第六十九話 金融戦争
普通に話が難しいので、何となくの雰囲気で読んでくれても構いません。ちなみにですが、用語はあとがきに載せているので、気になる方はそちらをチェックしてください。
アルカディア人工島を浮上させてから2日後。
俺と玲奈と涼太は、優雅にも紅茶を楽しみながらモニターを眺めていた。
「……凄いね。もしも終末の世界があるとするならば、きっとこういう事を言うのだろうね」
涼太の意見に、俺は全面的に同意しつつ、自らが引き起こした『世紀末』の光景を満足げに見つめていた。
「……何ら関係ない被害者には、謝罪を述べたい気持ちも無くは無い気分だな」
とは言ったものの、彼ら日本国民にも『全く責任がない』とは言い切れない。
なぜならば、あんな愚物を50年間も与党にし続けた責任が、少なからずあるからだ。
とは言え、その責任は1億2000万分の1程度なので、誤差と言えば誤差……といったレベルの話だが……。
それでも、全部を足せば1になるので、やはり責任は彼らにもある。うん……だから俺は謝らんぞ。
……閑話休題。
それはともかくとして、この2日間で日本は未曾有の混乱に陥っていた。
円は暴落し、為替レートは『1ドル=300円』を超えていた。
この異常事態により、政府は適切な対応を取れずにグダグダと国会議論を重ねている。
まさしく『検討を重ねる』政党としては、期待通りと称すべき対応の遅さだが、俺たちとしては好都合以外の何物でもない。
そして、日本政府の対応が遅れているせいで、日本国内では各地で抗議デモが発生し、鎮圧部隊との衝突で死傷者まで出ている有様だ。
もちろんだが、国内が混乱すればするほど、円安に連動して株式市場もパニックを起こすのは必然の流れ。
日経平均株価は、リーマン・ショック級の下落を更新中で、今現在も底なしに落ち続けている。
正直なところ、アルカディアの『独立宣言』によって円が下落するのは想定済みだった。
たとえば、ウクライナの『クリミア危機』や『ロシア・ウクライナ戦争』。
あるいは、ジンバブエの『失策によるハイパーインフレ』などが近い事例として挙げられるだろう。
こういった事例は歴史上に数あれど、日本という国の『国際的な信用度』は、一般に思われている以上に高い。
まず、ウクライナはGDP50位前後だし、ジンバブエに至っては100位以上になったことが無い。
そんな経済基盤が脆弱な国々と、GDP5位の日本では圧倒的な差がある。
そして、日本が何よりも強いのは外貨準備高だ。2023年までは日本が1位で、その金額1兆2700億ドル。日本円に直せば、190兆円になる。
さらに、対外純資産に至っては400兆円以上もあるのだ。
それらに加え、治安の良さや、通貨・債券市場の信用性。インフラや国際関係と言った物事を総合した日本の信用性は、非常に高い水準にあった。
だが、それでも1ドル=300円まで下落した事を考えれば、いかにアルカディアの独立宣言が世界的インパクトを与えたのかが分かるだろう。
そして、さらに俺たちは独立宣言と同時に『ダンジョンコイン』と言う仮想通貨を発表していた。
これが円の急落に、さらなる追い打ちをかけたのは言うまでもない。
「涼太、ダンジョンコインの状況はどうなっている?」
俺はデータ画面を横目に確認しながら、隣にいる涼太に尋ねた。
「そうだね、順調と言えるね。まだ市場規模としては小さいけど、注目度が高いから成長率はグッドだよ」
涼太はモニターを見ながら軽く笑う。
