第八十八話 小さな悪魔
輸送機の微かな振動が、無骨なシート越しにじわじわと背中に伝わる。
耳をすませば、外の風切り音が聞こえ、機体が空気を切り裂いて戦場に向かって飛行している事が分かった。
エンジンは、赤外線探知を避ける為に切られ、高高度から滑空飛行でアルカディア人工島の上空を目指している。
そして、そんなエンジン音すらない機内は、異様な静けさに包まれていた。
一人一人の呼吸音すら明確に聞こえる程の静寂に置いて、拓真は無意識の内に震える指先を見つめる。
その震えが、機体の揺れによるものか、それとも恐怖のせいなのかは、拓真自身分かってはいない。
「……」
沈黙が機内を支配する。
誰しもが口を閉ざし、ただ静かに何度も装備を確認していた。
その行為が無駄と分かっていても、心を落ち着けようと手を動かす。
カチ、カチとスプリングの金具が鳴る中、機内に取り付けられたスピーカーにノイズが走った。
『ザ……ザザ……』
予期せぬ機内無線に彼らは、期待半分、恐怖半分で耳を傾けた。
『こちら統合作戦司令部。フェーズ1に異常発生。フェーズ2を一時作戦を中断する。各自待機姿勢を維持し、次の指示があるまで待機せよ。繰り返す……』
その言葉に、輸送機内の空気が凍りつく。それは、悪い方の予感が当たったからだ。
「……なんだと?」
「作戦中断……?何があった?」
隊員たちは顔を見合わせ、不安そうに呟く。
訓練を何度も重ねてきたとはいえ、実戦の最中に作戦が中断されることなど、滅多にない。
ましてや、戦場へ向かう輸送機内での指示変更となれば、事態は尋常ではないはずだった。
拓真は唾を飲み込みながらも、ふと隊長の方を見た。
自分と同じように……そうでなくても不安そうな顔をしているのではないか?と予想していたが、拓真の予想は良い方に裏切られる。
隊長は一切動揺することなく立っており、それが拓真の不安を少しだけ取り除いた。
しかし、だからと言って不安や疑念が消える訳では無い。
様々な感情が混じり合った重い沈黙は消える事無く、機内を今も満たしている。
そして、そんな重い空気の中、数分が経過した。
誰しもが沈黙し、状況を見守っていると、再び無線が鳴る。
『こちら統合作戦司令部。フェーズ2への移行を許可する。全空挺部隊、作戦を再開せよ。繰り返す、フェーズ2を開始せよ』
本来の予定作戦時刻から5分後、6時20分のことだった。
地上で何らかの異常事態が起きていたようだが、それを知る術は今の彼らには無い。
「聞いての通りだ。……さて、これから作戦を再確認する。フェーズ2は、第一空挺団による降下作戦だ。我らヴァンガード隊の目標は、アルカディア人工島の中心部『世界樹』の制圧となる」
隊員たちは真剣な眼差しで、隊長の言葉を聞く。
「降下後、小隊ごとに分かれて行動する。気を引き締めて作戦を遂行せよ!」
「「「ラジャー!」」」
その声は、機内にこだまするように響いた。
次の瞬間、アナウンスが機内スピーカーから響く。
『輸送機、目標地点へ到達。降下準備を開始せよ』
拓真は深呼吸をし、パラシュートのストラップを締め直した。
心臓の鼓動が速まるのを感じながらも、意識を戦場へと集中させる。
「降下口オープン!」
金属が擦れる音とともに、機体後部のハッチが開かれた。
冷たい風が一気に機内に流れ込み、隊員たちの顔を不躾に撫でる。
冷たい風に吹かれながらも目を開ければ、初日の出に照らされた赤い空と、オレンジ色に染まった海が視界いっぱいに広がっていた。
そして、目線を少し下げれば、朝日に輝くアルカディア人工島が荘厳な姿を見せている。
「ステンバーイ!」
最終号令の声が風切り音の中を駆け抜ける。
それと同時に、赤く灯っていた信号ライトが青へと切り替わり、けたたましいベルが鳴り始めた。
その音を合図に、先頭の隊員が、空へと飛び出す。
列が一人ずつ前進していく中、拓真の心臓も高鳴りを増していった。
そしてついに拓真の番が回ってくる。
緊張して手が震え、足は小鹿のようになっているが、覚悟を決めて一歩前に踏み出した。
