第七十二話 天皇陛下
D.payを公開してから、わずか1日。
驚いたことにD.payのダウンロード数が500万を突破した。
500万と聞けば、多いようにも感じるだろうが、まだ日本人口割合で言えば5%にも達していない。
しかし、逆に言えば1日にして、市場の5%弱を手に入れたと考えれば十分すぎる成果とも言える。
後の95%の人々に関してだが、警戒心の高い者や、そもそも情報を知らない者。政府や企業などと言った外部圧力によって手を出せない者と、様々な問題がある。
だがそれも、ある程度は時間が解決してくれる問題だ。
なぜならば、銀行システムは凍結され、円は実質的に機能していない。
現金も使えず、クレジットカードも無効化され、給料の支払いすら止まっている今、D.payは唯一、決済が可能な通貨システムとして確立しつつあった。
AI『オーディン』の演算によれば、このままのペースで行けば、1ヶ月以内にD.payのユーザーは5000万人を突破し、3カ月で1億人に達すると予測されている。
そうなれば、円は完全に流通を止め、価値は紙切れ以下へとなり下がる。
日本経済は完全に崩壊し、新たな通貨システムが支配する時代が来るのだ。
「……何とも順調だな」
経済の方は、時間でしか解決しない。
で、あるならばD.payは当分放置でいい。
では、次は何をすべきだろうか?
武力?それとも認知戦?
いや、どれも違う。
武力に関しては涼太に任せているし、認知戦に関しては、政府が自ら自滅してくれている。
ならば、ここで俺がとる行動は、『正統性の確保』だろう。
特に日本は2000年以上と言う、長い歴史を持つ国である。そこに積み重ねられた歴史の重みと言うのを無視することは出来ない。
では、どのようにすれば俺たちは『正統性』を得られるのだろうか?
こういう時は、歴史を振り返れば、大体答えが載っている。
この日本において、政府と言う物が変わった瞬間は、江戸幕府から明治政府への移行が一番新しい。
明治政府が正統性を得た方法は非常にシンプル。
『天皇親政を復活させた』
これだけだ。
江戸幕府は、天皇を敬ってはいたものの政治の世界から遠ざけていた。
しかし、明治政府は真逆で『王政復古』で天皇を『統治権の総攬者』とした。
このように天皇を本気で使って、江戸幕府から主権を取ったのだ。
さて、ここまで歴史の話をしたのだが、これらの話を元に、俺たちの事に当てはめて考えてみよう。
今現在日本では、天皇は権威の象徴ではあるものの、政治の実権は持っていない。つまりは、江戸幕府と同じと言える。
しかし、違う点も存在しており、天皇自身があまり政治に関わるような動きを見せていない事だ。
いくらGHQが憲法で天皇を政治から排そうとも、80年以上たった現在においては形骸化されて久しい。
天皇自身が政治に強く戻る意思があるのであれば、もう天皇が政治の世界に戻ってもおかしくは無いのだ。
しかしながら、現実はそうなっていない。それどころか、憲法第1条と第4条を改変しようという動きすら見えない。
それだけで天皇自身が政治に関わろうとしていない事が、分かってしまう。
俺たちは、明治政府のように『天皇を使って政権を奪う』という芸当はできない。
しかし、それでも天皇を味方に、あるいは中立に保つことは極めて重要だ。
たとえ権力を持っていなくても、天皇の存在そのものが持つ『象徴性』と『歴史の連続性』は、政権にとって計り知れない価値がある。
つまり、やるべきことは1つ。
これから俺たちは天皇に会いに行き、天皇をこちらに引き入れる事だ。
そして、現在天皇が居る場所は皇居。そこが今回の舞台となる。
「さて、玲奈。準備は出来たか?」
そう問えば、玲奈はすでにセイントの衣装に身を包み、鏡の前で最後のメイクを整えていた。
シンプルな白いドレスに、純銀の装飾が施されたデザイン。
化粧をした顔をレースで覆い、見えないようにした姿は人間味を喪失させ、女神のような神秘的な雰囲気を纏っていた。
「はい、ちょうど終わりました」
玲奈は小さく微笑みながら、化粧道具を片付け、俺の横に並んだ。
俺たちは、これから日本に『新たな秩序』を示しに行く。
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東京の中心、千代田区・皇居。
かつての江戸城であり、今は天皇が暮らしている日本の中心地。
そんな東京都心の上空数百メートルを飛んでいる俺たちだが、上空からだとなお地上の混乱ぶりが目に入る。
