第七十七話 絶望的な差
「こんな所で会えるなんて、運が良いですね」
空から降りてきた女は、漫然とした笑みを浮かべながらそう言った。
あまりにも異様な光景に、俺たちは言葉を失う。
「リ、リーダー……」
後ろから、不安げな声が聞こえてくる。
俺もすぐに何か指示を出さなければならないのに、なぜか身体が動かない。
そんな俺とは対照的に、一番好戦的なケイが一歩前へ出て、女にガンを飛ばした。
「あん?お前誰だよ!」
190センチの巨体が発する威圧感にも、女は微塵も動じる事はない。
それどころか、まっすぐに俺の方だけを見つめている。
「(……なんだ、この不気味さは?)」
警戒心が強まるのを感じながら、俺はケイに声をかけた。
「……ケイ、やめろ。なんだか嫌な予感がする」
俺は理性では無く、本能が訴えるままにケイを制止させる。
ケイは不満げに唸ったが、それでも俺の指示には従い、後ろへ下がった。
「良い判断ですね」
女は軽く拍手をしながら、どこか楽しげにそう言った。
その態度があまりに挑発的で、ケイのこめかみに青筋が浮かぶ。
「ケイ、やめろ!」
再度制止しながら、俺は女へ視線を向けた。
「……こんにちは?で合っていますか、お嬢さん?」
警戒心を解かず、なるべく穏やかに言葉を選ぶ。
今の状況は、まるで時限爆弾の解除をしているような気分だった。
そんな俺の気分を笑うかの様に、目の前の女は微笑を崩さず、余裕たっぷりの態度で答えた。
「ええ、こんにちはで合っていますよ。ぼくちゃん」
その揶揄う様な言葉に、俺よりも先にケイとシンのこめかみに青筋が立った。
だが、ここで挑発に乗ってはいけない。
「……ケイ、シン、少し黙っていてくれ」
二人を制しながら、俺は女に向き直る。
「……失礼で申し訳ないが、君の名前を聞いても良いかな?」
慎重に、冷静に。
相手を刺激しないように、最大限の注意を払う。
「そうですね。私の名前はスイキョウと言います。以後お見知りおきを」
俺はその名前に、聞き覚えがあるような気がした。
しかし、明確に知っている名前では無く、喉に小骨が刺さったかのような不快感が脳の中に残る。
「…スイキョウさんですか……。俺の名前は……」
「いえ、名乗らなくても結構です。貴方は『天羽 迅』さんですよね」
なぜか俺の名前を知っているスイキョウに、俺よりも先に周りの7人が警戒心を一気に引き上げた。
中には剣を抜く者までいる。
慌てる俺だったが、スイキョウの次の言葉が、俺たちの警戒心を怒りへと変えた。
「ふふ、でも天羽迅って名前、すごく似合ってますね。特に、カワサキだか、カワセミだか知りませんが、てっきり髪色は青とオレンジ色だと思っていましたよ。あっ、もしかして奥多摩に住んでいるのって、川が綺麗だからですか?それともニジマスでも釣りたかったんですか?」
その言葉に、俺以外の全員が一瞬でブチ切れた。
「ふざけんな!俺たちのリーダーに何言ってるんだよ!殺すぞ!」
シンが剣を抜き、スイキョウへ向ける。
その動きを見たケイが、戦闘開始の合図と勘違いし、勢いよく飛び出した。
「おい!待て!」
そんな声は、空しくケイの耳を通り抜けてしまう。
勢いよく振られた剣は、スイキョウの肩から脇腹へと抜ける軌道を描く。
一瞬にして、スイキョウを切り裂くと思われた剣は、高い金属音と共に、何もない空中で静止した。
「な、なに?!」
スイキョウは動いていない。
なのに、ケイの剣はまるで『見えない壁』に阻まれたかのように止まっていた。
何が何だか分からずに戸惑っているケイを見て、揶揄うように笑った。
「ふふ、貴方はまだまだですね。剣が止まったぐらいで動きを止めるなんて」
「う、うるせー!」
その言葉に怒りを増した拳が放たれる。
だが、あまりにも直線的なパンチをスイキョウは読んでいた。
まるで合気道のお手本の様にケイのパンチをいなすと、手首を返し投げ飛ばす。
「ぐぅお!」
ケイの巨体が宙を舞い、高速道路の壁を飛び越えていく。
そのまま、ケイの巨体は多摩川へと落下した。
「ケイッ!!」
水音と、微かにうめく声が聞こえた。
どうやら、致命傷にはなっていないようだが……。
「(……ダメだ。こいつは、ヤバい)」
俺はこの時、はっきりと理解した。
目の前の女、スイキョウの実力は、俺たちの常識の範疇を超えている。と……。
「さて、次はどなたが相手をしてくれるのですか?」
スイキョウは、シンに視線を向けた。
「ほら、そこの細身の子。どうです?あなたはさっきの大柄の子よりも、臆病なのですか?」
シンの眉間に、ピクリと血管が浮かぶ。
「あん?やんのかてめぇ!」
ケイが倒されたことで、一度は慎重になっていたはずのシン。
だが、スイキョウの挑発的な態度と、ケイへのあからさまな嘲笑が、彼の理性を吹き飛ばした。
シンは剣を構えながらも、しかし慎重に歩を進めた。
先ほどのケイとの戦いが脳裏に残っているのか、怒りの中にも冷静な部分が残っている。
「……チッ」
飛び込むに飛び込めない状況に舌打ちをする。
余裕そうに笑っているハズなのに、飛び込めない威圧感がスイキョウにはあったのだ。
そんなシンの様子を見て、スイキョウはどこか楽しそうに微笑む。
