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第七十話 崩壊前夜




 首相官邸・地下作戦室。


 低く唸る空調音の中、部屋の空気は重く、沈鬱とした空気が充満していた。


 中央の長机を囲むのは、犬塚総理を筆頭に、官房長官、財務大臣、金融庁長官、日銀総裁、防衛大臣、経済産業大臣といった日本の経済・政治・防衛の中枢を担う日本の首脳部だ。


 そんな重鎮が揃う会議室の壁面モニターには、為替市場の数字が赤く点滅していた。


 何とも人目を引くモニターだが、しかしそれを見る者はこの場には1人もいない。

 なぜならば、そこには『1ドル=520円』と言う身たくない現実が映されていたからだ。


 誰しもが沈黙し、口を開くのも一苦労な中、場の空気を震わせるような犬塚総理の怒号が響いた。


「現在の状況を報告しろ!」


 彼の焦りを反映するように、各担当者たちが次々と報告を始めた。


「円相場は1ドル=520円を突破しました。市場は事実上、コントロール不能です」

「日経平均株価は1万8千円を割り込みました。海外銀行を中心とした投資家たちはパニックを起こしており、続々と日本市場から撤退していっています」

「10年物国債の利回りは8%を超過しました。 市場の信頼は完全に失われ、国債は売られ続けています」


 机の上に広げられた資料には、地獄のような数字が並んでいた。


 為替の暴落、株価の大幅下落、そして国債の暴騰。

 日本経済が崩壊する兆候が、まさに目の前で進行していた。


「なぜだ……。なぜ……どうしてこんな短期間でここまで崩壊するんだ?!」


 官房長官が青ざめた顔で叫ぶが、それは会議室にいる誰もが抱いている疑問だった。


 確かに、アルカディアの独立宣言は、日本にとって衝撃的な出来事だった。だが、たった5日でここまで経済が急落するとは考えにくい。


 その問いに、肺を絞り、喉に言葉がつっかえながらも、その答えを日銀総裁が絞り出すように答えた。


「理由は明白です……」


 総裁は資料を手に取りながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「これは偶然ではありません。『誰か』が意図的に仕掛けているのでしょう」


 いや、『誰か』なんて誤魔化す必要は無いだろう。この状況で、こんな行為をして得をするのは1人しかいない。


「……アルカディアか?」


 誰かの低く掠れた声が、会議室の空気を切り裂いた。

 その名を出すことすら、もはや呪詛のように重い。


 独立宣言以来、日本経済はまるで計画されたかのように撃ち抜かれ続けている。

 それを裏付けるように、犬塚総理が険しい声で問う。


「だが、やつらは国際的にテロ組織と認定されたばかりだ。たかが一新興勢力に、こんな大規模な金融工作ができるのか?」


 沈黙が一瞬落ちた後、財務大臣が低く、しかし確信を持った声で返した。


「可能です。むしろ、今となってはそれ以外に説明がつかない」


 財務大臣の言葉に、誰しもが耳を傾ける。


「おそらく……アルカディアは独立宣言の何日も前から、日本円を大量に売り浴びせていました。そして、FX市場で異常なほどのレバレッジをかけた取引を行ったのでしょう」

「……つまり、円が暴落する未来を読んだ上で、賭けたということか?」

「総理のおっしゃる通りです。独立宣言で、日本円の価値が下がるのは明白でした。意図的に暴落を引き起こすことで、巨大な利益を得たのでしょう。そして、その膨大な利益を使い、日本の株式市場、国債市場、そして為替市場を操作したのでしょう」

「…………確かに理屈は通っている。しかし、一宗教団体がそんな事を起こすのが可能なのか?たかだか1兆円程度では話にならんぞ」

「今回の市場分析をしたところ、明かに異質な動きをしていたアカウントを発見しました。それらが動かした資金を追って計算したところ、約70兆円から120兆円ほどの資金が動かされた痕跡がありました。これはあくまで推測ですが、大きく外れてはいないと思われます」

