第六十六話 新しい国
聖女セイントが海際の方から姿を現すと、一瞬にして空気が変わった。
ざわついていた群衆も、構えていた報道陣も、そして記者たちすらも、まるで舞台上に現れた『異界の存在』に見入るように、言葉を失った。
その存在感は、まるで人間ではないような神聖さと、抗い難い異質さを併せ持っていた。
そして、30年の現場経験を持つ神崎プロデューサーでさえ、気づけばカメラを構える手が止まっていた。
「…………っ、は!」
しかし、長年の経験が神崎を誰よりも早く我に戻した。
即座にカメラをセイントに向けると、それにつられて周囲のカメラマンたちも次々と動き始める。
数百本のレンズが、一斉に彼女へと向けられた。
彼女は、それらの重圧に一切動じることなく、ゆっくりとマイクの前に立つ。
誰もが息を飲み、ただ彼女の言葉を待つように沈黙する。
そんな中、穏やかで澄んだ声が、世界に向けて語りかけ始めた。
「こんにちは、私の名前はセイントと申します。本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
その声が響くと、誰しもがピタリと動きを止めた。
聴衆の息遣いさえ聞こえるほどの静寂の中、彼女の言葉だけが広場を満たしていく。
「今回、……私たちダンジョン教会は、日本政府から不当な強制捜査を受けることとなりました」
その言葉に、会場の空気が異様なまでに張り詰める。
「私たちが開発している技術は、未来の安全と繁栄を支えるためのものです。……決して戦争や破壊を目的としたものではありません」
彼女の視線が、まっすぐにカメラを射抜く。
レンズ越しに見えたその目には、怒りも恨みもない。ただそこには、悲痛な心と静かな覚悟だけが宿っていた。
「ですが、政府はそれを理解しようとはせず、ただ恐れ、拒絶し、抑え込もうとしたのです……」
あまりにも切実で、悲し気な聖女セイントの声を聞いた瞬間、この場に居た全員が……いや、この生放送を見ていた者までもが、感情を揺さぶられる。
そして、一気に彼女の感情に引きずられた若い青年たちが、声を上げて叫び始めた。
『そうだ!』『政府はやり過ぎだ!』『これは権力の横暴だ!』という声が響き渡る。
そして、その声はだんだんと大きく成り、会場に響き渡るほどまで大きくなっていく。
「私たちはこれまでに国や国民に尽くして来ました。国にはダンジョンの情報を与え、国民にはオークションと言う新たな経済圏を生み出してきたのです」
この言葉でさらに勢いを増したヤジが飛び、ダンジョン教会を擁護する。だが……。
「しかし、国に貢献してきた結果が……この仕打ちです。私はこの国に………………………………………絶望しました」
その一言が投げかけられた瞬間、まるで会場全体の空気が真空に変わったようだった。
群衆の喧騒は水を打ったように凍りつき、誰一人として息すら呑めない。
ただ、その言葉の重さに、全身を沈められるような圧力を感じていた。
その声は叫びではなかった。涙も怒りもない、抑揚すら排された静かな告白。
だからこそ、刃のように鋭く、観衆の心に深く突き刺さる。
「……ですが、私は立ち止まりません。私たちは絶望の先に、希望を選び取ります。既存の国家に依存せず、誰かの許可を待たず、私たち自身の手で未来を築き上げると……決めました」
まるで一編の詩のように、彼女の声が風に乗って響き渡る。
混乱の始まりかと思われたその瞬間、不思議な静寂が、ふたたび広場を包んでいた。
「……だから、私たちは、決めたのです。決意したのです。『独立』と言う道を選ぶことを」
ざわ……と、観衆の間に電流のようなざわめきが走る。
だが、セイントがただ手を上げるだけで、その混乱は嘘のように収束した。
完全に静寂が戻ると、彼女は日本国民全員に向けて言い放つ。
「……自由と革新、そして人類の未来を守るための場所を作ります。この世界に縛られない理想の地を築き上げるのです!」
セイントは両手を上げて全ての人々に届くように叫んだ。
