第八十四話 とある自衛隊員の葛藤
陸上自衛隊・第一空挺団所属の三浦拓真は、緊張しながら輸送トラックの荷台で揺られていた。
齢23歳。若手の自衛隊員ではあるが、第一空挺団に所属するだけあって、その肉体は鍛え抜かれている。
だが、そんな体と反し、初めての実戦を目の前にして、拓真は手が震えていた。
「おい、拓真。大丈夫かよ」
隣に座っていた先輩自衛隊員が、苦笑しながら心配げに肩を叩いてくる。
拓真は慌てて返事をしようとしたが、体が震えすぎていて、返す言葉は裏返ってしまった。
「あっぁあ。大丈夫です……」
「ハハ、大丈夫じゃなさそうだな」
先輩は冗談めかして笑う。
「でも安心しろ。俺たちは地獄みたいな訓練の日々を潜り抜けてきた。俺らはヤクザも恐れる第一空挺団だ」
気軽に冗談めかして笑う先輩だが、彼もまた初めての実戦には変わりない。
それを知っているので、拓真は思わずジト目を向けた。
「……先輩だって、初めての実戦じゃないですか?」
「まあ、な。でも、日々重ねてきた訓練が裏切る事は無い。それこそ無意識でも体は動くさ。そういう風に叩き込まれて来たんだからな」
『これまで積み重ねてきた訓練が自信を生んでいる』と先輩は言う。
しかし、拓真だって同じだけの訓練をこなしてきた。
確かに先輩の方が在籍年数は長いが、訓練で負けているとは思っていない。
「……俺だって訓練はしてきました。でも……それでも怖いものは怖いんです」
「ハハハ!正直者でいいじゃないか。別に怖い事は、悪い事じゃない。しっかりと自分の中の恐怖と向き合って話し合えばいいさ!」
ドシドシと背中を叩いてくる先輩に、拓真はうんざりしたような表情を浮かべた。
だが、その顔にはどこか安堵も混じっている。本心から嫌だとは、思っていなかった。
「……でも、そうですね。これから先、自衛隊を続けていくなら、今回の様な場面に出くわすかもしれない。今のうちに克服しておいた方が良いのかもしれません」
「良い心構えだ!」
先輩はニッと笑い、親指を立てる。
そんな会話を交わしていると、トラックの振動が止まり、エンジン音が静かになった。
「さ、拓真。降りるぞ」
「はい……」
返事はしたものの、拓真の足取りは重かった。
荷台から飛び降りると、冬の冷たい空気が一気に肌を刺す。
ブーツ越しに感じる大地の硬さが、これから始まる現実を予感させた。
周囲ではすでに降車した隊員たちが装備のチェックを始めており、あちこちで短い指示と確認の声が飛び交っている。
「第一空挺団、集合!」
鋭く通る隊長の号令が、空気を切り裂く。
拓真は慌てて列に加わり、姿勢を正して敬礼した。
「作戦は明朝06:00に開始される!それまで各自、装備の確認と休息をとれ!」
命令を受けた隊員たちは、それぞれの持ち場へ散っていく。
拓真も先輩と共に、指定されたテントへと足を向けたが、どうにも心が落ち着かない。
それは、冷たい空気がそう思わせたのかもしれない。
「先輩……」
「ん?どうした?」
「……やっぱり俺、本当に……人を撃てるか分からないんです……先輩は……どうなんですか?」
その問いに先輩は歩く速度を緩め、空を見上げるようにして立ち止まる。
しばしの沈黙のあと、ポケットからタバコを取り出し、ゆっくりと火をつけた。
ライターの音が小さく響き、オレンジ色の火が一瞬だけ夜の帳を照らす。
「……正直に言えば、俺も分からん」
煙をゆっくり吐き出しながら、ぽつりと漏らすように答えた。
「訓練じゃ、ターゲットはただの的だった。撃てば倒れるし、動かないし、感情もない。でも、明日は違う。相手は生きてる人間だ」
その言葉に、拓真はごくりと唾を飲み込んだ。
血が流れ、心臓が鼓動し、思い出があって、家族がいる。
撃たねばならないのは、そういう『人間』なのだ。
「俺たちは、『国を守るために』ここにいる。でもな、拓真……」
先輩はタバコを指で弾き、灰を落とした後、足元でそれを踏み消した。
「『国を守る』って言葉は耳障りがいいけど、つまりは『敵を殺す』ってことだ。お前が撃たなきゃ、仲間が撃たれて死ぬ。お前が撃たなきゃ、自分が死ぬ。……そういう場所に、俺たちは今、立ってるんだよ」
「…………」
静かな口調に、戦場の現実が滲む。
拓真は無意識に、手のひらをぎゅっと握りしめていた。
俺は本当に、人を撃てるのか?
