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違法の華

作者: 枕ヶ星

美しいことは罪なのか。

愚かな人間は今日もまた、美しいものに牙を向ける。

多くの人間を魅了するアイドルや俳優には、必ずといっていいほど

「アンチ」が存在する。

彼らの原動力は何だろうか。

美しさへの妬みか

人間的な憎しみか

社会的な劣等感か

はたまた、常軌を逸した愛情か

僕達には理解し難い歪んだ精神状態が、不幸にも知的生物を狂わせる。

けれど、狂っていたのは僕もだろうと思う。

-僕の愛しき幼馴染はどこかへ消えてしまった-

失った喪失感が枕を濡らしたのは、その後だった。


僕がこの世に生を受ける十数年前の事だ。

当時の日本は、国全体に雲がかかっていた。

性と利権の黒い闇、

絶えぬ人材の物理的消費、

虹色の抑圧、

肥大化した義務、

鎖で繋がれるコンテンツ。

当時幼かった両親も「皆、漠然とした憂いを帯びていた。」と感じる程だったらしい。多くの人々が何かに寄りかかって生き、多の中で個を確立させようと必死な時代。

押し付けがましい多様性教育の裏側では、全体連帯主義の洗脳教育が蠢いていた。籠の中ので乱れるなと散々躾ていたくせに、「その羽根でどんな空を飛ぶの」とか抜かしやがる始末である。

倉を開けたそこに積まれた新聞と日記の山には、僕の祖父と父の名前が刻まれている。新聞記者である2人から興味深い話を聞いた僕は、27年前の新聞を埃を払いながら探す。Tシャツの首周りが汗で湿りだした頃、その興味の矛先を見つけた。黄に変色した新聞を破らないようソッと取り出す。湿気からか勢いよく広げるも、くたぁと生気なく折れる。

一番大きい見出しには、こう書かれていた。

『奈良県で新種の植物見つかる』



パンデミックの尾の気配がまだ冷えぬ当時の日本は、人々の精神衛生の悪さが社会問題となっていた。労働者や学生が非常識な低賃金で働かされたり、自ら命を絶っていたりしていたそうだ。だが異を唱えようものなら、四方八方からお気持ちの表明が飛んでくる。「他人同士で足を引っ張り合う」を地でいく環境が確かにあったらしい。

そんな混沌の闇を切り裂く、新種の植物発見のニュース。

翌日の一面に飾られた色鮮やかで華麗な1枚。

バラのような

ダリアのような

カーネーションのような

とにかく、形容し難く、ただただ美しい花の絵がそこにあった。右下隅には、「小土井 秀作」と、この世にも美し過ぎる絵を描いたのであろう画家のサインが記されている。

何故写真ではないのか。一瞬のうちに脳裏に現れた疑問は、またその翌日の新聞が解決してくれた。

『新種の植物の発見時に現場にいた現地住民2名、救急隊員1名、地元警官1名が精神病院へ入院された事が、関係者への取材で判明した。』

喉の奥で固くて大きな何かが、音を立てて通過していった。




10年に1度、中秋の名月は、その輝きで俗世の生き物を虜にする。コーヒーにミルクを溶かすかの様に、冷たい夜をまろやかに染め上げていく。

だが、10年のうち、9度は雨や雲に水をさされる。

-月に叢雲華には風と-

美しく輝くものは、どこからともなく邪魔が入るのが世の常だ。何かの業を背負わせるかのような所業に、我々は度々心を傷める。

今年の場合は、それは「ニュース」だった。

奈良県広陵町の県道脇の竹林にて

私は名月をキャンバスに落としこもうと竹の間へと踏み入れた際に、1輪の「花」を見つけた。

その異様なまでの美しさと、究極的な花びらの大小のバランス。

私は見事に腰を抜かし、その場に勢いよくへたり込む。

自身の眼球の奥底を、小さく綺麗な無数の手が優しく、それでいて力強く掴んで離さなかった。私は植物や花に対する造詣が深いと自負しているが、こんなものは見たことがない。

恐らく、いや間違いなく新種だろう。

眼の乾きの痛みを感じ我に返ると、顔中から水が滴っており、グレーのスウェットは涙と汗で水を被ったように色が変わっていた。

私を照らしていた月明かりはもう無い。

時間を確認して私は驚愕する。

3時間も経っているではないか!