「私は今ここに『神聖国家アルカディア』の樹立を宣言いたします!」
その言葉は、雷のように世界中を震撼させた。
報道カメラが唸るようにシャッターを切り、スタジオ中継ではアナウンサーが絶句したまま固まっている。
SNSでは『#セイント』『#アルカディア独立』が同時トレンド入りし、画面のコメント欄が炎上のように流れ続けていた。
そして、一拍遅れて我に返った記者たちが一斉に叫び出す。
「具体的にどこで国家を設立するのですか!?」
「国際法上、どのように承認を得るつもりなのですか!?」
「これは正式な独立宣言と捉えてよろしいのですか?」
問いが飛び交い、マイクがセイントに向けられるが、セイントはただ静かに空を見上げた。
それに釣られて、民衆も空を見上げる。
すると、セイントの後ろに広がる海の方から小さな影が高速で飛来してくるのを、1人が目視した。
「……なんだあれは?」
その声の傍にいたカメラマンが高倍率のカメラで覗き込めば、そこには……。
「……戦闘機!」
そう叫ぶのと同時に、機影はすぐに全体像を露わにし、会場の頭上を爆音を轟かせながら通過していった。
「F-35だ!最新鋭のステルス戦闘機……!」
群衆のどよめきと歓声が入り混じる中、セイントが口を開く。
「ご覧いただいたのは、アメリカ合衆国空軍のF-35戦闘機です。私の要請により、祝意と支援の象徴として派遣されました」
淡々としたその発言に、報道陣の間からどよめきが巻き起こる。
『えっ、今なんて……?派遣?』
『アメリカの支持……って、どういうことだ……?』
そんなざわめきの中、1人の記者が震える声で尋ねた。
「つまり、アメリカは……神聖国家アルカディアの樹立を、公式に支持するということですか?」
セイントは微笑を浮かべ、静かに頷いた。
「はい。アメリカは私たちの意思を理解し、支持しています」
その言葉は、もはや外交的爆弾だった。
日本政府、外務省、国連、どこであれ、無視できるはずがない。
「ふ、ふざけるなーぁ!」
その瞬間、怒声が飛び、全員の視線がひとりの男に集中する。
その男。昔ながらのトレンチコート姿の刑事が、血走った目でセイントに詰め寄っていた。
「独立国家だと!?お前は、この国を侮辱しているのか!?国家を、国民を、馬鹿にしているのかッ!」
刑事は視線だけで人が殺せそうなほどの形相で、セイントの事を睨む。
しかし、セイントはそれにまったく動じず、淡々と答えた。
「私は国家も、それを構成する国民も決してバカにも侮辱もしていません。私は、ただこの国の国民を守りたいだけです」
「守るだと!?だったらなぜ!こんな暴挙をするッ!」
刑事の声が怒りと困惑で震える。
「……それは非常に簡単な事です」
「簡単な事だと?」
「ええ、非常に簡単な事です。理由はたった一つ。それは『今の日本』では、これから先の未来、日本国民を守れないと判断したからです」
その言葉は非常に淡々としており、まったく抑揚を感じ取れなかった。
しかし、その言葉に込められた意味と感情、そして覚悟は、計り知れないほどに大きい事を理性では無く、本能で感じ取らされる。
「世界は常に変わり続けている。人類が生き残るためには、ただ平和を祈るだけでは何も変わらない。それを分かっている各国首脳は、それに対応すべく必死に動いている。ですが、我が国を見てみればどうでしょうか?世界の変革に対応するように動いているように見えますか?」
「……」
セイントの言葉に怒りに我を忘れていた刑事ですら、聞き入ってしまう。
ただただ理路整然と、ただただ平坦に続ける言葉は、今の世界を正しく見ている者の言葉だった。
「その答えは簡単です。何も変わろうとしていないのです。むしろ、変わろうと変化を試みる私たちを妨害する有様です」
「それはッ!貴様らが違法な兵器を作ったからだろうがッ!」
確かに刑事の言う事は正しい。しかし、そのロジックはセイントの言葉によって論破されてしまう。