「ッ!!」
冷たい大気が肌を刺し、拓真の体は重力に引かれて落下していく。
高度300メートルで開いたパラシュートが、強い衝撃とともに拓真の体を引っ張り上げた。
耳元を風が激しく切り裂き、鼓膜が震える。
だが、それすらも一瞬のことで、次第に落下速度が安定し、視界が鮮明になっていく。
眼下には、金属の光沢を放つ巨大なアルカディア人工島が広がっていた。
その異様な構造美は、まるでSFから切り取ってきたかのようで、どこか現実味がない。
そんな光景に見とれるのもつかの間、どんどんと高度は落ちていく。
下を見れば先に降下した隊員たちが『世界樹』の南1キロメートル地点へと着地していっていた。
拓真はパラシュートを微調整しながら、他の隊員と被らないように安全な地帯を目指す。
海風に煽られながらも、これまで幾度となく訓練してきた技術は彼を裏切らず、正確に着地した。
「ッ!」
硬い地面に降り立つのと同時に、体を倒して衝撃を分散させる。
パラシュートは、役目を終えて地面に力なく倒れ込んだのを、拓真は邪魔にならないように引っ張った。
体は訓練通りに動いている。
拓真は素早くパラシュートのハーネスを外し、周囲を確認した。
「……異常なし」
呟いた声が、妙に大きく聞こえるほど、周囲は静かだった。
そのまま彼は、低く姿勢を保ちながら周囲に散った仲間たちとの合流に向かう。
すでに着地していた隊員が、周囲を警戒を行っている。
次々と降下してくる隊員たちも、着地と同時に迅速にパラシュートをたたみ、持ち場へと走っていった。
『全員、異常なし。おくれ』
小隊長は無線機で報告を入れる。
無線機からは他の小隊からも『異常なし』と報告が相次いだ。
全員の降下が成功したことを確認した小隊長は、低く落ち着いた声で命令を下す。
「よし。予定通り、目標地点へ向かう。各小隊、配置に着け」
「「「了解!」」」
声が揃い、隊員たちは即座に動き出す。
拓真が所属するヴァンガード隊は、『世界樹』内部への侵入を担当する部隊だ。
彼らは慎重に足を進めながら、人工島の中央へと向かって足を進めた。
~~~
俺と涼太は、アルカディア人工島に次々と降下してくる第一空挺団をモニター越しに見ていた。
流石は日本最強の部隊だ。そう思いながらも、俺は心の中で形ばかりの謝罪をする。
(すまないな)
これから行うのは一方的な虐殺だ。
可能な限り死者は出したくない。だが、『トンボ』という兵器は、それほど甘いものではない。
とはいえ、戦場に足を踏み入れた時点で、彼らも死を覚悟しているはずだ。
だからこそ、俺は、気兼ねなく指示を出すことができた。
「涼太、『トンボ』を起動しろ。設定はデルタ、爆破距離は10メートル」
「……それはいいけど……10メートルはちょっと近すぎない?せめて15メートルは離してもいいんじゃないの?」
「10メートル以上離れると、効果が激減しかねない。それに、アーマーだって着てるだろ?」
「……分かった」
涼太は少し不安そうにしながらも、『AIオーディン』に関数を打ち込んでいく。
涼太は、できることなら1人の死者も出したくないのだろう。
だが、戦場はそんな甘い理想を許してくれない。
多少の犠牲は覚悟しなければならないのだ。
しかし、それでも涼太の気持ちは分かる。だから、少しだけ申し訳ない気持ちにもなるのだ。
だが、俺はアルカディアのリーダーとして、責任を持って命令を下さなければならない。
「……トンボの準備、できたよ」
「よし、放て」
俺の言葉と共に、小型自爆ドローン『トンボ』が何万羽と言う群れで飛び出っていった。
~~~
ひどく冷たい廊下。
金属製の無機質な床と壁が永遠と続いている。
それは、まるで精神病棟のように清潔でありながらも、酷く恐怖心を煽ってきた。
蛍光灯やLEDライトと言った室内灯が一切ないのにも関わらず明るい廊下は、宇宙船に乗り込んだかのようだ。
それがまた未知の恐怖心を沸き立たせる。
そんな廊下を拓真たちヴァンガード3部隊は、小銃に取り付けられたライトで照らしながら歩いていた。