本来ならば、宮廷大卒のエリートサラリーマンがひしめき合い、年収1000万プレイヤーになる事を夢見て日夜必死に働いている……ハズだった。
数日前までは、人の流れが絶えなかった都心のビジネス街も、今は無音と無人に支配されている。
信号は車のない道を照らし続け、巨大なビル群はただ沈黙の中に佇むのみ。
色鮮やかで活気にあふれていた道も、今はただ灰色に映る。
まるでバイオハザードの世界に足を踏み入れたのかと疑いたくなる光景だ。
「まさに終末の世界ですね」
アストレリアのコックピットで玲奈がそんな事を言う。
「その通りだが、逆に言えばこの程度で済んだとも言える。アメリカだったらと思うと頭痛がしてくるよ」
もしもアメリカだった場合、ありとあらゆるガラスは割れ、暴徒と強盗がごっちゃになって物を盗み、死体がありとあらゆるところに倒れていてもおかしくはない。
日本人の『法への意識』とも『平和への懇願』とも言える『大和魂』が、この程度の被害で済ませていると言っても過言ではない。
「ですね。日本に生まれて良かったです」
なんて終末のビル街を肴に話している俺たちなのだが、気が付いたら皇居に到着していたようだ。
着陸の為に、徐々に高度を落として行く。
高度数百メートルとは言え、全長14メートルのアストレリアが降りてくれば、必然とその存在に気が付く。
1人の警備員が警笛を鳴らせば、それに続いて各地で警笛の音が響いた。
「……これは、騒ぎになりそうだ」
アストレリアが地上に近づくにつれ、警備員が続々と集まってくるのが見える。
そして、着地するころにはアストレリアの周囲を取り囲み、警備員はリボルバー拳銃を抜いて構えた。
「そこまでだ!これ以上の侵入は許可されていない!直ちに身分を明かし、降りてきなさい!」
警備隊の隊長らしき男が鋭い声で命じる。
この機体がダンジョン教会のものであることは理解しているはずだが、それでも職務を全うしようとする姿勢は立派と言える。
「……玲奈、降りるぞ。準備しておけ」
「はい」
俺はアストレリアを待機状態の姿勢にして、後部ハッチを開ける。
警備隊も俺たちが降りてくる事を察したのか、アストレリアの背後に集まり、後部ハッチに銃口を向けた。
数十の銃口が俺たちを歓迎する中、アストレリアからふわりと降り立つ。
警備隊は警戒しているのか、一定の距離を保ったまま話しかけてきた。
「貴様ら、ダンジョン教会のセイントとスイキョウだな!貴様らは政府から指名手配されている!今すぐ投降しなさい!」
警備隊隊長らしき男が一歩前に出ながら叫ぶ。
だけども、そんな声を無視して、玲奈は彼らの方へ歩み始めた。
「っ!止まりなさい!」
隊長が鋭く命令するが、玲奈は歩みを止めない。
警備隊員たちは引き金に指をかけ、今にも撃とうとしていた。
しかし、その前に玲奈は足を止め、静かに口を開く。
「……警備隊の皆様。ご存じの通り、私はダンジョン教会ひいてはアルカディア政府代表のセイントです。私は天皇に会いに来ました」
玲奈がそう言った瞬間、警備隊隊長は怒鳴り声をあげた。
「ふざけるな!貴様らの様な下賤な人間が天皇陛下に合える訳がなかろう!」
日本への愛国心も、天皇への忠誠心も強い警備員はまさに職務を全うする素晴らしき人間だが、俺達には全く関係が無い。
「ふざけてなどいません。私は『新たな日本国の代表』として天皇にご挨拶に来たまでの事」
「貴様が日本の代表だと?寝言も大概にしろ!」
隊長の怒りは理解できる。
日本の伝統と歴史を守る立場にある彼らにとって、俺たちアルカディアは『反逆者』だ。
政府から見れば、国家を揺るがすテロリストと同義だろう。
だが、現実は違う。
俺たちはすでに『勝者』だ。
正義が勝つのではなく、勝ったものが正義で正しいのだ。
「……私たちは『新たな日本』を築くために来ました。貴方たちが守るべきものは、政府の命令ではなく、この国の未来と国民ではありませんか?」
玲奈の言葉に、隊長の表情が僅かに揺らぐ。
彼は政府の命令に従うべきか、それとも目の前の現実を受け入れるべきか、迷っていた。
「隊長……」
後ろの隊員の1人が、戸惑った声を上げた。
目の前にいるセイントが物凄く強い事は、警備隊員の全員が知っている。
彼らの任務では、俺たちを絶対に投資てはならない。しかし、現実問題として俺たちを止めることが出来ない事が分かってしまう。
数舜の沈黙の末、隊長は深く息をつくと、静かに銃を下ろした。
「………分かった。ただし、我々の言う事には従ってもらう」