俺は本当に、人を殺せるのか?
それは『正義』なのか?『任務』なのか?それともただの『殺人』なのか?
そんな問いが、心の奥で何度も何度も反響する。
「……でもな、拓真」
先輩はふっと笑って、肩を軽く叩いた。
「最初から『撃てる』なんて思わなくていい。俺たちは人殺しになるために来たんじゃない。守るためにここにいるんだ。それを忘れるなよ」
その言葉は、少しだけだが、確かに拓真の心を軽くした。
「……はい」
自分の返事が、どれだけの重みを持つのかは分からない。
でも、いずれ戦場で答えを出さなければならないのだ。
拓真は空を仰ぐ。
曇天に覆われた暗い夜空は、少し晴れたようにも見える。だが、まだ分厚く、拓真の心情を表しているかのように広がっていた。
~~~
さらに時刻は進み、深夜と呼べる時間帯に差し掛かり始めた午後10時。
宿舎の中には重苦しい空気が漂い、普段なら騒がしいはずの隊員たちの声も、今日はほとんど聞こえない。
いつもであれば、どんなにうるさくとも訓練の疲労で気絶するように眠れる……ハズだった。
しかし、今夜は違う。眠れそうにはない……。
拓真は小さく息を吐き、布団からそっと這い出る。
就寝時間で真っ暗な室内を物音を立てぬよう気をつけながら、宿舎の外へと続くドアを開けた。
外に出た瞬間、さらに一層寒くなった夜の空気が肌を刺す。
街灯がポツリ、ポツリと一定間隔あるだけで、明かりはほとんど無い。故に、空を見上げれば雲の隙間から綺麗な星空が見える。
時折遠くから聞こえる監守の足音と、木々と風が異様なまでに大きく聞こえた。
拓真は、寒くて無意識に両腕を擦りながら歩く。
冷気が脳を突き刺し、頭の中が静かに研ぎ澄まされていく。
そんなとき、視界の片隅に自販機の光がぼんやりと浮かんだ。
闇に溶けるような空間の中で、そこだけが浮島のようにぽつんと光を放っている。
拓真はポケットから小銭を取り出し、自販機の前で立ち止まった。
喉が渇いているわけではない。ただ、何かをしていないと落ち着いていられなかった。
ピッタリの小銭を選んで一つずつ自販機に入れていく。
そして、缶ジュースを押そうとした……その時だった。
「……何を買うか迷ってるのか?」
突然、低く落ち着いた声が、背後からかけられる。
驚いて振り返れば、そこには50代後半の男が立っていた。
白髪交じりの短髪と無駄のない体躯。戦場を生き抜いてきたと思わせる冷淡な眼差し。
それはこれまで毎日のように見てきた人。それは……。
「あっ……隊長」
第一空挺団の隊長だった。
反射的に背筋が伸びる。
直属の上官とはいえ、これまで直接会話を交わす機会はほとんどなかった。
そして何よりも就寝時間なのにも関わらず、出歩いている事がまずい。いつもならば、叱責の後に連帯責任の腕立て伏せ100回が待っている。
しかし、隊長は何も言う事無く自販機に近寄り、コーヒーのボタンに手を伸ばした。
ガコンと落ちてきた缶を拾い上げると、プルタブを開けて飲む。
隊長は缶コーヒーを片手に、無言でベンチに腰を下ろした。
「……拓真一等陸士だったか?少し座りたまえ」
促されるまま、拓真は怯えながらベンチに腰を下ろす。
何か言われるのかとビクビクしていると、隊長は缶コーヒーを飲みながら夜空を見上げた。
そして、目線を変える事無く、静かに言葉を発す。
「眠れないか?」
いつもは『鬼』とも『悪魔』とも言われている隊長の言葉に、拓真は心底驚いた顔になる。
だけども、すぐさま隊長が自分を気遣っていると気が付くと、正直に心情を答えた。
「……はい」
たったの一言。ただそれだけの返答だったが、隊長はそれ以上は何も言わず、静かにコーヒーを傾ける。
しかし、そこには哀愁とも同情とも取れない感情が滲んでいた。
そして、缶コーヒーから唇を離して数舜の間の後、隊長は少しだけ笑う。