突如として背中を襲った寒気は、男に漠然とした恐怖を抱かせた。荷物なんてものは放ったらかしにして、四つん這いで県道に出る。

幸運にも、2、3台の車がすぐさま止まり、人が駆け寄る。

「どうしました」「大丈夫ですか」

一秒一秒と経つにつれて私の体は、3時間もの時間がまばたきをするかのように一瞬に過ぎた事実に侵されていた。

バニックになり、ツギハギの日本語で必死に言葉を編む。

「花が……あ、めっちゃ、綺麗なが…3時…かす、すぐに…」

「え?どういうことです?」

残念ながら現地住民の者たちのニューロンは繋がらず、とりあえず救急車を呼ぼうと意見が決まる。

竹林へと行ってみないか、とは誰も言える雰囲気ではなかった。

しばらくして救急車が到着し、私は一応大事をとってと乗車を促される。

「あ、に、荷物を…だ、だれ誰か。」

その場の者たちに届いたか届くまいか、バタンッと視線を遮られる。

ゆっくりと車体は動き出した。

名月の夜の竹林が、若干の赤に染まる。


「おはようございまぁす。カーテン開けますねぇ。」

義務的にとった休息にトドメをさされ、瞼の向こうが光に支配される。テープでベッドに固定されているみたいに体が重い。胃が空になっているのか、少しキリキリ痛む。無理矢理起きてみるが、重量を感じる頭痛に思わず後ろに倒れる。

「もう少し横になってて下さいねぇ。」

ナース服の女性が、スタスタと部屋を出ていく。

渦巻く思考を必死にまとめ、やっとここが病院だと分かった。眉間のつんざく痛みの中に、昨夜の泥水のような記憶が湧き出る。

想いを馳せた地を背景に、絵を描こうと思ったこと

太陽よりも先に寝床を飛び出たこと

寝ている幼い息子と妻に何も言わずに来たこと

いつもよりも明るい夜に胸躍らせたこと

そして、

あの花のこと。

稲光の様に瞬間的に思い出した“アレ”に身震いをする。

ふと隣の棚に視線をやると、私の荷物があった。多分、散乱してしまったモノたちは全て揃っているだろう。

スマートフォンを手に取り、電源ボタンを押した。家族3人の写真の待ち受けが映るが、思い出したかのように通知を吐き出していく。妻からの不在着信の多さに、罪悪感に己を駆られてしまう。

暗くなった私に、同室の男が話しかけてきた。

「大丈夫ですかー?

気をつけないと、周りの方が心配しちゃいますよー。」

ごもっともである。いつまでも画家として燻り続ける私を二つ返事で支えてくれる妻に、これでは面目立たないではないか。

この男は、きっとそこまで見透かしているのだろう。

リュックサックに半ば乱雑に押し込まれたキャンバスに、手入れされていないボロボロの靴、泥に汚れたグレーのスウェットは、異様な雰囲気を放っている。

「お恥ずかしい限りで…」

頭を低く保ちながらも、男の方へと目をやった。

眠気はなかったが瞼が重い。少し開いた隙間から、視界をこじ開けた先に映ったものに驚いた。

男が広げていた新聞の見出しにはこう書かれていた。

『奈良県で新種の植物見つかる』

やった。

昨日の出来事は夢ではなかった。

名月にかかった叢雲は、名月以上に華がある存在だった。

寧ろ、逆だったのではないか。芯に灯った炎がエンジンのように私の体を焚き付けた。

こうしてはいられない

乱暴にキャンバスを立たせ、筆を手に取った。

今こそ父親になるために。




病室の窓から名月を眺めていた。

記者という仕事柄、深夜に目が覚めてしまったが、こうして10年に一度の中秋の名月にありつけた。天高く中心に座した名月は、少しばかり異様さを醸し出している。名月の周りは大きく弧を引いたみたいに空間があり、雲が遠くの方に控えている。