「ええ、それで構いません」
隊長が銃を下ろすように言うと、俺たちを囲んだ状態で皇居の中に案内された。
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皇居の奥へと案内される間、俺たちを取り囲む警備隊員たちは終始無言だった。
彼らの表情には、未だ消えぬ警戒心と、政府の命令と現実の間で揺れ動く迷いが滲んでいる。
しかし、それでも銃を向けることなく、俺たちを天皇陛下のもとへと導く。
皇居の中は静寂そのものだ。まるでこの場所だけが、世界の混乱から切り離されているかのように。
廊下の先にある重厚な扉の前で、隊長が足を止め、俺たちに振り返る。
「この先に天皇陛下がおられる。くれぐれも失礼のないようにな」
「ええ、心得ています」
玲奈が軽く頷くと、隊長は深く息をつき、静かに扉を開いた。
扉の向こうに広がっていたのは、格式高い謁見の間だった。
余計な装飾を排した、威厳ある空間。中央に設えられた一枚の座椅子。そして、その前に佇む一人の老いた男。
……天皇陛下だ。
テレビでしか見たことの無い天皇に、玲奈は臆することなくゆっくりと歩み寄り、一礼をする。
その一連の仕草が、見とれる程に優雅で、警備隊隊長は驚きのあまり目を開く。
しかし、天皇は玲奈を静かに見据えており、一切表情を変えない。
そして、静かに見据える瞳には、長きにわたり国の象徴として生きてきた者の、静かな覚悟が宿っていた。
「……あなた方が、アルカディアの指導者ですね」
天皇の言葉に、玲奈は落ち着いた声で答える。
「このたびは、初めて御前にて拝顔の栄を賜り、誠に光栄に存じます。私は、アルカディア泳にダンジョン教会の代表を務めております、セイントと申します。このたびは建国に際し、日本国民の象徴たる陛下に拝謁を賜りたく、謹んでご挨拶に参上いたしました」
天皇は静かに頷いた。
「ご丁寧にどうも。……ですが、挨拶だけが目的ではないのでしょう?」
その声音は穏やかだったが、尋常ならざる威厳を湛えていた。
それは単なる一個人の重みから来る威厳ではない。
二千年の歴史を背負い、象徴として在り続けた者の圧力だった。
玲奈はそれを正面から受け止め、わずかに頭を垂れると、静かに言葉を紡ぐ。
「……はい。その通りでございます陛下。……本日、陛下にお目通りを賜りましたのは、挨拶のみならず、重大なお願いをお伝えするためにございます」
玲奈は静かに息を整え、真っすぐ天皇を見据える。
「……どうか、陛下ご自身に、私どもの国へお越しいただきたく……伏してお願い申し上げます」
一瞬、場の空気が凍りついた。
警備隊長が弾かれたように顔を上げ、激昂する。
「貴様! 天皇陛下に何という無礼を!」
彼の叫びと同時に、数人の警備隊員が銃を構えようとする。
しかし、玲奈は一歩も動じず、ただ静かに続けた。
「陛下。失礼の段、重々承知の上で申し上げますが、日本という国家は、もはや崩壊の瀬戸際にございます」
天皇は目を閉じ、玲奈の言葉に耳を傾ける。
警備隊長が更に何か言おうとした瞬間、玲奈はわずかに指を動かした。
瞬間、警備隊長の口が開かなくなる。
「……っ!?」
彼は何が起きたのか分からず、喉を押さえて苦しそうにするが、玲奈は一瞥すらくれなかった。
「……日本政府は『緊急事態宣言』という最悪の手段に訴え、円の流動性を凍結し、報道と言論の自由を制限いたしました。その結果、国内外からの信用を喪失しつつあります。このまま旧体制を維持し続ける限り、再建は叶わぬものでございます」
玲奈の言葉は、誰の目にも『事実』だった。
それが分かるからこそ、警備隊員たちは何も言えずにいる。
天皇はしばらく沈黙し、やがてゆっくりと目を開いた。
「……日本政府は崩壊する。だから、アルカディアに来い。そう言いたいのですね?」
「その通りにございます。ただし、それは一方的な要請ではございません」
玲奈はそこで言葉を詰まらせた。
一瞬、何かを決意したように目を伏せ、そしてはっきりと言った。
「陛下が共に歩んでくださることにより、日本国民は安心と秩序を取り戻し、新たな時代への希望を抱けるものと、私は確信いたしております」
その言葉を聞いた瞬間、俺は驚いた。
玲奈の声には、一切の迷いや偽りがなかったからだ。
「……あなたは日本国民を守りたいのですね?」
「……守りたいとは願っております。しかしながら、いかなる犠牲を払ってでも守るべきだ、という強制的な考えではございません」