「違法……ですか?あなたは、何をもって違法と言うのですか?……ああ、言わなくても結構です。違『法』と言うぐらいですから、法律に反している事を言うのです。では問いましょう。今現在の日本の法律で、明確に人型ロボットを兵器や違法兵器と断定する法律はあるのですか?」
「それは……」
「無いのでしょう?ええ、無いのです。そして、日本が法治国家である以上、法律と言う文章が私たちを支配しているのです。……さて、刑事さん。もう一つあなたに問いましょう。違法だと断定できない状況で、どうして『違法兵器』だと断定したのでしょうか?法治国家を名乗るのであれば、疑いではなく根拠を示していただきたいものですね」
その問いに刑事は答える事が出来ない。なぜならば、彼はこの一連の事態の全体像を知らないのだから。
「答えが無い。それが答えになっています。今回の家宅捜索は非常に曖昧な証拠で行われたものなのです。それは、法に基づいた正義ではなく、恐れと偏見による『非人道的な暴力』ですらあるのです」
刑事はただただ黙り込むしかない。
そして、これを見ている者すべてが、聖女セイントの言論に呑まれて行く。
「世界は常に変わり続けている!変化を恐れる者に残されるのは『淘汰』か『絶滅』の二つに一つ。私たちは今変わるしか生き残る道は無いのです!もはや『武力が必要ない』『日本は安全な国』と言った幻想は通用しません」
セイントが大きく声を張り上げて、全国民……いや、全世界に向けて言い放つ。
「私は、少しでも多くの国民を救うために、少しでも多くの未来を掴み取るために、新たな国家を作り上げると決めたのです!」
そう言い終わった瞬間、セイントの背後で轟音が鳴り響く。
砂煙が上がり、民衆が混乱する中、カメラにはその正体がハッキリと映し出されていた。
「な、なんだあれは!」
カメラのレンズ越しに、カメラマンが驚愕に叫ぶ。
砂埃が少しづつ晴れるにつれ、肉眼でもその存在を捉えれるようになっていく。
白銀の装甲に威風堂々たる立ち姿。
まるでSF作品に登場するような見た目のそれは、今話題の人型兵器。
その人型兵器の名前は……。
「これが私たちが開発した『アストレリア』です」
報道陣が一斉にカメラを向け、シャッターの嵐が広場に降り注ぐ。
その奥で、警察部隊やDSTの隊員たちが、わずかに身構える。
だが、誰ひとりとして踏み出す者はいない。
それほどまでに、アストレリアが放つ存在感は圧倒的だった。
「……っ、バケモノめ……これが兵器ではないとッ?!」
そう吐き捨てたのは、さきほどの刑事だった。
『これが……人類の新たな力だというのか……?』
『戦車でも戦闘機でもない……完全に“未知”の兵器……』
ざわめきが報道陣と民衆の間に広がっていく中、セイントは一歩前に出て、片手をゆっくりと掲げた。
その瞬間、アストレリアの瞳とも呼べるセンサー部が淡く光り、機体の表面を走る魔紋のようなラインが薄紫に発光し始める。
静かだった会場の空気が、一瞬にして変わった。
まるで生き物のように存在するその機体が放つ圧倒的な存在感に、人々の呼吸は徐々に浅くなっていく。
「皆さん。これが我々の開発した『アストレリア』です」
セイントの声は変わらず穏やかでありながら、揺るぎない確信に満ちていた。
「これは、旧時代の兵器ではありません。魔力と科学、意思と技術、そのすべてを融合させた人類の進化です」
アストレリアは静かに一歩、地を踏み鳴らす。
そのわずかな動作すら、地鳴りのような重みを持っていた。
「私たちは戦争を望んでいるのではありません。ただ、押し潰されることなく、未来を選び取る力が欲しいだけです」
彼女は会場全体に視線を巡らせる。
「しかし、抑圧が続くのであれば、私たちは独立の道を歩みます」
その宣言は、戯言でも妄言でもないと誰しもが思い知らされる。
それは、聖女セイントと言う人物が、理想と未来を一身に背負った国家の建国宣言だった。
そして、誰もが感じる。
……今、この瞬間から『時代が変わる』のだと。
「我々、神聖国家アルカディアは……!」
セイントは両腕を大きく広げ、空に向かって高らかに声を上げた。
「この世界において、新たな秩序を築く覚悟があります!」