誰一人として口を開かず、ただ無機質な廊下を歩き続ける。
曲がり角や交差点を発見する度に、より多くの集中と判断力を取られ、隊員たちの精神は徐々にすり減っていく。
そんな時、小隊長の無線機から定時連絡の通信が入った。
『定時連絡。こちらヴァンガード1、異常なし。現在世界樹の1階にいる。どうぞ』
『こちらヴァンガード2、異常なし。同じく1階にいる。どうぞ』
他の小隊からの連絡に、小隊長は無線で答えた。
「こちらヴァンガード3、異常なし。現在1階にいる。どうぞ」
『こちらヴァンガード4、異常なし。1階にいる。終わり』
簡潔にすべての小隊に異常がない事を確認すると、小隊長は拓真たち隊員を集めて軽い状況確認をした。
「……いいか、よく聞け。ここからは東西南北の四方向から一気に深部へ進行する。我々は南側から進み、敵の排除と探索を行う。くれぐれも味方への誤射はするなよ」
「「「了解」」」
小さな声で返事をした隊員たちは、すぐに陣形を整え、慎重に無機質な廊下を進んでいく。
彼らの動きには無駄がなく、まさに精鋭部隊と呼ぶにふさわしかった。
しかし、そんな彼らでさえ、緊張で汗を滲ませ、指先がかすかに震えている。
そんな中、1人の隊員が異変に気が付き、足を止めた。
「……ん?待て、何か聞こえないか?」
その声に、全員が止まり耳を澄ませる。
そして彼らは気がつく。確かに小さな音が鳴っている事に。
その音は、どこかで聞いたことがあるような、無いような不思議な音だった。
既視感を覚える音の正体に耳を澄ませていると、音がどんどんと大きくなっている事に気が付く。
「近づいてきているぞ!全員警戒態勢!」
小隊長が叫べば、全員が一斉に銃を構え、廊下の奥を見据える。
ライトの光が廊下を明瞭に照らし出すが……何も見えない。
だが、音は確実に迫ってきている。大きくなっている。
徐々に明瞭になっていく音。その音に、1人の隊員が気が付いた。
「この音……羽音じゃないでしょうか?」
「羽音?……虫か?こんな場所で?」
言われてみれば、確かにそうだ。
一定のリズムであり、低いようで高い音。確かに羽ばたき音にも聞こえる。
だが、だとしても、羽ばたき音がここまで明瞭に聞こえる事などありえない。
それこそ、数百、数千もの羽ばたき音が重ならなければ、ここまでの音になるハズもない。
「……いや、違う……これは!」
瞬間、闇の中から無数の影が飛び出してきた。
まるでイナゴの群れのように濃密な『何か』は、空間という空間を黒く塗りつぶしながら襲いかかってきた。
「敵襲ッ!!」
小隊長の叫びが響くのと同時に、隊員たちは反射的に引き金を引いた。
金属質のやけに反響する廊下に、断続的な銃声とマズルフラッシュが炸裂する。
マガジンを空にする勢いで発射される弾丸だったが、そのほとんどが当たることなく『何か』の間をすり抜けていった。
「……小さすぎだろ!」
それは隊員の全員が思っている事だった。
その『何か』は小さすぎて、速すぎて、そしてあまりに数が多すぎる。
隊員たちの放つ弾丸は、次々と壁に跳ね、空を切った。
まるで雲に向かって撃っている。そんな虚しい感覚だった。
「クソッ!全然当たらねぇ!!」
「動きが速すぎる……!」
『何か』は、隊員たちを嘲笑うかのような動きで宙を舞っていた。
三次元的に動く『何か』は、ランダムに飛行している。
そのハズなのに、まるで1個の大きな意志に操られているかのような動きをしており、互いを避け合い、決してぶつかる事は無い。
そして、一斉に『何か』が一点を避けるかのように空間を作った。
その瞬間……。
「ッ!!」
爆音、衝撃波、閃光。それらを脳が認識する前に、拓真の体は宙を舞っていた。
防弾アーマーの上からでも分かるほどの衝撃が全身を叩きつけ、肺の中の空気が一瞬で押し出される。
意識が暗転して、無防備なまま背中から壁に叩きつけられた。
その衝撃で意識を取り戻した拓真だったが、肺の空気は衝撃波によって吐き出されており、上手く呼吸が出来ない。
(……なにが…起こった……?)
