第四十四話 涼太の初戦闘
涼太の覚悟を聞いて考えが変わった俺は、涼太の後ろを少し離れて歩いていた。
俺の靴と涼太の靴。湿った地面を踏みしめる足音が規則的に響き渡る。
この世界から隔絶された静かな空気。この雰囲気がまるで別世界に迷い込んだと錯覚させる。
少し前を歩く涼太の背中。その背中は硬直し、肩はつよばってピクリとも動いていない。
明らかに緊張している涼太だが、俺は何も言わずに後ろをついて歩いた。
そして、その時だった。
小さな音が暗い奥の方から聞こえてくる。
速いテンポで規則的な音は、明らかに水滴が滴る音ではない。もちろんだが、靴が発するような固い音でも無いのはすぐに分かる。
つまりは……。
「…スイキョウ……だったけ?」
「ええ」
「この音って……」
「ゴブリンです」
顔が引きつっている涼太。だが、あんなことを言った手前引く事はできないのだろう。
涼太は自身の気持ちを引き締めるためにも両手で頬を叩いた。
『パシン』と乾いた音がダンジョン内を反響する。
涼太は顔を上げると、覚悟の決まった瞳を俺に向けた。
「よし!」
「リョウ、ゴブリンは20メートル先にいます」
「……分かった」
しかし、恐怖からか、緊張からかは分からないが、その返事は微かに震えていた。
〜〜〜
僕の名前は二条城 涼太。
名前を聞いた人は大抵、『本名?』と驚いた顔をする。
幼いころはからかわれることも多かったけれど、今ではこのちょっと変わった名字が、むしろ気に入っている。
僕は、起業家の父と元モデルの母の間に生まれた一人っ子だ。けれど、家族との温かい記憶はほとんどない。
なぜならば、僕がまだ幼児だったころ、両親は離婚した。母の顔さえ、もう思い出すことはできない。
離婚の原因は、母の不倫だったらしい。
だけども、僕にはそんなことに興味はなかった。あの頃は小さすぎて理解できなかったのだ。
三年にも及んだ親権争いの末、父が僕を引き取った。
そして僕は、都内の高級住宅地にある、広すぎるほど大きな家に住むことになる。
けれども、家がどれだけ広くても、家具がいくら高級でも、そこに『家族のぬくもり』はなかった。
父は新しいビジネスを次々に立ち上げ、世界中を飛び回っていた。
一応、僕のことは『血のつながった子ども』として扱ってはいたと思う。でも『一緒に食事をする』『話を聞く』『隣で笑う』そんな父子の時間は一度もなかった。
誕生日には、父の秘書がプレゼントを持ってくる。
風邪を引いた日には、父から短いお見舞いメールが届くだけ。
そんな中、僕の唯一の話し相手は家政婦の女性だった。
彼女は料理も掃除も完璧で、優しい人だった。僕が学校で嫌なことがあった日には、無理に聞き出すのではなく、黙って隣に座ってくれた。その沈黙が、当時の僕には救いだった。
だからこそ、彼女が突然『解雇』されたときは、胸が裂ける思いだった。
ある日突然、父が『今日で契約終了だ』と告げ、僕の言葉を聞く間もなく、彼女は荷物をまとめて家を出ていった。
新しい職場が決まっていたと、静かに微笑んで。
それ以降、僕は本当の意味でひとりになった。
広い屋敷のどの部屋も、どこまでも冷たく静まり返っていたのを、今でも覚えている。
小学校に入学しても、僕の孤独は終わらなかった。
名門と呼ばれる私立小学校。
制服は整い、廊下には笑い声が響き、子どもたちは元気に走り回っている。
そんな賑やかさの中に、僕の居場所はなかった。
同級生たちは、ゲームや駄菓子屋、放課後の遊びの話に夢中。だけれども、僕はそれに微塵も興味が持てなかった。
それよりも僕の頭を占めていたのは、科学や数学、AIの仕組み。人工知能の未来やアルゴリズムの進化について考えているときが、一番楽しかった。
でも、そんな話をする相手なんて、どこにもいない。
