第一話 出所
鉄格子で作られた門を、贅沢にも警備員に開けてもらった俺は、外へと出る。
久しぶりに感じる外の空気を思いっきり吸い込めば、新鮮な酸素が肺を満たしていく。
別に空気に味も色もついている訳ではないが、確かにいつもより美味しく感じていた。
周りを見渡せば、昼間だというのに人通りは少ない。
それもそのはずで、こんな場所に好んでくる人間は皆無で、逆に避けて通る人がほとんどだろう。
だけども、人に怪訝な目をされずに済む事を思えば、人通りが少ない事はいい事に思えた。
カバンを一つだけ持ち、歩き出す。
冷たい強風が体を通り抜け、周囲の木々を揺らしていく。寒さに手を擦りながらも、昔買った立派な外套のおかげで凍える事は無かった。
少し歩いて近くの最寄り駅に着くと、久々に感じる『シャバ』の空気と言うのを思い出す。
刑務所では味わえない、雑然とした人々のざわめき。
それを2年ぶりに味わえば、少しだけ目頭が熱くなるように感じた。
「…………しかし、2年かぁ」
2年。2年と言う時間は、21歳の俺の身からしてみれば、人生の10分の1に相当する。
そう考えると、あの場所で過ごした時間の長さに改めて驚き、何とも言えない複雑な気分に陥った。
しかし、それも今日で終わった。そう考えると、気分は少しだけ晴れる。
「……行くか」
そう小さく呟くと、俺は切符売り場に向かった。
~~~
2回の乗り換えの末、たどり着いたのは六本木駅。
2年と言う時間が経ったはずなのに、六本木の街並みは依然と変わらない。それはまるで、時間が止まっているようにすら思えてくる。
「……」
時間と言う哲学的な事を語りたくなるほど、今日は時間と言うモノについて考えさせられる。
しかし、そんな事を考えても、何かが好転することは無い。
「……はぁ」
一つため息を吐いた俺は、少しくたびれたかのようにも思える外套をそっと手で整え、港区の役所に向かって歩き始めた。
六本木駅から港区区役所までは、かなりの距離があり、歩けば30分以上はかかる。
歩くには少し遠いと感じる距離だが、今の俺には一切苦ではない。
なぜならば、歩く場所一つとっても、思い出の地だからだ。
嫌な記憶も良い記憶も同時に思い返していくが、それは決して不快な気持ちでは無かった事は確かだった。
ゆっくりと歩き、東京タワーの下にたどり着く。赤い鉄筋が空へと伸びる様子を見上げると、首が痛くなるほどに高い。
澄んで、どこまでも澄んだ空をバックにした東京タワーは、どこか懐かしくも新しかった。
そんな東京タワーが、過去とは違う『今』を実感させる。
ここでも色々な思い出が思い返されるが、それを振り払って俺は進む。
増上寺と言うお寺がある公園を通り抜けると、俺の目的地である港区役所が目の前に見えてきた。
~~~
港区役所の自動ドアをくぐると、外の喧騒が一気に遠ざかる。
平日の昼下がりということもあり、館内は思ったよりも静かだ。
タッチパネルで受付を済ませて、整理券を握りしめると、空いている椅子に腰を下ろした。
どんなに空いているとはいえ、役所の受付には時間がかかる。
スマホもない俺は、30分も手持無沙汰な時間を過ごす羽目になった。
水曜日だから空いていると油断していたが、こんなに待つと知っていれば、本でも買ってきたのに……。
そんな愚痴を心の中で吐いたところで、今さらどうにかなる訳でも無い。諦めて大人しく待つことにした。
『38番』
ようやく俺の番が来たようだ。
整理券の番号と掲示板の番号が一致し、俺は根を張りそうになっていた椅子から腰を上げた。
受付には、少し老け始めた三十代後半らしき男が座っている。
「今回の要件は何でしょうか」
「住所の再登録です」
「はい、分かりました。身分証明などが行える物はありますか?」
俺は頷き、財布から普通自動二輪の免許証を取り出すと、職員に渡す。
これは高校生の頃、学校をサボって取りに行ったものだ。
幸い、期限は切れていないので本人確認に使える。