「まあ、初陣の前夜にぐっすり寝られる奴なんていない。そう言う俺も、その1人さ」
淡々とした言葉。
だがそれは、冷たさではなく、むしろ静かな理解を含んでいた。
隊長もまた……自分と同じように夜を過ごしている。
だからこそ、拓真は安堵にも似た息と共に不安の感情を、ゆっくりと口に出来た。
「……俺、本当に人を撃てるのか分からなくて」
隣に座る隊長は、何も言わない。
ただ、静かに缶コーヒーを傾けるだけだった。
「訓練ではずっと的を撃ってきました。でも……明日は違う。撃つのは、生きている人間で……家族や友達がいる人たちで……」
自分の声が徐々に震えているのが分かる。
それを止めようと拳を握るが、どうしようもなかった。
「……隊長は、怖くないんですか?」
その一言は、幼さすらにじむ疑問だった。
しかし、その裏に込められた思いと感情は、到底幼稚と片付けて良い物ではない事は、誰の目から見ても明らかだ。
だからこそ、隊長は直ぐには答えることはせず、残っていたコーヒーを一気に飲み干し、缶を足元に置くと、ようやく拓真の方を見た。
その向けられた瞳は真っ直ぐで、怒りも苛立ちもない。
「お前は、自衛官としての仕事を何だと思っている?」
突然の問いに、拓真は戸惑う。
しかし、言葉に詰まりながらも自身の考えを口にした。
「国を……守ること、ですか?」
あまりに模範的な回答に、隊長は薄く笑った。
「そうだ。俺たちの仕事は国を守る事だ。だがな、何かを守るってのは、時に『敵を殺すこと』でもある」
その言葉に、拓真は俯く事しかできない。
「お前が引き金を引かなければ、仲間が死ぬ。お前が撃たなければ、自身が死ぬ。お前が撃たなければ、家族が死ぬ」
隊長の言葉……それは先輩が言っていた言葉と同じだった。
「お前が自衛隊に入隊した瞬間から、そういう世界に足を踏み入れたんだ。覚悟を決めたまえよ」
拓真は黙ったまま、拳をぎゅっと握りしめた。
理屈では分かっている。だが、心がそれを受け入れきれない。
「……でも、人を殺さずに済む方法だって……あるんじゃないかと思うんです。交渉とか……」
隊長は一瞬、顔を上げて夜空を見た後、ふっと笑った。
「ハハ、それは理想論だな。もちろん、人を殺さないで物事を解決できるならば、それが最善策だ。しかし、現実はそう甘くない」
空笑いの含んだその声には、どこか諦念すら混じっている。
それだけで、隊長が同じ道を歩んできたことが何となく察せられた。
「だがな、俺たちは『軍人』だ。軍人ってのは『理想』で動けない。動いちゃいけない。俺たちは、与えられた『任務』を遂行するだけだ。そこに『いい』も『悪い』もない」
言い切るその声には、迷いは一切なかった。
ただただ合理的で、冷静。非情なまでに現実的な答え。
しかし、それが長年軍人として過ごして来た隊長の覚悟であり、重みでもあった。
そして、それが『軍人』と言う存在なのだと、拓真はあらためて思い知らされる。
そう拓真が思った瞬間だった……。
『ウゥゥゥゥゥゥゥッッ!!』
突然、基地内に警報が鳴り響いた。
「「っ!?」」
警報音にびっくりした拓真は、反射的に立ち上がる。
隊長も同じく無言で立ち上がり、眉をわずかにひそめた。
『至急、全隊員に通達!基地内において脱走兵を確認!該当の隊員4名、現在、南側フェンス方向に逃亡を試みている!全隊員は直ちに持ち場につき、脱走兵を確保せよ!』
アナウンスが響き渡るなか、拓真は訳が分からずその場に凍りついていた。
しかし、そんな拓真とは真反対に、隊長は静かに呟く。
「脱走兵か……めんどくせーな……」
その声には感情の一切が乗っていなかった。
「た、隊長?」
「拓真一等陸士、行くぞ」
「は、はい」
隊長が駆け出した後に続いて、拓真も訳が分からないままに走り出す。
先ほどまで抱いていた迷いや恐怖は、一瞬だけ後ろへと追いやられた。