この言葉もそうだ。綺麗事ならばいくらでも言えるはずだ。
しかし、玲奈は一切嘘を付かずに話している。
「だからこそ、陛下のご存在を必要といたしております。単なる象徴としてではなく、この国を支える精神的支柱として、民の不安を拭い去る存在として……」
玲奈の言葉を聞き、天皇は静かに目を閉じた。
そして、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「……セイントさん。あなたの言葉は分かりました」
深いため息をつきながら、彼は続けた。
「確かに、ここ数十年の日本政府は腐敗に塗れていました。私自身、何とかしたいと考えていましたが、私には権力がない。それを思えば、今の日本政府の崩壊も納得できるものです」
天皇の言葉には、諦観とも取れる静けさがあった。
「しかし、だからといって、あなた方が日本国民の生活を守れるという保証もない。あなた方が豹変し、国民を支配する可能性もゼロではない」
天皇は玲奈を真っすぐに見つめ、言葉を続けた。
「私は、日本国民のための保証が欲しいのです」
玲奈は一瞬、目を伏せる。
そして、深く息をつき、改めて天皇を見据えた。
「……保証、にございますか。アルカディアにおかれましては、陛下にお座をお用意申し上げることも可能ではございますが……陛下のご意図は、そうしたお立場のご提供ということではないのでしょう」
天皇は静かに微笑み、頷いた。
「ええ。私に権力は必要ありません」
玲奈は静かに天皇を見つめ、問うた。
「それでは、恐れながらお伺い申し上げます。陛下がご所望なされておられる『保証』とは、具体的にいかなるものでございましょうか?」
天皇は微かに頷き、ゆっくりと口を開いた。
「私は、日本国民のための保証が欲しいのです。貴方たちアルカディアが、この国の人々を決して見捨てず、彼らの生活と自由を守るという誓約と宣誓が」
玲奈は目を伏せ、一瞬だけ思案する素振りを見せた後、再び天皇を見据えた。
「……然らば、謹んでお応え申し上げます。私どもアルカディアは、日本国民を見捨てることなく、彼らの生活と自由を護り、希望を育む社会の構築を目指しております。その旨、ここにお誓い申し上げます」
玲奈の言葉は堂々としたものだった。
天皇の視線は、玲奈の真意を探るかのようにじっと彼女を見つめていたが、やがて深く息をついた。
「……その言葉、信じましょう。ですが、最後に一つだけ質問をします。セイントさん。あなたにとって『天皇』という存在をどう考えているのですか?」
玲奈はこの問いに即座に答えなかった。
数舜悩んだのちに、天皇の目を真っすぐ見据えながら口を開いた。
「……私にとりまして、天皇陛下とは、この国の象徴にして、民草の精神的支柱に他なりません」
玲奈の声は澄んでいて、強い意志を感じさせるものだった。
「私どもアルカディアが、たとえ日本の統治を担う立場となりましても、陛下のご存在が『必ずしも不可欠である』とは申しません。しかしながら、陛下のご存在が『不要』となることも決してあり得ないと存じます」
玲奈は静かに言葉を続ける。
「今、国民の多くが混迷と不安の中にございます。その不安を取り除き、未来への希望をお与えになれるのは、陛下をおいて他にございません。そのように、私は信じております」
天皇は玲奈の言葉をじっと聞いていた。
そして、何かにケジメをつけたかのような顔になると、天井を見上げながら言った。
「……私の祖先は、二千年以上にわたってこの国を見守ってきました」
天皇の声は落ち着いていたが、そこには深い重みがあった。
「しかし、時代は変わる。国の形も変わる。私自身もまた、歴史の大きな転換点に立たされているのかもしれません」
玲奈は何も言わず、天皇の言葉を待った。
「……貴方たちの『新たな日本』が、本当に国民のためになるのであれば、私はそれを否定しません」
もう天皇の心が決まった事を確信した玲奈は、表情が微かに和らぐ。
「では……」
「ですが」
しかし、天皇は玲奈の言葉を制するように静かに続けた。
「私は日本国民の代表として、日本政府の最後を見届ける義務があります。それまで、私はアルカディアに行く事は出来ません」
天皇の声は小さくて弱いのに、そこに込められた覚悟と意志は岩の様に堅かった。
「セイントさん。あなたに日本国民の未来を託します」
「そのご信任、謹んでお受けいたします」
天皇、この国の王族であり生贄。そんな人間の覚悟と意志は、誰よりも高潔で立派な物だった。