「水橋正吾さんですね。確認しました。こちらの紙に従って記入をお願いします」
免許書と共に書類が渡される。
文字を久しぶりに書いたが、もう体に染みついた文字と言うのは、そうそう忘れないらしい。
すらすらと紙に必要事項を記入していくと、数分で全ての記入欄を埋め終わった。
職員に書類を返せば、その要項をしっかり確認する。そして、『水橋さんの住所再登録が終了しました』と返事が返ってきた。
総じて大きな問題も無く終えたが、それでもかなりの時間がかかった。
時計を見ると、すでに午後4時を回っている。
「……帰るか」
俺は職員から受け取った数枚の書類をカバンにしまい、役所を後にした。
~~~
役所から出た俺は、近くの駅から電車に乗ると、品川を経由して横浜まで来ていた。
何故横浜まで来たのかと言うと、高校時代の友人が出所祝いをしてくれるらしい。
過去に作り上げた人脈と人間関係は、2年と言う歳月が過ぎても消える事は無かったらしい。
友達と言うモノに改めて感謝をしながらも、予定場所に行く前に新しくスマホを契約する事にした。
流石に、数時間前の教訓を忘れるような鳥頭ではない。
それに、今の時代、スマホなしでは生きていけない程に大事なものだ。
どれが良いのか分からなかった俺は、最新の機種を手にして店から出た。
最近のスマホは値段のインフレが進んでいるせいで、かなり痛い出費だった。
しかし、前のスマホは証拠品として押収されてしまった為に、致し方ない。
「はぁ」
今日何度目になるか分からないため息を吐いた後、俺は友達から聞いていた待ち合わせ場所に向かって歩き始めた。
横浜駅からさほど離れていない高級バー。
そこに着いた俺は、鈴のベルを鳴らしながら店内に入る。
初めて訪れるこのバーは、非常に落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
いつもはクラブなど騒がしい場所で飲むことが多かったが、たまにはこうした大人の空間で飲むのも悪くない。
そんなことを思っていると、奥の席に友達の姿を見つけた。
「よう!水橋こっちだ!」
大きく手を振りながら呼んできたのは、金色のネックレスを下げたチャラい男だ。
刑務所に入る前は黒髪だった彼も、いつの間にか金髪に染めているし、よくよく見てみればシャツの隙間から刺青が見える。
かなり姿の変わった友達だが、彼を見間違えるハズもない。
「ああ、久しぶり大祐」
俺は外套を脱ぎながら席に腰を下ろす。
運ばれてきた水で軽く口を湿らせると、改めて目の前に座る友達を眺める。
金髪に金のネックレス。両手に光る指輪と、見た目はチャラく変わってしまっているが、その瞳に宿る優しさは昔と変わらない。
「それにしても相変わらず陰気臭い顔は変わらねーな、正吾はよ」
「そうかい?自分では気に入っているんだけどな」
そう言いながら自分の顎を撫でる。朝に剃ったおかげで、夜の今でもつるつるだ。
でも、確かに自分の顔は陰気臭いと言われても仕方が無い。
身長は180センチと大柄だが、そのせいでほっそりと見える体格に、生まれつきクマができやすい目元を隠すようにしている伊達メガネ。
そんな見た目だから陰気臭いと言われるのも納得は出来る。
でも、自分では本当に気に入っている顔だ。
まさに自分の内面を映し出したかのような顔で、遺伝子か何かは知らないが、奇跡の一致があると言う事を思い知らされる。
「それじゃあ俺からの祝いだ。好きな酒を好きなだけ頼め!」
大祐は気前よく言う。
その言葉に甘え、俺も好きに頼むことにした。
この2年間は酒なんて飲めなかったから久しぶりだ。すごく楽しみである。
「それじゃあ遠慮なく。すいませんウィスキーを1つ」
俺は通りかかった店員にそう伝えた。
流石は高級バーと言う事もあってか、店員は愛想よく返事をしてくれる。
それがまた、酔ってもいないのに気分を良くさせた。
「正吾、それにしてもよ、前よりもガタイ良くなったか?」
