顔になる特徴があるそうだよ」
「ふうん、そうなんだな。勉強になった」
ダニールはそそくさとメモ帳を取り出して、メモをする。
アレクセイと関わるようになってから、この癖はついた。少年は怖ろしく記憶が良くて、一度聞いたことは細部まで覚えているけれど(そのうえ、バラバラに聞いたものを順序良く組み立て直すことも得意だ)、自分にはとても無理だからだ。
きっと、少年の祖母ソーニャも同じように記憶力が良いのだろう。彼女が事件の謎を解く知識の源は、すべて、書物や人から聞いた情報によると聞いている。
今はまだアレクセイはソーニャに依存しているが、アレクセイの好奇心は非常に旺盛である。そのうち、たくさんの知識を蓄え……やがては祖母に負けない推理力を発揮するようになりそうだ。楽しみである。
(はぁ、できたら将来、犯罪捜査局に入ってくれねぇかな。ムリだよなー。……でも、得難い存在だよ、アレクもソーニャさまも)
ホッと一息ついて、ダニールはいつの間にか出されていた高級なお茶をゆっくりと味わった。
離宮へ来るのは緊張するが、ここで美味しい茶や菓子をいただけるのはなかなか至福なひと時である。その代わり、日頃のお茶が不味く感じられる弊害も出るのだが。
「ダニール。また、何か変わった事件があったら教えてね!」
「ん?ああ、まあ……でも、出来れば俺が自分で解決したいよ」
もう来るな!と言っているエイドリックの視線を感じつつ。
ダニールは軽く肩をすくめて、苦い笑いを漏らした―――。
こちらの作品が面白かった!と思ってくださったミステリ好きな方…
よければ、『大正ロマネスク事件簿』の方も読んでいただけると幸いです。
連作短編形式、年内には次話を更新予定です。