その笑顔は、思わず零れ落ちた類の笑みだ。
それもそのはずで、ダンジョンコインは発表から2日しか経っていないものの、類を見ない程の急騰をしていた。
その要因が日本円の暴落も相まって、世界中の投資家たちが円を見限り、新たな『投資先』兼『避難先』としてダンジョンコインに群がったのは、皮肉にも嬉しい話だ。
そんなダンジョンコインなのだが、公開直後は『1ダンジョンコイン=10ドル』だったのに、わずか2日で『1ダンジョンコイン=1,000ドル』を超え、時価総額は300億ドルに届こうとしていた。
「このペースなら、あと数日で仮想通貨市場のトップ10に入るかもしれないな」
「だね。ダンジョンコインの方は順調そのものだけど…………FXの方はどうするの?」
涼太の言うFXとは、俺たちが独立宣言前に逃がしておいた資金のことだ。
独立宣言前、日本円の暴落と政府による資産凍結を予測していた俺たちは、様々なルートを使って円をドルに換えた。
その上で、レバレッジを最大まで賭けた状態で、FXで1000億円をオールインしたのだ。
しかも、そのレバレッジの倍率なのだが、驚異の1000倍。
1ドル=150円から300円に動いたことで、為替の上げ幅は2倍。
つまり、1,000億円 × 1000倍 × 2倍 = 200兆円の利益となる。
レバレッジ分の元本を返済しても、手元に残る資産は『100兆円』。
当然ながら、日本国内の銀行は使わず、シンガポールの銀行を経由することで、税制対策と凍結対策を徹底している。
こうして、俺たちは『あぶく銭』とも言える100兆円を手に入れた。
もちろん、日本政府が本気で動けば、いずれこの資金も凍結対象になるだろう。
それでも、凍結までには数週間かかる見通しだ。
だからこそ、この100兆円は今しか使えない。
どうせ自由にはできない金ならば、日本経済を揺るがす『爆弾』として使った方が、ずっと面白い。
「正吾、このお金。何に使う?」
涼太がキーボードから手を離して問いかける。
数秒考えた俺は、にこやかに笑い、自分が出来る精一杯の爽やかな声で答えた。
「日本経済をさらに混乱させる」
その言葉に涼太は、目を細めて笑う。
「また悪そうな顔してるね。……どんなことするの?」
涼太の問いに、俺は一拍置いてから答えた。
「円の信用を完全に崩壊させる」
涼太は『あーあ、日本終ったね』と軽く肩をすくめて笑った。
しかし、その事で笑えるのは、この世界の中で俺たち3人だけだろう。なぜならば、他の日本国民の99.99%は地獄を見るのだから……。
~~~
翌日。
日本の混乱は、さらに加速していった。
各地で発生していたデモは、もはや暴動ともつかない規模に変わりつつあり、治安の終わりが始まっている。
それは経済にも顕著に表れ、為替は遂に1ドル=350円を突破した。
だが、これでもまだ『序章』に過ぎない。
俺たちはFXで得た100兆円と言う膨大な資産を用い、日本経済をより深く、より暗い奈落へと引きずり込む計画を進めていた。
その計画の第一歩としてターゲットになるのは『日本国債』だ。
現在、政府と日銀は円安対策として、為替市場に介入しつつ、同時に国債価格の下落を防ぐため、金融機関を通じて必死に買い支えている。
国債とは、その国の信用性が市場に現れるモノだ。それを日銀は、金の力で繋ぎ止めている状態だった。
だが、それは裏を返せば『日銀が買わなければ国債は崩れる』という危うい構造に他ならない。
そんな不安定で歪な国債に、異分子が入り込んだらどうなるか?