「ああ、そうだね。刑務所の中じゃ暇すぎて、読書と筋トレぐらいしかやる事が無かったからな」
その読書も、刑務所に服役してから2カ月で全部読み切ってしまった。
新しく頼んだとしても、一日で読んでしまう。そんなのだから、最後の方なんて筋トレしかやる事が無かった。
その結果として……。
「そっか、ちょっと見せてくれよ」
「いいよ」
俺は返事をし、シャツをまくり上げて自慢の腹筋を見せつけてやる。
刑務所では食事の量が決められており、質も限られていた。
そのおかげもあってか、毎日欠かさず筋トレに励んだ結果、この腹筋が出来上がったのだ。2年間の努力の結晶だと思えば、少し誇らしい気持ちにもなる。
「おお!すげーな!触ってみても良いか?」
「どうぞ」
「…すげー、かてーな」
俺の腹筋をコツコツと触ってくる。
刑務所に入った最初の頃は痩せ気味の体形だった俺が、たったの2年でここまでの体に仕上がった事を思えば、刑務所に居たのも無駄では無かった気がしてくる。
なんて思いに老けている間も、ずっと触っていた大祐の手が徐々にうざくなってきた。
「ちょっと…くすぐったい。終わりね」
「ああ、、」
残念そうな声を上げる大祐だが、素直に手を引っ込めてくれた。
流石は高校からの友達で、引き際と言う物を分かっている。
「それにしても良い筋肉だったぜ」
「ちょっと言い方が気になるけど、まあいいや。それよりも乾杯しようか」
いつの間にか運ばれてきていたウィスキーを片手にそう言った。
すでに大祐の頼んでいたビールは届いていて、俺のが届くまで待っていてくれたのだ。
「それじゃあカンパーイ!」
大祐が音頭を取り、二人だけの乾杯をする。
直ぐにグラスを口につけて、久しぶりのお酒を胃袋の中に落とし込んでいく。
何とも言えないうまさに感銘を受けていると、白髭を作った大祐が豪快にビールグラスを置いた。
顔は少し赤らんでいる様で、目の焦点が定まっていないようにも見える。
「それにしてもよ!」
……忘れていた。そう言えば大祐は下戸だった。
高校時代に初めてビールを飲ませた時、部屋をめちゃくちゃに荒らし、ゲロを吐きながら寝た。
しかも、質の悪い事にお酒を飲んだ時の前後を含めて全部を忘れているのだ。起きた後の第一声が『なにこの惨状は……お前らはしゃぎ過ぎじゃね?』だ。
それからいろいろ説明しても自分がやった事だと一切認めない所も含めて、質が悪い。
それから暗黙の了解として大祐にお酒はNGとなったのだ。
しかし、2年間も会っていない事と、出所の祝いで浮ついていた事も含めて完全に忘れていた。
俺はさらにビールグラスを傾けて飲み干す大祐の姿を見て、2年間で成長している事を切に願った。
~~~
それから2時間後、完全に仕上がった大祐を引きずりながら店から出る。
お会計は俺が支払ったが、今度はこいつに旅行でも奢らせてやろうと思うぐらいには、金が飛んでいった。
それはさておき、大祐をタクシーに乗せて、運転手に家まで頼んだ。
1万円もあればさすがに足りるだろうと思い、先払いで運転手に金を渡しておく。
快く引き受けてくれた運転手に感謝を伝えながら、俺は今後の自分のことを考える事にした。
「さて、どこに泊まろうかな?」
本来ならば、実家と言う選択肢もあるのだろう。
だが、俺が刑務所に入ったのと同時に縁も切られてしまっている。なので、実家に帰る事はできない。
しかしながら、今からホテルを取ろうにも時間的にラブホぐらいしか空いていないだろう。
一瞬逡巡したが、流石に野宿よりかはふかふかのベットで寝たい。そう思って、スマホで最寄りのラブホを検索する事にした。
横浜と言う事もあり、近くに多くのラブホテルがある。
その中から一番評価の高いラブホをネットで予約した。
ここからラブホまで、さほど距離も離れていない。だからこそ、酔い覚ましにも良いかと思って、夜道を一人歩くことにした。
高級バーから少し歩いて、大通りに出る。