走っている途中にもアナウンスが繰り返される。
脱走兵たちは依然として南側フェンスに向かっているとの情報に、隊長は速度を緩めることなく走っていく。
やっとの思いでついて行くこと数分。暗がりの中、微かに動く影が見えた。
よじ登るような動作。フェンスに手をかける姿が、月明かりの下で浮かび上がる。
「おい!お前たち、何をしている!止まれ!」
全力ダッシュにも近いスピードで駆けよってきたのにも関わらず、一切呼吸の乱れが無い隊長は大声で叫ぶ。
だが、隊長の声を聞いた4人の脱走兵は、止まるどころかさらにフェンスを登ろうとした。
そんな彼らを見た隊長は、迷いなくホルスターから拳銃を抜くと、脅しでは無い事を分からせるようにスライドを引く。
そして、ゆっくりと構えた隊長は、大きな声で最終警告を告げる。
「おい!止まれと言っている!さもなければ撃つぞ!」
しかし、そんな言葉に応じる者は、誰一人としていなかった。
むしろ、逃げ足をさらに速め、ついに1人がフェンスの上を乗り越える。
「……ッチ、警告はしたぞ」
1人がフェンスから飛び降り、地面に着地するのと同時。隊長は引き絞るように引き金を引いた。
バン!と乾いた銃声が夜空に鳴り響く。
まさか本当に撃つとは思っていなかった拓真は、思わず身をすくめた。
それは、彼ら4人も同様だったようで、1人の脱走兵が驚いてフェンスから落ちている。
どうやら弾は、外れたのか外したのかは分からないが、誰にも当たっておらず、全員が無傷だ。
「もう一度言う!投降して、今すぐ戻れ!」
拳銃を構えたまま、隊長はゆっくりと歩み寄る。
だが、残る3人の脱走兵は躊躇なくフェンスを乗り越え、そのまま闇の中へと走り去っていった。
「チッ……逃がしたか」
隊長は舌打ちを一つ漏らし、銃口をゆっくりと下ろす。
そして地面に倒れている男へと視線を向けた。
「拓真一等陸士、そいつを押さえておけ」
「は、はい!」
拓真は慌てて駆け寄り、倒れている男の腕を掴み押さえこむ。
男もまた抵抗する気はないのか、何の苦労もすることなく拘束することができた。
拓真は、そのまま男の体を引きずり、近くの街灯の下へと移動する。
そして、そこで初めて男の顔がはっきりと見えた。
「……矢島、二等陸曹……?」
そう言葉にした瞬間、男の目がわずかに揺れる。
やはり間違いない。拓真が入隊して間もない頃、訓練で幾度となく怒鳴られた中堅の曹長格。
まさか、その彼が脱走兵として地面に伏しているとは……信じられなかった。
「……頼む。見逃してくれ」
矢島は掠れた声で呟いた。
「頼む……俺には……妻と……まだ小さい娘がいるんだ……」
その言葉は、拓真の胸の奥に重くのしかかる。
家族がいる。帰りたい。生きたい。
それは、矢島だけではなく、きっと自分も同じだ。
ただそこに違いがあるとすれば、守る者の多さと重さだけだろう。
だからこそ、その気持ちが、痛いほど理解できてしまう。
「……」
自然と拓真の手から、力が抜ける。
指が緩み、矢島の腕がわずかに動いたそのとき……。
「拓真一等陸士」
隊長の冷静な声が響いた。
「絶対に逃がすな。もし逃がしたら、お前も軍法会議だ」
その一言は、氷のように冷たく、鋭かった。
そして、それは現実を思い出させるのに、十分すぎる言葉でもあった。
「っ……はい!」
反射的な返事と共に、拓真は矢島の腕を強く押さえ直す。
それと同時に、自分の中で何かが、音を立てて崩れる気がした。
矢島はもう何も言わない。
ただ、静かに俯いて、肩を震わせるだけだった。
その背中を、拓真はただ見つめる。
(これが……本当に『正しいこと』なのか?)
その問いは、誰も答えてはくれない。
「……」
ただ、いつかは答えを出さなければいけない問だと、理性では無く本能が漠然と理解していた。
「…………」
冷たい夜風が、吹き抜けた。