その答えを知るのは、もう少し後の事だろう。だが、それがきっと愉快な事には違いない。
「……で、具体的にはどうするの?」
涼太がモニターを見つめながら、俺に問いかける。
「単純だ。まず、日本国債を大量に買い占める」
「……それで日銀に『海外投資家が日本国債を信用している』と思わせるわけか」
「その通り。変え支えが外部からもあると錯覚すれば、日銀は安心して円の変え支えを緩める。そして……その油断した隙に、全てを売り浴びせる」
涼太の目が細くなる。
「……国債の信用崩壊を狙うわけね」
「そうだ。国際価格が暴落すれば、金利も爆発的に上昇するだろう。金利が上昇するって事は、『信用リスク』が上昇するって事でもある」
日本の財政でも、海外の財政でも、すべては国債で成り立っている。
20世紀の素晴らしき発明である国債はメリットだらけだが、1つだけ致命的なリスクが存在するのだ。
それが『信用』だ。
国債が登場する前は、『金本位制』や『銀本位制』と言った経済が主流だった。
もう少しわかりやすく言えば、金貨や銀貨と言った貴金属を中心とした国家経済。貨幣の価値は、含まれている貴金属の重さによって決まり、国家の『信用』は全く関係が無かったのだ。
そんな万能にも思える金本位制なのだが、致命的すぎる欠点を抱えていた。
それが『国家も貨幣に縛られる』と言う点だ。
すべての貨幣が貴金属に依存しているせいで、全体のお金の総量が決まってしまう。
そのせいで、常に国家は財政難で、全ては税金から賄うしか無い。
それは戦争の時でも同じで、兵士を雇うにも、武器を仕入れるのにも100%税金を使っていた。
しかし、そんな事では、戦争の規模にも限界が来てしまう。
そして、それは『総力戦』や『世界大戦』を乗り越える事など到底不可能だった。
そこで、イギリスが1914年に金本位制を一時的に停止して戦争に挑んだ。
第一次世界大戦が終わり、一時的な停止だった金本位制を復帰させたが、その後に起こったのが大恐慌だった。
この大恐慌をきっかけに、各国が金本位制を脱し、今の国債と中央銀行制度に切り替えていく。
そして、今となってはすべての国々が『国債』を刷って、国の財源としている。
理論上は無限にお金を刷れる『国債』だが、ではそのお金の『信用』は誰が担保しているのであろうか?
金本位制では、『金』と言う希少資源が『信用』を生んでいた。では、紙切れでしかない『紙幣』に誰が『信用』と言う価値をのせているのであろうか?
答えは一つしかない。『国』だ。
MMT(現代貨幣理論)では、『租税貨幣論』と言う物が語られている。
これを一言で解説すると、『租税は財源では無く、通貨を流通させるための措置』だ。
これは、『租税を払うことが出来る紙』に価値があり、『国家が税金を払わせる制度と能力』が信用を生むのだ。
ここまで語ってきた訳だが、では逆説的に考えてみよう。
もしも、信用を生み出している『国家が税金を払わせる制度と能力』に不備ができたとする。
それが戦争でも内戦でも独立運動でも構わないが、その能力に不備が生まれた場合、通貨の『信用』が低下することになる。
その結果として、急激な円安になったり、日本国債が下落したり、日経平均株価が下落するわけだ。
そして、信用が低下すると金利が上昇する。
これは金利と言う物が、『リスクプレミアムの価格』の現れなのだが、それを語ると長くなるので飛ばさしてもらう。
さて、色々脱線してきたが、ここで本題である『国債の信用崩壊』に話を戻そう。
国債が国家の信用によって利息が決まる事は分かってもらえただろう。
逆説的に言えば、国債の金利が上がれば、国家の信用が低下している事を意味していることになる。
つまり、ここで考えるべきことは『どのようにしたら国債の金利を上げられるか?』と言う事になる訳だ。
そして、国債の『金利』の上げるならば、国債の『価格』を下げればいい。
「国債の信用リスクを上げる為に、FXで手に入れた100兆円をあぶく銭として使い捨てる」
「そうなれば、日本銀行はパニックに陥る」
「そうだ」
「フフ、正吾、すごい悪い顔になっている。でも、楽しそうだね」
「ああ、そうだな。これは『仕返し』だからな。楽しいに決まっている」
そう、これは俺たちの計画を崩してくれた奴らへの仕返しだ。
存分にやってやろうじゃないか。フ、フフ、フハハハ!