夜になっても人通りは多く、水曜日にも関わらずたくさんの人が歩いていた。
夜の街の何とも言えない雰囲気を懐かしく思いながらも、ゆったりと歩く。
春先の冷たい風に吹かれれば、酔いなどすぐに飛んでいった。
夜空を見上げれば一等星しか見えず、刑務所の中よりも寂しい星空だ。
だが、それよりも周囲を照らす店の明かりや街頭の光が一等星以上に眩く輝いていて、まったく寂しさと言う物を覚えない。
数分歩いただろうか。ちょっとずつ店の明かりも無くなり始めて住宅街の様相を呈し始めた頃に、俺は何の気なしに近道を発見した。
地図アプリ上には存在しないような細い道だが、確かにここを通ればショートカットができそうだ。
その時はまだ酔っていたのだろう。後にして思えばたかだか数分程度のショートカットにしかならなかった道なのに、なぜ行こうと思ったのか。
俺は、一切電気のない細い道に足を踏み入れる。
そこだけ世界から切り取ったかの様な暗い道は、不気味で怖い。
しかし、酔いで頭が麻痺していた俺は、何気ない気軽な思いで道を進んでいく。
そして、ちょうど半分ぐらいまで進んだ時だった。突然として視界が真っ暗になったのは……。
「な!なんだ!」
急なブラックアウトに驚いて尻もちをついてしまう。はたから見たら滑稽な感じだろうが、今の俺はそれどころでは無かった。
何度も目を擦り現状を確認するが、確かにあったはずの微かな光でさえ、今はほとんど見えない。
まるで異界へと迷い込んだかのようで、焦燥感と不安がどんどんとこみ上げてくる。
何が何だか分からずに慌てている俺とは違い、どんどんと景色は変化していく。
先ほどまでは、暗闇を捉えていた視界。それが徐々に光を取り戻していき、今では淡い青色が星のように散りばめられた光景に変わっていた。
「……なんだこれは?」
慌てる心のまま周囲を見渡すと、そこは洞窟のような空間が広がっていた。
天井や壁には、青白く光る苔のようなものが張り付き、かすかに脈動している。
それは、まるで呼吸しているみたいに、ドクン、ドクンと波打っていた。
あまりの異常事態に、脳は現状を理解をしようと、必死に酸素を要求する。
そして、空気を肺に吸い込めば、異常なまでに高い湿度が、喉に絡まった。
「……酒、飲みすぎたかな?」
あまりの非現実感に、今自分が夢を見ているのかと疑う。
試しに自分の頬を抓ってみれば……。
「痛い……」
痛みを感じた。
しかし、どんなに痛みを感じて、思考が鮮明でも、現実に起こるはずもない出来事。だからこそ、夢だと思った。思わなければ気が狂いそうだった。
そして、夢だと思えばこそ、さっきまで感じていた不安と焦燥感は、無くなっていく。
この時を思い返せば、本能が無意識の内の恐怖から逃げようと思わせていたのだろう。
なぜならば、膝はわずかに震えていたし、手はじっとりと汗ばんでいたからだ。
だからこそ、独り言をつぶやいてしまう。理解不能と言う『未知の恐怖』から逃れるために。
「……それにしてもここは何処なんだ?」
淡い青色に発光しているコケが周囲を照らし、湿度は高いが、水滴が出来るほどでもなく、高低差もほとんどない。そんな、歩きやすい道が暗闇の向こうまで続いている。
全く見覚えのない光景だが、あまりにもご都合的すぎる状況に、どうしても夢だと思ってしまう。
だんだんこの空間にも慣れてきて、恐怖心も薄くなってきた。
なんて、思ったのが悪かったのだろうか?
洞窟を進んでいると、幾重にも反響した音が聞こえてきた。
それはまるで、水滴が滴り落ちるような音で、規則的に『ぴちゃ、ぴちゃ』と聞こえる。
最初は、水でも滴っているのかと思った。湿った洞窟なんだから、そんな音くらい当たり前だろう、と。
しかし、明かに音が近づいてきている。
そして、そこで俺は気がつく。この音が足音であることに。
耳に張り付くような音が、反響で左右から聞こえてくるせいで、距離感が狂う。
何歩だ? 十か、二十か、それとももう目の前……なのか?