「っ……!」
それを聞いた刑事は、歯を食いしばり、血走った目でセイントを睨みつける。
だが、それでも彼はもう……声を上げることができなかった。
すべての言葉は、セイントの意思とアストレリアの姿に、圧倒されていた。
しかし、それでも刑事は歯を食いしばりながら、無線で指示を出す。
それは根性によるものか、職業から来る正義感からかは分からないが、唯一指示を出せた人物である事には変わりがない。
「……動くぞ!会見が終わり次第、セイントを確保しろ!」
周囲の警官たちが一斉に応答し、無数の黒服の公安職員や武装警察が広場の縁を取り囲み始める。
既に、政府上層部からは『逮捕許可』が口頭で下されていた。
そして今、現場の指揮官たちは命令を忠実に遂行するべく、包囲網を徐々に狭めていく。
空には、複数のドローンと監視衛星が展開され、逃走の余地を与えないように各方面から視線が注がれていた。
しかし、そんなものは、アストレリアの前では無意味と言える。
「では、この動画を見ている日本国民の皆さん。これにて会見を終了させていただきます。これからの活動はSNS等で呟きますので、そちらの方をご確認ください」
彼女がそう告げると、刑事が声を張り上げる。
「確保しろぉー!」
その指令と同時に、十数人のDST隊員が一斉に動き出す。
地を蹴り、盾を構え、隙なくセイントを包囲すべく走る。
しかし……。
「っ!」
セイントの姿は、すでに地上にはなかった。
彼女は瞬時にアストレリアの肩に飛び乗っており、荘厳な機体の装甲の上に立っていた。
その立ち姿はまるで舞台女優のように静かで、群衆と国家の両方を見下ろしている。
次の瞬間、アストレリアがほぼ無音のまま、ふわりと宙に浮かび始めた。
機体の周囲に小さな波紋のような光が広がり、重力を無視するかのように、ゆっくりと上昇していく。
「な、何だこれは……!?」
唖然とする警察官や記者たちをよそに、ディアノゴスはゆっくりと上昇し、さらに速度を上げていく。
「くそっ!…狙撃班!撃て!」
刑事の怒声が無線を通して飛ぶ。
その瞬間、周囲のビル屋上に待機していた狙撃手たちが一斉に照準を合わせ、次々とトリガーを引いた。
サプレッサーが放つ乾いた音が連続し、麻酔弾が空を裂いて飛翔する。
だが……。
「……っ!」
セイントに吸い込まれて行くように飛んでいく麻酔弾は、このまま当たるかと思われた瞬間、まるで空中で凍り付いたかのようにピタリと停止した。
薄っすらと光る膜が、シャボン玉のように様々な色に反射して見える。
「な……?!」
屋上の狙撃手たちは、口を開いたまま動けない。
そのあまりに現実離れした光景に、軍事経験者でさえ言葉を失わせるには十分だった。
そして、その光の膜の上、アストレリアの肩に静かに立つセイントが、静かに口を開く。
「無駄ですよ」
その声は穏やかでありながら、絶対的な確信を帯びていた。
「アストレリアのシールドは、魔力と物理干渉を融合した防御フィールドです。たとえ超音速ミサイルであっても、破る事はできません」
「……グ!」
刑事の肺から、苦悶の息が漏れる。
国家権力の一端である武力が完全に無効化されたことを悟ったからだ。
悔しそうにする刑事に向けて、セイントは軽やかに一礼し、最後の言葉を紡いだ。
「では皆さま、ごきげんよう」
その言葉と同時に、アストレリアが青白い粒子をまとい、音もなく上昇を始めた。
機体は空を切り裂くことなく、まるで空間そのものを滑るかのように浮遊し、徐々に高度を上げていく。
「追えッ……ッ、追えって言ってるだろォッ!!」
刑事が声を張り上げるも、誰もが動けなかった。
ただ、空に消えていくその機影を、呆然と見上げるしか出来なかった。
機体はそのまま、速度を上げて雲の中へ消えてゆき、やがて肉眼では追えぬほどの高度に達する。
その瞬間、地上に居た人々の視界から完全に姿を消した。
会場は、完全な沈黙に包まれる。
民衆は知ってしまった。分かってしまったのだ。この瞬間、歴史が確実に動いた事が……。