「120兆円………」


 政府関係者の顔に、戦慄の色が広がる。


 120兆円とは、1年の国家予算よりも多い金額だ。

 日本トップのトヨタですら、そんな資産は持っていない。なおさら、現金や当座預金のように流動性の高い状態で持っている資金など数千億円程度だ。


 なのにも関わらず120兆円という規模は明らかにおかしい。ましてや、時の人とは言え立ち上げて1年未満のダンジョン教会が持っているとは到底考えられなかった。


「…………到底……信じられんな」


 犬塚総理の言葉に、この場に居る誰しもが同意した。

 だが、それでも数字が示す根拠は、信じるに値するほど情報が揃っている。


 信じたくない事でも、信じなければならない。


「……まったくもって嫌になるよ」


 ため息をいくら吐いても、この鬱憤した気持ちは消えないだろう。

 それが分かっているからこそ、これからの対策を考えるのだ。


「……ここに居る皆に問おう。これから我々はどうするべきだろうか?」


 犬塚総理の言葉に、各大臣は数舜考え込むように静まり返る。


 そして最初に口を開いたのは、防衛大臣だった。


「……これはもう、『戦争』だ」


 静けさに満ちた部屋に響き渡る2つの文字。

 しかし、そこに込められた意味は、会議室を切り裂くのには十分すぎる言葉だった。


 もしも、冷静な第3者がこの場に居たならば、『冷静になれ』と声をかけた事だろう。だが、この場においては、誰も反論しなかった。いや、できなかった。


 彼らからしてみれば、今回の金融攻撃は、明かに意図的で、何よりも『破壊的』すぎたのだ。

 だからこそ、彼らはこの一連の行動を『戦争行為』だと捉える。


「……ここまでダンジョン教会が力を持っていたのは驚愕だが、これほどまでに国家を攻撃しているのであれば、国家防衛と言う理由も成り立つでしょう」


 内閣情報官の言葉に、誰しもが無言でうなずく。


 もうここに来て、ダンジョン教会がたかが新興宗教だと、思っている人物はいない。

 それこそ、一個の国家レベルだと認識を1つにしていた。


「……しかし、ここで問題になるのが、裏に誰が居るのかどうかです。国家、あるいは国際金融勢力、もっと言えば、1兆規模の資産家。どれでもいいですが、裏に誰かいた場合、厄介ですぞ」


 金融庁長官が呟いた言葉に、各大臣たちは考え込まざる負えない。


 誰かが糸を引いているのか?それともダンジョン教会だけなのか?もしも、裏で糸を引いている者がいるとするならば、それは誰なのか?


 アメリカ大統領?それともどこぞの資産家?


 そんな事を考えるときりが無いが、考えられずにはいられない。なぜならば、その有無で取る対応が180度変わるからだ。


 しかしながら、今その真偽を確認する余裕は無い。この国に、そんな時間的余裕は無い。


「……総理。我々に、まだ打てる手はあるのでしょうか?」


 官房長官の声は重く沈んでいた。

 誰もが答えを知っていた。

 だが、その答えを口にしたくなかった。


 そんな気持ちが会議室を満たす中、日銀総裁が意を決したように告げる。 


「……唯一の選択肢は、政府が直接市場に介入し、円の信用を支えることです」

「……つまりどういうことかね?」


 犬塚総理が静かに尋ねる。


「日銀手動での大規模な為替市場への追加介入、短期国債の緊急買い入れ、資本流出を制限する法案整備。これらが今取れる最大の金融政策でしょう。ですが……正直に申し上げて、それは時間稼ぎに過ぎません」


 日銀総裁は言い切った。


「いま、この瞬間にも円が売られています。今からどんな対応を取ろうとも、崩れ始めた信用を取り戻すのは至難を極めるでしょう」


 静まり返る会議室。

 この場に居る皆が理解していた。


 『詰んでいた』


 このままでは、アルカディアの思う壺。

 だが、日本政府にできることは限られていた。


 絶望的な空気が会議室を支配する中、犬塚総理は絞り出すように言う。


「……それでも、打開策を探せ。どんなに無茶でもいい。何か、何か手を打てるはずだ」

 