「臆病ですね。さっきの大柄の男の方が勇気はありましたよ?」
その一言に、シンの目が鋭くなる。
ケイにライバル心を持っていた彼は、挑発されて僅かに残っていた冷静さを失った。
「うるせぇぇぇぇぇ!」
シンは叫びながら、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。
4階層のホブゴブリンですら一刀のもとに断ち切る一撃。だが、その刃はスイキョウの指先でぴたりと止まった。
「なっ……?!」
シンの顔が驚愕に歪む。
剣を持つ両腕に力を込めて押し込もうとするが、まったく動かない。
まるで、自分の全力の一撃が『遊び半分』で止められたかのような感覚に、シンは戦慄した。
驚愕に歪むシンの顔を見て、スイキョウはモルモットを観察するように見つめる。
「……あなたは剣に向いていませんね」
「……は?」
「拳で戦った方が、はるかにマシです」
スイキョウの何気ない言葉。
だが、それはシンの逆鱗に触れるのに十分だった。
「テメェ……ッ!」
シンは怒りに任せて剣を放り捨て、拳を握りしめたまま殴りかかる。
しかし……。
「遅いですね」
スイキョウは悠々と、紙一重の距離で拳を避けていく。
左の拳を振るえば、その方向へ軽やかに体を逸らし、右の拳を繰り出せば、まるで風のように身を翻して躱す。
「くそっ! くそっ! くそっ!!」
次々と拳を繰り出すシンだが、その全てが空を切る。
まるで、大人が子供の攻撃をいなし続けているかのような光景だった。
「もう終わりですか?」
スイキョウの冷ややかな声が響く。
それがシンの闘志に火をつけた。
「まだだぁぁぁぁぁぁ!!!」
最後の渾身の一撃。
それは全身の力を込めて振り抜いた拳。しかし、それが災いだった。
ドスン!と重い音と共に、その拳はあっさりと片手で受け止められてしまった。
渾身の一撃を受け止められたシンの顔に浮かぶのは絶望……では無く、苦痛を耐える表情だった。
「ぐぅ!」
「シン!大丈夫か!」
迅が即座に駆け寄り、シンの拳を見れば、中指が赤く腫れあがっていた。
「……ぁぁ、…………大丈夫だ」
小さなうめき声が混じりながらも大丈夫と言うシンだが、明かに大丈夫ではない。
「でも……これは……」
俺は、この怪我を見た事がある。
その名を『ボクサーズナックル』。正式名称を『伸筋腱脱臼』と呼ばれる怪我だった。
シンは幼い頃からボクシングをしていたが、中学生の頃にこの怪我を発症してしまった。
あまりにも痛いのか、軽く涙を流しながらうめくシンを見るスイキョウ。
その顔は、興味を失った子供のような顔をしていた。
「……残念ですね。最後のパンチはなかなか良いものでしたのに……」
彼女は、まるで『壊れたおもちゃ』を見るような瞳をして、こう言い放った。
「これでは『不良品』ですね」
スイキョウの言葉が、シンの傷ついた拳よりも深く胸を抉る。
その冷たく、軽蔑にも似た言葉に、俺の中で何かが弾けた。
「……てめぇ!」
気づけば、俺は腰に隠していたナイフを抜き去り、スイキョウへ向かって飛びかかっていた。
「殺すッ!!」
怒りのままに、ナイフを閃かせる。
右手のナイフで横薙ぎに斬りつけ、左手のナイフで喉元を狙う。
それでもスイキョウは、まるで舞を踊るかのように、最小限の動きで俺の斬撃をかわしていく。
「おやおや……随分と怒っていますね」
ふざけた口調のまま、スイキョウは俺の猛攻をいなす。
「っざけんな……!」
俺は立て続けに攻撃を繰り出した。
二刀流のナイフは、剣よりも軽く、素早い連撃を可能にする。
そして、剣よりも接近戦に適しており、一撃が致命傷になる確率も高い。だが……。
「惜しいですね」
スイキョウは、俺のナイフを指先で止めた。
ピクリとも動かないナイフを必死に引き抜こうとするが、まったく動く気配がない。
「は、離せ!」
「いいですよ」
急に力が抜けて倒れそうになるが、何とか持ちこたえて後ろに飛びのく。
先ほどの連撃で荒くなった息を整えている間、スイキョウはただ俺の事を見ているだけだった。
「ッチ!」
このままでは、埒が明かない。
そう判断した俺は、息を吸い込むのと同時にスキルを発動させた。
「〈疾風乱刃〉(しっぷうらんじん)!」
途轍もない風をかき起し、巻き上げた砂埃が視界を遮る。
スキルで限界まで身体能力を引き上げた俺は、目にも止まらぬ速度でナイフを振るった。
「はぁぁぁ!」
右、左、斜め、逆手、回転。無数の斬撃を放ち、余波だけでコンクリートに傷がつく。
普通の冒険者ならば、ミンチになって地面に転がっている。しかし……。
ガン!と耳障りな音が周囲に響き渡る。
最後にして渾身の一撃。俺の放った最高の攻撃が止まった。止められていた。
「な……に?」
スキルが収まり、砂埃が晴れると、そこには『何もない空中で止まるナイフ』があった。
スイキョウに触れる寸前で、まるで『そこに透明な障壁がある』かのように、俺の攻撃は完全に遮られている。
あまりにもあり得ない光景に、脳がフリーズしていると、スイキョウは拍手をしながら余裕たっぷりに言ったのだ。
「今の攻撃は良かったですよ。頑張りましたね」
と。