忙殺した日々の休暇を、腰痛が与えてくれたのではないか。

そう思うほど綺麗な夜空に私はすっかり見惚れてしまった。

-コロコロコロコロ-

病室のドアが開いた。

車椅子に乗った男を、若い女性の看護師が押している。そのすぐ横にはガタイの良い男性看護師が、車椅子の男の物なのか荷物を頑張って抱えている。バックパッカーのようにも見えたが、少し開いたリュックのファスナーからキャンバスが足を出しているのを見るに、大方画家志望だろう。

遠くの地からやっとこさ来たが、精根尽き果てて…、てな所だろう。

「高畑さん、お月見もいいですがお身体に障りますよ。」

少しばかりムッとしたが、

「はいはい、分かりましたよ。」

と従順にベッドへと戻った。

ガサッと棚に荷物が置かれたが、男のスマートフォンが滑り落ちる。すかさず男性看護師が拾うと画面が起動した。律儀にも液晶は、月明かりだけの病室を空虚にも照らす。

「この人子持ちだ。」

「へぇ、人は見かけによらないね」

2人の看護師の会話だ。なるほど、子持ちなのか。

私も子持ちで、仕事の責任と重圧にいつも心折れそうになりながらも、家庭を守るために日々身を粉にして労働に勤しんでいる。

だがこの男のように、自由と夢を追いかける生き様に憧れている自分がいる。

ぼんやりとした劣等感を抱えていると、私のスマートフォンに通知が来た。同じ新聞社の同僚からメールが来ており、私は直ぐに開く。

『広陵町の県道脇の竹林で新種の植物が見つかった!

それがとうも色々とヤバくてこっちはドタバタしてる』

影に何かを感じる知らせだった。

『何がヤバいんだ?』

間を空けずに返信が来た。

『その植物を見ただけの地元住民とか警官とかが運ばれていったんだ。今は専門の研究機関が詳細を調査してる』

『それは何だか不気味だな』

『だろ?明日見舞いと一緒に朝刊持ってくよ』

『ありがとう』

得体の知れない気持ち悪さだ。

私たちの知らない何かが、日常を侵食しているようだ。

パンデミックの兆候みたいな胸騒ぎが、私の頭の中をグルグル掻き乱す。

次の日の午前10時頃、同僚がやって来た。

『奈良県で新種の植物見つかる』というバカでかい見出しの新聞を脇に挟んでの登場だ。

挨拶もそこそこに新聞を受け取った私は、ザッと広げた。

「この植物の写真はないのか?」

「それが、搬送者の件もあって、現場にはテープが貼られててよ。しかもすぐに回収されたみたいで写真どころか一瞥も出来んかった。」

「他に何か分かった事があるか?」

「うーん、第一発見者がいたらしいんだけど、そいつも救急で運ばれてったらしいよ。何でも絵描きだったみたいで、そいつの荷物がまとめられていたな。」

「それってあんな感じの?」

「え?」

ピシッと差した指先の延長線上に同僚が目をやる。

瞬時に何かたくらんだのか、彼はいやらしくニヤついて言った。

「あの男に色々取材しちゃいなよ。」

「そうか、なるほどね。」

彼と顔を見合わせ、お互いのニヤつき加減を笑い合う。

「吉報を待ってるよ、凄腕記者さん。」

「バーカ、…じゃあな!」

この件の裁量を譲ってくれた彼は、高笑いしながら出ていった。

信じてくれた彼のためにも、オケラは有り得ない。

病み上がりにでっかい記事を引っさげて帰ってやる。

それどころか、一早い出世も視野に入るではないか。

利用…と言えば聞こえが悪いが、私と家庭の生活が懸っている。

すまないが、搾り取らせて貰おう。

昨夜と同じ看護師が病室に入って来た。

開かれたカーテンの外は快晴で、正に私の門出に相応しい。

男が起き上がったのを見計らい、わざとらしく新聞を広げる。

もの哀しげな顔の男に私は優しく声を挙げた。

「大丈夫ですかー?