 もはや、それは命令ではなく、悲痛な願いのように聞こえた。



~~~



 日本政府が苦渋の表情で暗い会議室に沈む中、俺たちはアルカディア人工島の中央にそびえる『疑似世界樹』の最上階にいた。


 この場所は、経済を混乱させる片手間で造った、俺たちの中枢拠点だ。

 設計のほとんどは涼太の趣味によるもので、無駄に凝った内装はまるでSF映画で出てきてもおかしくはない。


 そして、疑似世界樹の最下層には、魔道演算装置とサーバー群が並んでいた。

 冷却は海水をくみ上げており、それらを賄う電源は準魔力エネルギー炉を10台を並列稼働させている。


 これらの回路は涼太自らが作ったようで、部屋どころか疑似世界樹内を散策しても配線が一切見えない。


 涼太も暇では無いだろうに、時間を見つけては趣味として作っていたようだ。

 しかし、これでも涼太的には満足いっていないらしく、涼太が言うには……。


『……でも、ほんとは量子コンピュータに挑戦したかったんだけど……時間が無かったんだ』


 とか言っていた。

 正直意味が分からないが、きっとオタクのロマンをくすぐる装置には違いないのだろう。


 そんな夢とロマンが詰まった疑似世界樹の最上階バルコニーから見下ろせば、横浜と東京が小さく霞んで見える。

 雑多な街並みが米粒のように遠ざかって見えるその景色は、崩れゆく国を俯瞰するには丁度いい。


「……いや、しかしいい眺めだな。何かが壊れるときほどに美しい物はない」


 俺のつぶやきに、隣でモニターを操作していた涼太が肩をすくめた。


「正吾がどんどんラスボスになってくね。まあ『悪役』と言う点だけで言うならば、今も昔も変わらないけど……」

「ハハハ、まったくもってその通りだな。俺が『ラスボス』で『悪役』ならば、悪役らしく演じてやろうではないか。まあ、物語のように『勇者』も『主人公』も『救世主』も現れるとは限らないが……」

「そのまま世界が滅ばない事を僕は願うよ」


 俺たちがバカ話をしている背後で、玲奈は呆れながら紅茶を飲んでいた。

 もともと上流国民だったこともあり、その仕草と気品は完璧としか形容できない程に洗練されている。

 

 そんな玲奈はカップを唇から離すと、呆れた声で言った。


「お二人とも、じゃれ合いはいいですけど……昨日から何も仕掛けていませんよね?本当にこのままで良いのですか?」


 玲奈の言葉に、俺と涼太は無言で顔を見合わせた。

 答えがないというより、答える意味が薄いというべきか……。


「……なんでって言われると……明確な理由はないんだよな」


 俺は肩をすくめながら言う。


「正直な話、もう十分すぎるほどに壊した。あれ以上の攻撃は時間の無駄……とまでは言わないが、費用対効果が悪いだけだ」


 俺の言葉に、涼太が説明を引き継いで語る。


「それに、もう局面は切り替わっているんだ。今は次に『日本政府がどう出るか』の方がはるかに重要だよ」

「と、まあ、そんな訳で攻撃を続行しなかった」


 俺の説明に一応の理解を示す玲奈だったが、なぜかジトっとした目線は変わらなかった。


「……何だよ、その目は」


 少し気になって聞いてみると、玲奈からは地味に心に刺さる言葉が返ってくる。


「……いや……なんだか、正吾さんがゆっくりとしている事が珍しくて……」


 その言葉に、俺は『確かに』と思ってしまった。

 なぜならば、思い返せばこの3カ月間、まったく休日らしい休日が無かったのだ。


 最後にまとまった休みを取ったのは、8月の熱海だったか……。

 いや、あの時はレベル500になって転生したんだっけな?……なんだか休まらなかった記憶が薄っすらと残っている。


「……俺、なんで過労死しないんだろうな?」


 やはりレベルのせいなのだろうか?……分からない。分からないが体が壊れるよりも先に、心が壊れかねない。…………もう少し休みを取るか。


 でも、悲しい事に休みを取れないのが今の状況である。もしもこの戦いが終わったら3日でいい。休みを取ろう。


「……はぁ、休むためにも早めに片付ける必要があるな。……涼太、日本政府は動いたか?」

「ちょっと待ってね……」


 涼太はSNSやテレビなどをAI『オーディン』に調べさせる。その結果、未だに日本政府は動いていない様だ。


「ダメだね。まだ動いていないよ」

「そうか。まあ十八番の『進まない会議』をしているのだろう。何をどう足掻こうが、もはやゲームは終わってる。相手が『参りました』と投了するのを待つしかない」


 これまでは自分たちが行動の主導権を握っていた。それ故に自由に行動出来ていたのだが、これからは攻守が逆転する。

 その事がもどかしくて仕方が無いが、今は待つのが俺の仕事だ。


「待つこと以上に辛い事も無いな……」


 俺の言葉に2人も同意して頷いた。