「二条城くんって、なんか変わってるよね」
それは、ただの気さくな一言だったかもしれない。けれど、僕にはまるで呪いの言葉のように聞こえた。
その言葉を境に、僕はクラスの中で『変わった子』として扱われるようになっていった。
放課後、誰かと遊ぶこともない。話しかけてくる子もいない。
僕は教室の隅の席で、一人きりで本を読むようになった。それが日常になり、いつしか誰とも言葉を交わさない日々が続いていく。
家に帰っても父はいない。学校に行っても誰も話しかけてこない。
そんな虚しさが積み重なって、気づけば僕は学校を休みがちになり、やがて引きこもるようになっていった。
それでも、心のどこかで『中学に上がれば、何かが変わるかもしれない』と期待していた。
新しい環境。新しいクラスメイト。今度こそ、何か違うはずだと。
けれど、現実は優しくも、甘くもなかった。
中学に入っても、僕はやっぱり『変わった子』だった。
クラスメイトの話題についていけない。笑いのツボも違う。会話をすれば、どこか空気が止まる。
このまま、また同じ毎日が続くのかと思っていた。
でも、ある日。僕の人生が、静かに、けれど確かに動き出した。
正吾との出会いだ。
正吾と初めて出会ったのは、中学に入って間もない頃だった。
その日、僕は家の近くの図書館でAI関連の専門書を手に取っていた。
中学生が読むには場違いすぎる分厚い本。
けれど、その静かな空間だけが、唯一僕を受け入れてくれる場所だと感じていた。
ふと、背後からの視線を感じて振り返ると、一人の少年が僕をじっと見ていた。
「君は……涼太くんだよね?ここで会うなんて奇遇だね」
その少年は、僕のクラスメイト、水橋正吾だった。
学校ではいつもクラスの中心にいて、突拍子もない言動で周囲 を惹きつける存在。成績も良く、運動もできる。いわゆる『万能型』の人間だ。
そんな彼が、僕に笑いかけてきた。
「……あ、うん」
不器用な返事しかできなかった僕に、正吾は全く気にする様子もなく、視線を落とした僕の手元の本を見て、言った。
「君、AIに興味あるんだ?」
「う、うん。……でも、変だよね。普通、こんな本、中学生は読まないよね?」
「いや、全然変じゃないよ。むしろ面白いじゃん、AI。これからの時代、絶対来ると思うし」
あっけらかんとしたその言葉に、僕は驚いた。
今まで誰にも理解されなかったものが、急に肯定された気がした。
嬉しさが心の中に広がっていく。
『この人は優しい人だ』そう感じていた僕だが、その無意識に感じる彼の異質さに心のどこかが惹かれていた。
あの頃の第一印象を言語化するのであれば『この人は、普通じゃない。僕の常識を軽々と越えてくる』と言うものだろう。
そして、それが、僕と正吾の始まりだった。
それから、僕たちは放課後や休日に一緒に過ごすようになる。
学校では相変わらず目立つ彼と、目立ちたくない僕。立場は違ったけれど、不思議と噛み合った。
最初はAIの話をしていたが、やがて株の研究にも手を伸ばすようになった。
正吾の直感力と、僕の分析力。それは想像以上にうまく噛み合い、お小遣いの10万円で始めた投資は、わずか数年で8000万円に膨れ上がった。
数字が増えていくことよりも、僕には『共に何かを成し遂げる相手がいる』という事実が、何よりも嬉しかった。
正吾は、僕にとって初めての『友達』だった。
高校進学のタイミングで、僕と正吾は別々の道を歩むことになる。
僕は父の勧めもあり、資産家の子供たちが集う私立高校へ進んだ。
けれど、そこにはまた『教室という異国』が広がっていた。
今度は学力や興味ではなく、『親の年収』や『家の格』が価値基準だった。
誰がどの車で送迎されているか?親がどの企業の会長か?