…………。
「……よし、涼太。まずは『日本国債は安全』という幻想を維持してやれ」
「金利を押し下げるために、買い支えるわけだね」
「ああ。100兆円のうち、20兆円を一気に市場に流し込め。そして、その後は時間をかけて、さらに50兆円分を静かに買い集めろ。合計70兆円分だ」
「それだけで信用は戻るかな?」
「戻るさ。市場は『数字』じゃなく『空気』で動くんだ。日本国債はまだ買われていると思わせれば、それでいい。買う理由なんて、幻で十分だ」
「了解。それと、残りの30兆円分……これをどうする?」
俺はにやりと笑って言った。
「同時に、売りポジションも仕込んでおけ。『空売り』だ。上がれば上がるほど、叩き落とす時に跳ね返りも大きくなる。舞台は整えておくんだ」
涼太が軽く肩をすくめる。
「……正吾、ほんとにタチ悪いね。でも、嫌いじゃないよ。むしろ楽しい」
「それは何よりだな。その幻想を自分の手で作って、自分の手で壊す。これ以上の娯楽はあるまい」
これで国債市場は一時的に安定する。
政府は安心し、日銀は市場介入を緩め、外資の買いが増えているという幻想に酔う。
そしてその裏で、俺たちは巨大な売りの爆弾を静かに育てていく。
この『安定』こそが、俺たちの最高の武器だ。
静寂の中にこそ、嵐の刃を隠すのが一番効果的だということを、奴らはまだ知らない。
〜〜〜
さらに翌日。
朝の経済ニュース番組の冒頭を飾ったのは、こんな見出しだった。
『日本国債安定か? 市場、過剰反応から冷静に移行』
テレビに映し出されたのは、安堵の表情を浮かべる財務大臣だった。
「……海外投資家の資金流入も見られます。日本のファンダメンタルズは依然として堅固であり、市場は冷静さを取り戻しつつあります」
俺はモニター越しにその映像を見ながら、思わず笑みをこぼす。
「……まんまと騙されてるな」
「完璧にね」
涼太がコーヒーを啜りながら、口元を歪める。
市場では、俺たちが流し込んだ70兆円分の国債購入が外資の信任と解釈され、国債価格は安定。
利回りも低下し、為替介入もいったん落ち着いた。
まさに思惑通り。『信用』とは、こんなにも簡単に作られる。
「さて、舞台は整ったな」
俺は椅子に深く腰掛け、両手を組む。
「政府も、日銀も、マーケットも、『もう大丈夫』って思ってる。……今が一番脆い瞬間だ」
「じゃあ、始める?」
「……ああ。涼太、売れ」
その静かに告げた一言で、日本と言う国が一瞬で変わる引き金を引いた。
涼太の指がキーボードを滑るように動き出し、俺たちが買い集めた国債70兆円分の売り注文が、数秒で市場に投入される。
「放流、完了」
次の瞬間、モニターの中で国債の価格がみるみるうちに下落していく。
まるで静かだった湖に、巨大な隕石を落としたかのような、暴力的な波紋が市場全体を揺るがした。
『10年物国債利回り:0.4% → 3.2%』
「きた……!」
取引所には売り注文が殺到し、システムは悲鳴を上げ、トレーダーたちはパニックに陥る。
安定していたはずの国債市場が、たった数時間で崩壊していく。
テレビでは速報のテロップが流れ始める。
『国債急落。政府、臨時会見へ』
「政府が慌てて買い支えるだろうけど……焼け石に水だな」
一度崩れ出した雪崩を止める事は出来ない。雪だるま式に周囲を巻き込んでいき、盛大に落ちていく。
「次は……為替市場だ」
そして、まだ俺たちの攻撃は終わらない。
国債や空売りで売って儲けたお金『100兆円』以上の円を一気に為替市場に放出する。
「日本円を全力で叩き売れ。ドルに替えて、一気に市場に流せ」
「レバレッジ1000倍で、いっちゃう?」
涼太が笑いながら問う。
「ああ。勝負は一気に決める。迷いは捨てろ」
ただでさえ暴落していた円に、国債の暴落と大量の為替市場への円流出で、円は大暴落を引き起こす。
『1ドル=470円』
為替レートが更新されるたび、ネットには悲鳴のような書き込みが溢れていく。
円の暴落は、今や現実の地獄そのものだった。
「これで食料もエネルギーも高騰だな。原材料費が倍になれば、製造業も悲鳴を上げる。その悲鳴と怒りは、必然と政府へと向かう」
もう日本経済は片道切符の特急列車に乗って、終わりへと突き進んでいる。
しかし、ここで手を緩めて半殺しにするのも、人道的によろしく無いだろう。