~~~



 首相官邸・地下作戦室の空気は、もはや沈鬱を通り越して冥界のコキュートスのように、凍りついた絶望の空気が纏わりついていた。


 部屋の隅に設置された時計の針は、夜明け前の午前4時を示している。

 だが、その場にいた誰一人として立ち上がる気配はない。


 明けない夜のように、資料の山と警告色のモニターに視線が吸い寄せられていた。


「総理……決断を」


 官房長官の声は、いつになく低かった。

 それも当然だ。日本経済は、完全に崩壊の一歩手前にまで追い込まれていた。


 『1ドル=600円』の壁が突破されたのは、つい数時間前のことだ。


 もはや、外国為替市場は日本円を見放している。

 日銀が追加で5兆円の為替介入を行ったものの、市場はそれをまるで無視した。


 無慈悲に円売りが続き、今では『1ドル=650円』に迫る勢いだ。

 大企業ですら資金調達が困難になり、銀行間の取引は凍結寸前。


 しかし、それだけでは終わらない。


「大企業の信用枠が、軒並み凍結され始めています」

「銀行間の短期資金の融通も機能していません……市場の心臓が止まりかけています」


 次々と報告が投げ込まれるが、誰も反応を返せない。

 そのすべてが『もう終わっている』ことを裏付けるだけだからだ。


「……東京都内の一部店舗にて……現金払いの拒否が始まりました」


 金融庁の担当者が、喉を潰すような声で告げた。


「電子決済はかろうじて動いていますが、現金の信用は限界です……」


 会議室の中で、誰かが短く息を呑んだ。

 ついにその時が来たのだ。『円が紙切れになる瞬間』が。


 犬塚総理は、ゆっくりと目を閉じ、震える手で顔を覆う。

 その隠れた顔の表情は誰にも分からないが、きっと血の気の引いた顔な事は容易に予想できた。



~~~



 その頃、東京都内では、経済崩壊の兆候などという段階はすでに過ぎていた。


 コンビニやスーパーの棚は、すでに商品が消え失せ、残るのは空になった段ボールの箱と、買い急いだ痕跡だけ。

 開店と同時に消えるのは、パン、米、缶詰、飲料水から、ティッシュやトイレットペーパーといった生活のライフライン。


 並ぶ人々の目は血走り、列はまるで命をつなぐ最後の希望に群がる蟻のようだった。


「すみません、お一人様2点までの制限を……」


 店員が疲れた表情で客を制止するが、すでに限界を迎えている。


「ふざけんな! 俺たちの生活がかかってるんだぞ!」

「金を出してるのに、なぜ買えねぇんだよ!」


 怒声を上げた男が、店員に詰め寄る。

 普段ならば他の定員や警察を呼ぶ事態なのだが、店内はそれが霞んで見える程に混乱していた。


「ふざけんな!さっき並んでたのはこっちが先だろ!」

「横入りしやがって……ぶっ殺すぞ!」


 カゴを引き寄せる腕と、それを引き剥がそうとする指先が絡み合う。

 肘が当たった拍子に床へ転がった缶詰が、カラン、と乾いた音を立てて転がった。


 店員が慌てて制止に入るが、声は怒鳴り声にかき消され、両者の間に割って入る余地すらない。


「落ち着いてくださいッ!今、警察を」

「警察だ?あんなの役に立つかよ!」


 そう言った男の言葉は、最悪な事に的を射ていた。


 あまりにも混乱が広がりすぎていて、警官を総動員してもなお足りない。

 それがさらに警察と政府の不信感を募らせていくという、悪循環を生んでいた。


 しかし、運が良かったのか、巡回していた警察官2人が店内に駆け込んでくる。


「おい!何事だ!」


 大きく張り上げられた警官の声だったが、店にいた人々から向けられた目線は、安心ではなく、冷え切った怒りの視線だった。


「……っ」


 その無言の圧力に、警官の勢いが一瞬削がれる。

 しかし、それでも警察官としての矜持が彼らの足を一歩前へと進ませた。


「警察です!まずは落ち着いて行動してください!」


 だが、その呼びかけに返ってきたのは、感謝でも安堵の声でもなかった。


「帰れ、国家の犬が!」

「逮捕できるもんならしてみろよ!」

「どうせ、お前らは結局何もしないんだろ?!」


 怒声と罵声が容赦なく飛んでくる。


 あまりにも直球で、あまりにも突然すぎるその言葉に、警察官たちは即座には反応できなかった。

 思考が止まり、どう行動すべきか分からず、ただ立ち尽くす。


 そのとき、店内の誰かが小さく呟いた。


「……帰れ」


 それは最初、ほんの一言だった。

 しかし、一人また一人とその声に反応し、声は連鎖する。


「「「帰れ!」」」

「「「「「帰れ!!」」」」」

「「「「「「「「「「「「帰れ!」」」」」」」」」」」


 怒りの波が広がり、店内はやがて『帰れコール』の大合唱に包まれた。


 あまりにも無慈悲で心無い言葉が警察官の心を刺す。

 誰のため、何のために、これまで頑張ってきたのかを一瞬で見失わせる声は、警察官の心を容赦なく打ち砕くには十分すぎるものだった。


 2人の警察官は、逃げるようにして店の外へと駆け出だす。

 そして、傍に停めてあったパトカーに乗り込むと、エンジン音を響かせて去っていく。


 その2人の目には光る雫が見えた気もするが、店内に居た人々は邪魔者を追い出したという一体感でまとまっていた。


 そして、この時初めて警察は知るのだ。


 町を守る警察官や、治安の番人である警察と言った権威は地に落ちている事を。

 かつての『信頼』はもう無く、そこには自分たちを守ってくれない『憎悪』だけが、人々の目にある事を……。