そういった話題ばかりが飛び交い、教養や探究心はむしろ邪魔者扱いされた。
僕のように、AIや専門的な話をしたい人間は、また自然と孤立していく。
正吾がいない学校生活は、想像以上に空虚だった。
放課後も、昼休みも、図書館に籠もるしかない。
孤独は慣れていたつもりだったが、正吾と過ごした日々があった分、それは以前よりも堪えた。
そして僕は、とうとう高校を……辞めた。
退学してからは家に引きこもり、AIの研究にのめり込むようになっていった。
社会や学校に居場所がないなら、自分だけの世界を作ればいい。
そんな思いで没頭した末に、僕は一つの成果を手にした。
それが統合型AI『オーディン』だ。
これは、単なる人工知能ではない。倫理観と成長プロセスを仮想空間に持ち込んだ、全く新しいAI。
情報収集を担う『フギン』、記憶を管理する『ムニン』をサブシステムとして組み込み、自己進化の設計も施した。
僕にとって『オーディン』は、まさに新たなパートナーだった。
孤独な時間を埋めてくれる存在。父やクラスメイトと距離があるままでも、彼らが僕を必要としなくても僕には『オーディン』があった。
だがそれでも、どこか心の奥にずっと穴が空いていた。
『誰かと繋がっていたい』という願望だけは、どんなに発達したAIでも埋めきれない。
そんなある日、僕はネットニュースで信じられない記事を目にした。
『水橋正吾容疑者。宗教犯罪と薬物所持の容疑』
画面の向こうで手錠をかけられている正吾の姿を、僕はただ呆然と見つめていた。
ショックだった。でも、心のどこかで『やりかねない』とも思っていた。
正吾の突き抜けた行動力は、時に枠を超えてしまう。その片鱗は中学生のころから見えていた。
裁判の結果、未成年時の犯行ということで懲役2年に減刑された。
でも、それ以上に辛かったのは、彼と簡単に連絡が取れなくなったことだ。
その日から僕は、再び完全な孤独へと戻っていく。
それから、さらに2年の時が過ぎた。
部屋の中で変化のない毎日を過ごしていた僕だが、世界の方は静かに、だけども大きく変わり始めていた。
最初にSNSにダンジョンの事が投稿されたのはアメリカのペンシルベニア州だった。
『謎の裂け目』
と言うツイート共に、地下へと続く洞窟の中に入っていく動画。
その動画の中には、これまでにファンタジーやフィクションの中でしか見たことが無いゴブリンの姿までもが映っていた。
あまりにもリアルすぎる映像に瞬く間に動画が拡散され始め、それに『オーディン』が反応し、僕はダンジョンの存在をそこで初めて知った。
最初は高精度のCGやフェイク動画だと思っていたが、『オーディン』による画像解析の結果、一切加工や合成がされていない事が分かった。
あまりにも信じられなかったが、自身が生み出した『オーディン』が導き出した結論だ。
世界中のどこかに、本当に『異世界』としか言いようのない空間が出現したと、認めざる負えなかった。
それからは、世界は怒涛の変化をしていった。
アメリカや日本を始めとする様々な国で『ダンジョン』の出現が報告され、その中には凶悪なモンスターが存在することが明かされた。
世界の株価は一気に乱高下し、オイルショック、リーマンショック、コロナショック。そして、今回のダンジョンショックに対応を追われていた時だった。
突然、家のインターホンが鳴り響く。
最初はそれどころでは無く、無視していたが、何回も連続して慣らされるチャイムに仕方なく出た僕が見たのは、2年ぶりに見る正吾の顔だった。
『涼太、水橋だ。開けてくれ』
全てが夢かと思った。
でも、モニター越しに見たその笑顔は、間違いなく僕の知る正吾だった。
玄関を開けると、彼はいつものように、突拍子もない言葉を口にした。
「ダンジョンを使って、俺は新しい宗教を作る」
正吾の口から放たれたその一言は、あまりに突飛で、常識外だった。
けれど、なぜか僕は、それを否定できなかった。