そう口に出そうとしても、肺がうまく酸素を取り込んでくれず、言葉を吐き出す事ができない。
ぼやける視界の中、必死に酸素を求めて浅い呼吸を繰り返す。
どうやら他の隊員が、自分に話しかけてきているのは分かるが、耳鳴りが酷く、何を言っているのかまでは分からない。
そして、そこで拓真は自身の状態に気が付いた。
(……そうか。……爆発に巻き込まれたのか……)
そう認識したと同時。徐々に視界も明瞭になり、耳鳴りも収まっていった。
「た、く……ま!!」
先輩の叫ぶ声が聞こえる。
未だに耳は遠く、はっきりとは聞き取れないが、確かに先輩の声が聞こえた。
「たくま!大丈夫か!」
再び呼ばれる名前。その声に、拓真は返事を返そうとするが、やけに体が重い事に気が付く。
まるで自分の身体ではないように、指先ひとつ動かすことですら、酷くおっくうに感じる。
そして、呼吸をするたびに、肋骨がきしむような痛みが走った。
(……動けない……?)
爆風に巻き込まれた衝撃は、骨まで達していたらしい。
だが、その痛みも過剰なアドレナリンによって、徐々に薄くなっていく。
そのおかげで、肺をより大きく膨らませ、酸素を取り込めるようになる。
次第に身体に力が戻り、壁に手をつき、先輩の肩を借りながらも、拓真はようやく立ち上がった。
そして、視界が高くなり、周囲を見渡せるようになれば、そこには……。
「なん……だこれは」
無残な惨状が広がっていた。
多くの隊員が倒れ、呻き声を上げている。中には、血を流している者、壁にもたれて動かない者もいた。
たったの一撃……たったの一撃で、小隊は、完全に崩壊していた。
「クソッ……何だ今のは……っ!」
1人の隊員が呻きながら起き上がり、小銃を構える。
しかし、その先には、まだ無数の『何か』が群れを成して飛んでいた。
まるで虫の大群が、じわじわと次の攻撃の機会を伺っているかのように。静かに、だが確実に、空中を舞い続けていた。
「全員!むやみに撃つな!」
小隊長の声が、不快な羽音を切り裂いて響く。
誰もが呼吸すら忘れそうな静寂が、一瞬の間、廊下に広がった。
その刹那。
また1匹の『何か』を中心として空白地帯が生まれる。
「来るぞ!!」
その声と同時、『何か』が隊員の傍で爆発した。
二度目の爆発が廊下に轟く。
爆風と衝撃波が隊員たちを再び吹き飛ばし、拓真は床に転がりながら、何とか受け身を取った。
(このままじゃ……やられる……!)
そう思うが、体は意志に反して動かない。
これは後で知ったのだが、受け身を取ったとき、折れていた肋骨が砕け、破片が肺に刺さっていたようだ。
しかし、この時はそんな事は知らず、気合で小銃を握りしめ『何か』の群れを見据えた。
撃たなければやられる。
しかし、銃弾は当たらない。
的が小さい上に、機敏に飛び回る『何か』は、人間の反応速度では狙いをつけるのは不可能だった。
「ッ……ダメだ! まともに当たらねぇ!!」
他の隊員たちも必死に応戦していたが、発射した弾丸はただ虚しく壁に弾かれ、何の効果も得られていなかった。
そして、また別の『何か』が、彼らのすぐそばで爆発する。
「ぐあぁぁっ!!」
轟音と共に衝撃が襲い、再び複数の隊員が吹き飛ばされる。
拓真は咄嗟に腕で顔を庇いながら転がり、なんとか意識を保ち続けた。
(こんな……こんな攻撃、どうやって防げば……!?)