~~~



 首相官邸・地下作戦室。


 会議室のスクリーンには、全国で発生している暴動や混乱が映し出されていた。


 これまでに日本が経験してきた学生運動などとは比較にもならない規模の混乱は、日本と言う島国を徐々に壊していっている。


「……総理」


 官房長官が改めて声をかけた。


 犬塚総理は会議室に集まる重鎮たちの顔を見る。

 誰しもが絶望と諦めの顔をしており、もう万事休すな事が分かってしまう。


「……」


 犬塚総理はこの瞬間が来てしまったのだと、本能にも似た理性が理解した。


 自身の手元にある1枚の資料に目を落とせば、そこには『非常事態宣言の発令』と記されている。


 この数時間の間に何度も目を通した書類。

 あまりにも受け入れがたく、最後の最後の手段であり、諸刃の剣でもあるこの資料に、本能が抵抗感を感じていた。


 しかし、もうこれ以外に対応できる策は無く、このまま状況を放置し続ければ、状況は悪化する一方な事は理性が分かってしまう。


 だからこそ、犬塚総理は覚悟を決めて資料内容の説明を求めた。


「……これを発令すれば、どうなる?」


 その質問に答えたのは、財務省の高官だった。


「こちらの非常事態宣言は、主に『金融市場の完全停止』と『円の全取引の凍結』を意味します。具体的には、すべての円建て決済の一時停止、国民の預金口座の凍結、そして資本流出を防ぐための即時封鎖措置が含まれます」

「……日本経済の流動性を完全に止めるということか」

「はい。そして次に、資本規制を導入し、海外送金の禁止、外貨取引の制限を行います。これにより、アルカディアや海外投機筋による資金操作を阻止します」

「……それで、円の価値は持ちこたえられるのか?」

「短期的には効果があります。しかし……」


 財務省の高官は言葉を切り、慎重に続けた。


「長期的には、海外の投資家たちが日本市場から撤退するでしょう。そうなれば、………日本円は死にます」


 犬塚総理は無言で、こめかみを押さえた。


 世界でもトップクラスに安全と言われた日本円が、たったの4日でこんな事態になるとは誰が予想出来ようか?

 『もっと何かしていれば……』『もっと打つ手はあったのでは?』とも思うが、そんなのは後の祭り。もうすでに事態は決してしまったのだ。


 だからこそ、犬塚総理は決断しなければならない。もう先延ばしは出来ない。


「…………本日、政府は緊急事態宣言を発令する。それと同時に、金融市場の完全停止を決定する」


 この決断が、どうなるのかは神ですら分からない。今はただ神に祈り、自分の選択を信じる事しか……できない。




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― 新着の感想 ―
この先の展開が楽しみですね。 第六十九話の内容は難しく感じませんでしたね、しっかりと説明してくれていたので大半の人が理解できると思います。中高生では少し難しいかもしれませんが、大学生であれば理解でき…
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