故に、人道主義者である俺は、とどめを刺すべく次なる矛先を株式市場へ向けた。
「……日経225の先物を空売りしろ。1兆円分、ノンストップでな」
「了解。じゃあ、株式市場も地獄に叩き落としますか」
1兆円と言う膨大な空売りが発生した事で、指数先物に仕込まれた売り注文が次々と炸裂し、株価は崩れ落ちていく。
そして、追加でもう2兆円分の空売りを続けたことで、ほんの数時間で日経平均株価は暴落した。
『日経平均株価:28,000円 → 19,500円』
証券会社のシステムは停止し、金融庁は非常事態宣言を発表。
マーケットは完全にパニック状態に陥っていた。
「もう政府は何もできねぇな」
もはや、誰も日本を支える力など持っていないだろう。それが日銀であろうとも。
〜〜〜
さらに翌日。
俺たちが仕掛けた『金融戦争』は、想像以上の効果を発揮していた。
日本経済はもはや『崩壊寸前』などというあまい段階ではなく、余命宣告を受けた『実質的に死に体』の状態だ。
市場は連日、過去最低値を更新し続けている。
日本国債は、売られに売られ、金利が『10年物国債利回り: 3.2%→7.5%』にまで上がっていた。
しかもこの数値は未だに下がり続けており、数日後には10%を超えてもおかしくはない。
そして、日経平均株価も壊れたエレベーターのように落ち続けていた。
もはや世界から見放された日経平均株価は、海外投資家を中心として売られ続けており、空売りまでもがウジのように湧いている始末。
さらには、アメリカのハゲタカファンドが虎視眈々と潰れ行く日系企業を見ており、今か今かと死肉になるのを待っている。
そして、ある人は嘆き、ある人は歓喜する為替レートは、遂に『1ドル=500円』の壁を突破した。
「1ドル=500円を突破しました!」
ニュースキャスターの声が、悲鳴に近いトーンで響く。
テレビに映る為替チャートは、真っ赤に染まりながら右肩下がりの崖を描いていた。
まさに日本円は沈みゆく船だった。
誰しもが救命ボートを求めて逃げ出している。
しかし、誰もが逃げれる訳では無く、沈みゆく船に取り残されるのは、まだ『日本円』にすがるしかない『日本国民』だけだった。
スーパーや、小売商店などと言った企業は、1時間で1円下がるとまで言われる大暴落の中、適正な価格を設定できずに売り控えをしていた。
しかし、国民はその逆で、下がり続ける現金を捨て、一刻でも早く、一つでも多く物資を買い集めていた。
都市部のコンビニではすべての商品が棚から消え、資材倉庫にも人が群がる。
ガソリンスタンドでは価格が1リットル=700円を超えているが、それでも行列が出来ていた。
政府は未明に『為替防衛緊急対策本部』の設置を発表したが、効果は皆無だろう。
日銀の追加介入も、国債買い支えも、もはや通貨暴落の前には無力だった。
財政は追いつめられ、国家機能は徐々に麻痺しつつある。
「……何とも、あっけないもんだな」
俺は椅子に深く腰をかけ、天井を見上げた。
紅茶はすっかり冷めている。だが、今の俺にはそれすら甘く感じられた。
「これほどまでに脆いとは、思ってなかった?」
涼太が隣で笑っている。笑いながらも、目だけは冷えていた。
「いや……分かってはいたさ。ただ、本当に壊れる瞬間を見るのは、格別だな」
俺はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見る。
どこまでも静かで美しい青空。
だが、この国の下では、地獄の炎が燃え上がっている。
「信用ってのは、目に見えない鎖だ。普段は感じない。でも、断ち切られた瞬間、連鎖的に全部が崩れおちる」
『金は借りられるが、信用は借りられない』とは第43代アメリカ大統領のジョージ・W・ブッシュの言った名言だ。
『国家や企業は金でいくらでも延命できるが、失われた信用は補いえない』という意味らしいのだが、まったく持ってその通りだと言わざる負えない。
「……貨幣の価値は信用で、信用が尽きた瞬間にすべてが終わる。信用とは、実体なき神話だ。信じる者がいれば価値が宿り、見限られた瞬間に、神話はただの紙切れになる。そして、その信用を壊すのに、武力は必要ない」
俺たちは、一切の武力を使わずに、この日本国を壊した。