絶望が、じわじわと体と心を蝕んでいく。
これは戦闘ではない。ただの一方的な蹂躙だ。
このままでは、誰一人として生き残れない。
「隊長!! 撤退しましょう!!」
隊員の1人が悲鳴のように叫んだ。
「クソッ……仕方ない……!」
小隊長もこのまま戦闘を続けるのは無理だと判断したのか、すぐさま無線機を手に取った。
『こちらヴァンガード3!! 敵と接敵!! 現在、世界樹1階にて『小さな何か』と交戦中!! 被害多数!! 撤退を要請する!!』
小隊長が、必死の報告を終えた直後、他の部隊からの無線通話が入ってきた。
『こちらヴァンガード1!! 我々も敵と接触!! これは……ドローンの大群だ!! トンボの姿をしたドローンの大群だ!……戦闘継続不可能!!』
『ヴァンガード4も同じく!! くそっ、全く当たらん……!』
全ての部隊が、同様に交戦中だった。
もはやこの作戦は、破綻している。
「……もはやここまでか」
小隊長は小さく呟いた後、即座に判断を下した。
「……全隊、即時撤退!! 」
隊長の言葉にすぐさま動いた隊員たちは、トンボに銃を乱射しながら、必死に後退を開始する。
だが、トンボは容易に逃がそうとはしてくれなかった。
彼らの周囲で、次々と爆発が起こり、撤退する隊員たちの動きを妨害する。
転倒する者、吹き飛ばされる者。
悲鳴と怒号が入り混じる中、拓真は歯を食いしばりながら、体を引きずるように撤退していった。
(こんな……こんな相手に、どうやって勝てっていうんだよ……!!)
苦しさと無力感に、拳を握りしめる。
『トンボ』それは、戦場の概念を覆す兵器だった。
小型でありながら、高速で移動し、確実に相手を狙い、殺す。
通常の武器では対応できず、一方的に蹂躙される。
戦術でも、訓練でも、この圧倒的な性能差は埋められない。
まるで、『悪夢のような存在』。
「ッ!おい!負傷者が出た!俺の手だけじゃ足りん!手伝ってくれ!」
誰かが叫ぶ声に振り返れば、トンボの爆風にやられ、気絶した隊員が地面に倒れ込んでいた。
すでに2人が必死にその身体を引きずっていたが、彼らも負傷していて力が足りずに苦戦している。
その光景を見た拓真は、まるで他人事のように感じていた。
『あれを助けに行くべきか、それとも逃げるべきか?』
理性で考えるならば、真っ先に逃げるべきと答えていただろう。
しかし、気が付いた時には体が動いていた。
「……はい!手伝います!」
ふと我に返った時には、すでに拓真は気絶した隊員の肩をつかみ、引っ張っていた。
理性では分かっている。脳では分かっているハズなのに、体は言う事を聞いてくれない。
だけども、不思議と『後悔』と言う感情は全くなかった。
「……助かる」
小さく絞り出された感謝の声。
その言葉は、どこか遠くに聞こえていた。
自分がやけに俯瞰的で、まるで傍観者になったような感覚。
それは不思議と心地よさすら思える。
これが俗に言う『ゾーン』なのかと、余計な思考が脳裏をよぎった。
それが……いけなかったのだろう。
「ッ……!!」
必死に撤退している最中、横目に見えてしまったのだ。1匹のトンボが拓真のすぐそばで散会したのを。
これまでの爆発では、付近のトンボが巻き込まれぬよう回避していた。
だとすれば、これは……。
「拓真!」
その時、自分は俯瞰的な視野で『死』を意識した。
視界はスローモーションで動くが、体はまったくと言って良いほど動かない。
そして、トンボが光ったと思った瞬間、………………自分の視界が急に遮られた。
遅れて認識する重みと温かさ。
そして、次に目に映ったのは、先輩の背中だった。