分からない。分からないが、恐怖から無意識の内に息を止めていた。
胸がきしむ。肩が震える。手のひらが湿って、上手く拳を握れない。
音はさらに近づき、そして……止まった。
ぞくり、と背筋をなぞるような寒気が走る。
見えない。まだ何も見えない。
なのに、そこに何かがいるという確信だけが、どんどんと濃くなっていく。
脳が、心が、全力で逃げろと警告を鳴らしていた。
そして、音が……消える。
一拍、二拍と刹那の静寂が空間を支配した。
「……ゴクリ」
唾を飲み込み、冷や汗がたらりと落ちた瞬間、そいつは……姿をあらわした。
「っ!」
ぬらりと濡れた肌。丸く肥大化した頭部に異様に長い四肢。
顔の大半を占めるような、醜く肥大した目玉と口。
闇に浮かび上がったそれを見た瞬間、俺はなりふりかまわず走り出していた。
明かに人間じゃない。動物でもない。
あんな形の生き物は、これまでの人生で一度も見たことがなかった。
生理的嫌悪と本能的恐怖が同時に脳を支配して、頭の中が真っ白になる。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
どれだけ走ったかは分からない。ただ、ひたすら逃げた。
足音が聞こえないことに気づいたのは、幾分か時間が経った後だった。
「……振り切った、か?」
息が切れて、思わず壁に手をついて、肩で荒い呼吸を繰り返す。
心臓が胸を破って飛び出しそうなほど脈打っていて、肺が酸素をねだっているのが分かる。
「なんだったんだ……あれは?」
あの暗闇の奥から姿を現した存在。
薄暗くてはっきりとは見えなかったが、そいつは二足歩行をしていた。
けれど、1メートルにも満たない身長に、長くて不釣り合いな手足。
さらには、腰にボロ雑巾のような腰布を巻いており、文明人とは到底思えない格好をしていた。
「……落ち着け、水橋正吾。まず状況を整理しろ」
あの化け物を思い返すだけで、手足が震えてくる。
そんな体を理性で無理やり抑え込んで、何度も深呼吸を繰り返す。
徐々に体から力が抜けていき、頭の奥にある冷たい思考が徐々に状況を飲み込み始める。
今の状況は、明らかにおかしい。幻想じゃない。夢でもない。
あの異形の生き物が、俺に向かって明確に『殺意』を持っていることだけは、はっきりと覚えている。
あの目。あの顔。
まるで死肉に群がるハイエナのような飢えた眼差し。
あれは、ただの通りすがりじゃない。明らかに、俺の命を奪いに来ていた。
「クソ……」
息を吐きながら、壁に背を預ける。
これまで、刑務所でヤクザの喧嘩の一つや二つは見てきた。
だけど、あれは、そういうレベルの話じゃない。
遊びじゃない。躊躇もない。本物の殺意があった。
「……このままじゃ……殺される」
この洞窟が一本道である以上、いつかは袋小路だ。逃げ続けるのは無理。……だったら。
「……やるしかない」
決意と共に手を握りしめる。
近くに落ちていた拳大の石を拾い上げ、立ち上がった。
そして、タイミングよく『ぴちゃ…ぴちゃ』と、あの足音が聞こえてくる。
湿った洞窟に反響する音は、距離感が掴みにくい。だが、あのモンスターが近い事だけは分かる。
「……」
俺は壁際に身を寄せ、息を殺す。
膝の震えは止まらないが、恐怖はもう頭から退いた。むしろ、今は冷静だ。
俺が走って逃げた時、追いつかれるどころか、かなりの距離を離す事が出来た。それを思えば、あのモンスターの身体能力は、さほど高くないのだろう。
そして、モンスターの大きさも子供程度で、180センチ75キロの俺の方が圧倒的に有利だ。
勝てる。少なくとも理性はそう判断した。
だから俺は、文明人であり教養人として、自分の理性を信じる。
「……」
ぴちゃぴちゃと鳴る暗闇の奥を凝視する。
1秒…2秒…3秒と時間が過ぎていくが、まだ姿を現さない。ただ不気味な足音が響くだけだ。
「……」
そして、暗闇の中、ゆっくりと明暗を境として、手が現れる。
それに続いて足、胴体……そして顔と、モンスターの姿が露になってゆく。