銃弾も、爆薬もいらない。ただ、『信用』という一点に狙いを定めて引き金を引いただけだ。
経済という名の戦争。その恐ろしさを、誰よりも俺たちが理解している。
「これで……終わりじゃないよね?」
涼太が問いかけてきた。視線の先には、次のステージがある。
「もちろんだ。これは始まりに過ぎない。まだ序章ですらない。プロローグ前の過去話だよ」
これからどうなるのかは、神である俺にも分からない。
しかし、ここまでこれたのは、自分だけの実力ではないと言える。
もしも、ダンジョンが現れなければ、もしも玲奈と出会っていなければ、もしも涼太と親友で無ければ、ここまで大きなことは出来なかった。
運命のイタズラか、それとも神の思し召しかは分からないが、この奇跡に感謝を述べようではないか。
補足
『リーマン・ショック』
2008年、アメリカの巨大投資銀行『リーマン・ブラザーズ』が倒産したことで、世界中の株価が大暴落した事件です。
サブプライムローンと言う爆弾が炸裂した事が原因。
ちなみにですが、『現代社会で乙女ゲームの悪役令嬢をするのはちょっと大変』と言う小説で初めて知りました。
中学生の時に初めて読んだのですが、全く内容が分からなかった事を覚えています。
補足で一つ言いますと、『現代社会で乙女ゲームの悪役令嬢をするのはちょっと大変』でリーマンショックの詳細な話があるので、気になる方はそちらをどうぞ。
『クリミア危機』
2014年、ロシアがウクライナのクリミア半島を事実上併合したことで起こった国際的な緊張です。
この動きがきっかけで、ウクライナ経済は不安定になり、世界の投資家たちは通貨や株を売り始めました。
『ロシア・ウクライナ戦争』
言わずと知れた現在も続いている戦争。
自分の好きな『幼女戦記』の第2期が、これによって放送されないなんて噂もあるけど……。
『ジンバブエのハイパーインフレ』
アフリカのジンバブエでは、政治の失策から国の通貨が信用されなくなり、通貨の価値物がとんでもなく下がっていきました。
インフレ率が2.3億%とか言う意味が分からない数字になっています。
『外貨準備高』
国が持っている「外貨(ドルなど外国のお金)」の貯金の事です。
今回の話ではあまり重要な用語では無いのでスキップ。
『対外純資産』
日本が世界中に持っているお金や資産(株、債券など)から、外国が日本に持っている資産を引いた差額です。
日本は世界最大の『金貸し国家』とも言えます。
『FX』
為替相場(ドルと円のレート)を使ってお金を増やす、投資の一種。
たとえば『1ドル=100円のときにドルを買い、1ドル=110円になったときに売れば』差額の10円が儲かります。
しかも『レバレッジ』をかければ、元手の何倍もの取引ができるのが特徴です。
『レバレッジ』
本来の意味は『てこの原理』。
FXや投資では、『手持ちの資金の何倍ものお金を動かせる仕組み』です。
たとえば、手元に100万円しかなくても、『レバレッジ10倍』なら1000万円分の取引ができます。
儲かればリターンも10倍、でも損をすれば、破産も一瞬。
ハイリスク・ハイリターンの象徴です。
ちなみに、日本では25倍のレバレッジしか出来ません。
しかし、海外とかだと、正吾みたいに1000倍のレバレッジや、3000倍のレバレッジと言った規格外に出来たりします。
『国債』
国がお金を借りるときに発行する『借金の証文』です。
例えば、日本政府が『100万円貸して』と中央銀行(日銀)に言って、日銀はお金を刷ります。その代わりに借金手形として『国債』が発行されるわけです。
自民党や財務省が『国の借金、国の借金』とほざいていますが、そんなもの国の借金でも何でもありません。
確かに借金手形ではありますが、そもそも自国通貨建て国債であり、償還は必要ありません。
したがって、国の借金と呼ばれる借金手形は返す必要が無く、借金手形の総額が民間に供給した元本の通貨の総量なのです。
もしも、国の借金と呼ばれる国債を全て返した場合、日本から円が消え去ります。
ちなみにですが、PBとか言うバカみたいな事を日本政府もとい財務相が行っているのですが、国家が黒字になるという事は民間が赤字になる訳なのです。
インフレの場合、それでもいいわけですが、デフレまたはコストプッシュ型インフレの時は最悪に近い対応です。