正吾なら、やりかねない。いや、むしろ、やってしまう気がした。
そして、何よりも『もう一度、共に何かを成し遂げる』と言う高揚感が僕を満たしていったのだ。
僕は一つ返事で返すと、再び僕たちは手を組んだ。
〜〜〜
そして今。ダンジョンの中で初めて見るゴブリンの姿に、僕は震えていた。
恐怖にすくむ体。心の中で『やっぱり無理だ』と叫ぶ自分がいる。
だけど……僕は覚悟を決めた。
「……確かに僕はダンジョンに向いていないと思う。それは、ダンジョンに来る前から薄々感じていた。でも、それでも、自分がダンジョンに行きたいと思ったから、僕は今ここに居る。だから最後までやるよ」
自分を変えたい。このままの自分では終わりたくない。
その思いだけが、僕の背中を押していた。
「……そうですか。リョウの覚悟は分かりました」
正吾は僕の覚悟を察したのか、それだけを言うと何も言わなくなった。
ダンジョン内をただ無言のまま歩き続ける。
ゴブリンとの遭遇率は高くはないようだが、それがかえって緊張を煽った。
いつ、どこから襲われるか分からない恐怖が胸の中で渦巻く。そして……。
「……この足音って」
自分たちの足音に紛れ、微かに『ぴちゃ、ぴちゃ』と音が聞こえていた。
淡い青色の光に包まれた薄暗い通路の奥。何かがいる。
そう思うだけで体が縮こまりそうになるが、僕は必死に気持ちを押さえ込んだ。
そんな僕を一瞥した正吾が、冷静な口調で答える。
「ゴブリンです」
その一言に、全身が強張る。僕はすぐに警戒態勢を取ったものの、まだ距離はあるらしく足音だけが徐々に近づいてくる。
どんどんと大きくなる不気味な音に、まるでホラー映画の中にいるような錯覚さえ覚えた。
ホラー全般が苦手な僕にとっては、なによりもこの時間の方が怖い。
「早く……来るなら……来いよ」
小さな呟きに、自分でも情けなさを感じる。
そして、ついに薄暗い通路の先から1匹のゴブリンが姿を現した。
『グギャ!』と醜く鳴く小さな人影。
その姿は、異様に大きい顔に、宇宙人のように真っ黒な目。餓鬼のように痩せ細った胴体に、体とは相反して長い手足の存在。そして、殺意の籠った瞳。
一度見たはずなのに、その恐ろしさは全く慣れない。
でも、僕はヤると決めたんだ。ここで逃げたら、何も変えられない。
覚悟を決めろ。躊躇するな!
「よし!」
自分に喝を入れる。
目の前のゴブリンが相変わらず恐ろしい存在でも、今度は足をすくませない。
「はぁ!」
僕は掛け声と共に駆け出した。足が縺れそうになりながらも必死に走る。
この時ほど運動不足を後悔した瞬間も無いが、今の僕にそんな事を考えている余裕はない。
そして、ゴブリンは僕につられて走り出す。子供ほどの身長にアンバランスなほど長い足は、遅い。
しかし、迫り合う僕の視点では、とても素早いと感じていた。
恐怖で足がすくみそうになるが、小さな勇気を手に拳を振り上げる。
「はぁああ!」
気合の咆哮と共に繰り出されるパンチ。
喧嘩経験のない僕の拳は、子供以上に拙かったことだろう。
しかし、運が味方してくれたようで、その拳はゴブリンの顔面に命中する。
鈍い衝撃とともに、柔らかい骨を砕いた感触が拳に伝わってくる。
拙い殴りが幸いしたのか、全体重が乗った拳はゴブリンの鼻っ柱を折り、顔面を陥没させた。
「はぁ、はぁ……」
僕は殴った拳を見る。その拳には、柔らかい骨と肉を砕いた感覚だけが、じんわりとした痛みの中に残っていた。
そして、ゆっくりと拳からゴブリンへと目線を移していく。
そこには、殴られた勢いのまま倒れ、頭を強く打ったゴブリンが静かに倒れていた。
頭からは、脳みそらしき液体が血と共に地面にまき散らされている。その光景を見た僕は……。
「う、うぉぇ……」
思わず、えずいた。
喉元に込み上げてくるものを必死に抑えながら口元を押さえる。
なんとか吐き出さずに踏みとどまった……その瞬間。
「……なに?」
突如、無機質な音声が頭の中に響いた。