先ほどはパニックになっていて、詳細には見れていなかったが、明かに人肌の色では無く、全身が緑色だ。
さらには、体に比べて異様に大きい顔には、ギョロリとした真っ黒な目玉が、かすかな光に反射されて見える。それは、まるで、獲物を見つけた肉食獣のように、俺を見据えていた。
その瞳に一瞬気圧され、逃げ出したい気持ちに駆られる。
だが、ここで逃げても解決にはならない事を理性が必死に訴えかけていた。
だからだろう。恐怖に負けず一歩を踏み出せたのは。
「はぁああ!」
咆哮と共に俺は駆けだす。それに釣られたのか、モンスターも『グギャ』と醜い咆哮を発しながら駆け出した。
すべてがスローモーションに感じる中、俺はどこか他人事のように俯瞰的に見ていた。
これが走馬灯か……。なんて思う暇も無く、恐ろしく冷静な思考が、ただモンスターの動きを観察する。
モンスターの足はさほど速くはなく、脅威的には感じない。それどころか、近づけば近づくほど、モンスターが小さく見える。
『なんでこんなに小さく見えるんだろう?』そんな疑問が脳裏をよぎるが、考えている余裕は無かった。
手を伸ばせば触れられるほどに近い距離。そこから放たれたホブゴブリンの体当たりを反射的に交わす。
思考よりも先に体が動いていた俺は、気が付いた時には手に持っていた石をモンスターの顔面にたたきつけていた。
「グギャ!」
殴った右手から伝わってくる感覚は、異様なまでに軽い。
まるでそれは、中身の詰まっていないぬいぐるみを殴ったようだった。
そして、殴り飛ばされたモンスターを見れば、顔が大きく陥没している。
確かに石で思いっきり殴ったが、人間ならばあんなことにはならない。つまりは、相当脆いのだろうか?
しかし、思った以上に弱かったのは幸いした。
「ふぅ……」
そう俺が安堵した時だった。
モンスターはギリギリ死んではおらず、最後の足掻きとして、俺の足元に飛びついてきたのだ。
「っ!」
全く想定外の痛みに、悲鳴を上げるよりも先に体が脊髄反射でモンスターを蹴り飛ばす。
まるでサッカーボールのように飛んでいったそれは、壁に激突して鈍い音を響かせた。
グシャっと、明らかに骨が砕ける音が鳴り響く。
それと同時に、壁に叩きつけられた頭部から、血と脳漿が混じったような不快な液体が流れ出してくる。
「……やったか?」
念のため、足音を忍ばせてゆっくりと近づき、警戒しながらモンスターの体をそっと蹴って転がす。
そのモンスターは、だらしなく舌を垂らし、その黒い目は完全に色を失っていた。
ピクリとも動かないモンスターを今しばらく警戒したまま見つめるが、10秒経っても動く気配はない。
「……ちゃんと死んでる」
緊張がようやく解け、肺にたまった重たい空気を吐き出す。
最後に噛まれた怪我も大した傷になってはいない。
なんだかんだで無傷に近い勝利で幕を下ろした戦いだったが、そんな事よりも俺は気になる事があった。『モンスター』だ。
この洞窟は薄暗く、モンスターのシルエットや大まかな特徴が見えても、詳細な部分はぼやけていて分からなかった。
しかし、死んだ今ならば、モンスターの詳細な姿を見れる。
俺はスマホを取り出すと、ライトでモンスターを照らした。
「……これは」
照らし出されたモンスター。
現実の動物では見たことの無い見た目をしているが、、俺はこのモンスターに見覚えがあった。
いや、これは俺が知っているというよりかは、日本人ならほとんどが知っているであろう存在。
「……ゴブリン」
そう、さっきは薄暗くて良く見えなかったが、ファンタジーでよく見るような『ゴブリン』の見た目をしていた。
本当に醜く、まるで錬金術の失敗作みたいな見た目をしているゴブリン。
ラノベでもファンタジー作品でも同人誌でも引っ張りだこの人気キャラクターがなぜ?……だと思った瞬間、どこからともなく声が聞こえた。
今日から第1章が終わるまで、毎日3本投稿をさせていただきます。
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