『為替市場』
世界中のお金(円、ドル、ユーロなど)を交換・売買する場所です。
日本の円を売って、アメリカのドルを買う。そんなやりとりが1秒ごとに何兆円単位で行われています。
ここで円が売られ、為替市場に溢れると『円安』、ドルが売られすぎると『ドル安』となります。
『信用リスク』
『この国、ちゃんと返してくれるの?』という不安=信用リスク。
たとえば、国債を買った人が『返してくれなさそう……』と思えば、その国の国債の利息は高くなります。
なぜなら、リスクが高いほど、投資家は『見返り(リターン)』を要求するからです。
『金本位制』
昔は『お金』と言えば金貨や銀貨でした。
もう少し近代になると、兌換紙幣と言う『金と交換できる券』と言う紙幣が登場しました。
ちなみに、今現在の通貨は『不換紙幣』といい、何とも交換できない紙幣です。
『MMT』
『Modern Monetary Theory』現代貨幣理論と言い、今話題の経済理論です。
後で説明する『租税貨幣論』の他にも機能的財政論や信用貨幣論、Job Guarantee Programと言った理論を総合した物です。
かなり難しいのですが、自分が読んだ望月慎さんの論文がよかったです。一応載せておきます。
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『租税貨幣論』
『お金に価値があるのは、国が税金をそのお金で払わせるから』という理論です。
たとえば、国が『税金はアメリカドルで払ってね』と言えば、人々は『国に捕まらないためにアメリカドル』を欲しがります。需要がドルに集まる事=価値が生まれる。
したがって、税は通貨を流通させるための措置となる訳です。
『金利』
お金を借りたときの『レンタル料』のことです。
たとえば、誰かに100万円を貸すなら『利息をつけて返してね』と言うのが普通ですよね。
国の場合も同じで、『国債を買ってくれた人』には一定の金利(利回り)を払います。
でも、国の信用が落ちると『利子をもっと高くしないと買ってくれない』状態になっていきます。
ちなみにですが、金利が高すぎると、その商品が危険と判断されて買う人は少なくなります。
『リスクプレミアムの価格』
簡単に言えば、『不安な相手に貸すときに上乗せする金利』。
たとえば、返してくれるか不安な友達には、ただでお金を貸したりしませんよね?
そんなとき『不安料』として金利を上乗せする。これがリスクプレミアムです。
つまり、リスクが高い=金利が高い=信用が低い。
国でも企業でも、リスクプレミアムの動きは『信用のバロメーター』です。
『空売り』
持っていない株や資産を、先に『売る』ことで値下がりを狙う投資方法です。
たとえば、今100円の株を『持ってないけど売る』と言い張り、後で80円に下がったときに買い戻せば、20円が利益になります。
つまり、『下がるほど儲かる』という逆の仕組み。
作中では、空売りを使って日本経済に意図的に『下落圧力』を加えているという設定です。
『ファンダメンタルズ』
経済の『体力』や『土台』のこと。
GDP・雇用・物価・貿易・金利・財政など、その国の経済状況全体を指します。
たとえば、政府が『日本のファンダメンタルズは堅調です』と言えば、『今ちょっと円が売られても、国の実力は落ちてないから大丈夫』という意味になります。
『日経平均株価』
日本の株式市場を代表する指標です。
東京証券取引所に上場している代表的な225社の平均株価を数値化したもの。
景気が良くなれば上がるし、経済が不安定になれば下がる。
作中ではこの日経平均を『空売り』して暴落させ、日本経済の崩壊を加速させています。
『ハゲタカファンド』
正式には『ディストレストファンド』や『アクティビストファンド』と呼ばれますが、一般には『倒れかけの企業を買い叩く』イメージで『ハゲタカ(死肉を食う鳥)』と呼ばれています。
業績不振や経営危機に陥った企業の株を安値で買い、立て直して高値で売る。あるいは解体して利益を得る。
つまり、弱った企業を『食い物』にするファンドの事です。
作中では、日本企業が円暴落で弱体化したことで、ハゲタカが群がる様子が描かれています。