「せん…ぱ」
言葉が出るよりも早く、激しい爆発が起きた。
拓真と先輩の身体は空中に舞い、数メートル転がる。
頭の中がぐらぐらと揺れ、全身が鉛のように重い。
焦点の合わない視界の中、拓真は這いつくばりながら必死に意識を繋ぎ止めた。
「せん……ぱ……い」
震える声でそう呟いた拓真は、視界の先に横たわる先輩の姿を見た。
血が流れている。大量の血だ。
先輩の制服は、至る所が破れ、爆発の衝撃で焼け焦げていた。
さらに、喉元には鋭利な金属片が突き刺さり、そこから止めどなく血が流れている。
「う……ぐっ……」
拓真は歯を食いしばり、足を引き釣りながら先輩に駆け寄った。
だが、先輩を見た瞬間、全身の力が抜け、呼吸が荒くなる。
動揺と絶望が、体を支配していた。
そんな拓真を見て、先輩は微かに微笑んだ。
「……お前……大丈夫、か……?」
かすれた声だった。
しかし、その声は、確かに拓真を気遣っていた。
自分の方が死にかけているというのに、まだ他人の心配をする。
そんなバカで優しすぎる先輩に、拓真はどうしようもない怒りと悲しみを覚えた。
「バカ言わないでください……!先輩こそ、こんなに……!」
拓真は震える手で止血を試みる。
だが、その傷は……あまりにも深く、致命的だった。
「……くそッ……!どうして……!何でこんなことに……!」
思わず叫びそうになるのを抑え、拓真は唇を噛む。
涙が滲むのを必死に堪えながら、先輩の顔を見つめる。
先輩は……まだ微笑んでいた。
そして、その微笑んでいる唇が、ゆっくりと動く。
「……お前は…逃げろ。……それと、…妹を……頼む……」
先輩は、震える手で胸元のポケットを開ける。
そこから取り出したのは……昨夜見た、妹の写真だった。
「せん…ぱい」
もう言葉も出ないのか、その眼だけで『受け取ってくれ』と言っている。
拓真は震える手で写真を取れば、先輩は安心したかのように……笑った。
そして、先輩の手が……崩れ落ちる。
いや、違う。力が抜けてそう見えたのだ。
「っ!……先輩!先輩!」
拓真は必死に呼びかける。
だが、先輩の意識はもう限界だった。
「っ……ァ」
先輩の口元から、血が溢れ出す。
拓真は、命のともし火を絶やさないように、強く手を握った。
血が抜けて、冷たくなりかけた手を拓真は必死に握りしめた。
「……っ、先輩……!!」
だが、もう、何も返ってこなかった。
死んだ。先輩は……死んだ。
その現実を受け止めることができず、拓真はただ、声にならない叫びを喉の奥で叫んだ。
「……ッ!」
先輩の手を握りしめていた拓真の肩が急に引っ張られる。
涙で滲む視界で振り返れば、そこには小隊長が居た。
「拓真!もういい!撤退するぞ!!」
「っ……でも……先輩が!」
「いいから来い!!」
小隊長は拓真の腕を掴み、無理やり引っ張る。
それでも拓真は抵抗した。
先輩を置いていくなんて、そんなこと……できるわけがない。
だが……。
「拓真!!死にたいのか!!」
小隊長の怒声と共に、再び廊下の奥から羽音が響いた。
トンボの群れが、またこちらに向かってきている。
「くそ……ッ!!」
拓真は奥歯を噛み締め、先輩の亡骸を見つめる。
涙が溢れ、零れ落ちた。
悔しさと怒りと悲しみが、胸の中で爆発しそうだった。
「……っ!」
拓真は震える拳を握りしめ、無理やり体を起こした。
そして、最後に一度だけ、先輩の顔を見る。
「……撤退…します」
その言葉と共に、拓真たちは廊下を駆け抜けた。
背後では、再び爆発が起こる。
だが、もう振り返らなかった。
今はただ、生き延びることだけを考えて、走った。