気をつけないと、周りの方が心配しちゃいますよー。」




私のママは、私を美人にしたがっていた。

人間は、ルックスで対応を大きく変える生物だ。

顔が良いだけで、良い対応をされ

顔が良いだけで、モテる土台が作られ

顔が良いだけで、仕事がある。

そんな世界で、なるべく“良い人生”を送って欲しい。

それは、ママなりの親心だったのだろう。

その気持ちに応えられないと気付いたのは、小学生の頃だった。

AちゃんやBちゃんの他人からの反応と、

私に対する他人からの反応は全く違う。

物を壊した時、宿題を忘れた時、時間に遅れた時

Aちゃんは「次は気をつけてね」と言われていた。

Bちゃんは「他の事も頑張ってるもんねぇ」と言われていた。

私の場合は、ため息混じりに「出来ない子だね」だった。

クラスの男の子たちの私に対するイジリは、AちゃんやBちゃんにはなかった。

いや、違う。

Aちゃんじゃない、優花ちゃんだ。

Bちゃんじゃない、佳奈ちゃんだ。

この美しいもので溢れる世界に、私は

「愛されない側」

「主役じゃない方」なのだ。

自分に相応しい生き様が身についた頃、私は“美しいもの”への漠然とした憎悪に駆られていた。

そんな時代の世の中に、新しい依存物が誕生した。

-カグヤソウ-

数年前に発見されたこの花は、瞬く間に人間を骨抜きにした。

完璧としか言い様がない花びらの配置と、白からピンク・赤・黄・緑・青・紫への見事なグラデーション。見た者の視界を捕らえて離さない美麗さに、人類は抗えない。

今や、酒や煙草、SNSに並ぶ代物だ。

当初は得体の知れない人間への効力に、政府は隠蔽を試みた。混乱を招きかねない新種の植物への対応を急いだのだ。だが、第一発見者が新聞社へ情報提供と絵画提供をしたのを皮切りに、

「こんなに美しいものを隠そうとするな」

「我々にも見る権利がある」

「誰にも見てもらえない花が可哀想」

等と四方八方から意見の雨が降った。

陰謀論界隈では、政府が隠そうとするということは〜、というデマが流布されるまでになっていた。個を尊重せねばならない時代に、政府は遂に根負けをした。特段、怪しい成分も検出されなかったという。

公開された花の反響は絶大だった。沢山の人間がひと目見ようと足を運んだ。平日も休日も祝日も関わらず、毎日人が往復した。

毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日

そんな話題を聞く度に、カグヤソウが夢に出た。

「お前は価値がない」そう言って暗闇に消えていった。

だから私はカグヤソウが嫌いだ。

何かに頼るなんて…、依存物に縋るなんて…、嫌だった。

私は自分の足で立つ。自分の力だけで生きる。

モヤモヤは全部、自己研鑽にぶち込んだ。勉学に励み、部活に励み、仕事に励み、人生に励む。何かに時間を奪われたくは無いのだ。

街に溢れた、カグヤソウの植木鉢を抱えたホームレス。

カグヤソウの写真集の前で、力無く見惚れる同級生。

私はアイツらとは違う。その花に似合わない醜い人生を送ればいい。

その思考は大人になっても変わることがなかった。

だから結婚相手も同じ基準で探したのだ。

“何か”に依存しない、芯の通った真面目な人を。

26の暮れに春を掴んだ。

日本をもう一度秩序ある国にしたいと語る警察官だ。

努力が叶ったと、この時は信じて疑わなかった。




俺の記憶の中の親父は、いつも家にいなかった。

フラフラと外をほっつき歩いては、カラフルな汚れを纏って帰ってくる。部屋に散乱した絵を見ては、「もっと上手く」「もっと感動する画に」が口癖だった。幼いながらに無職のだらしの無い人間であると、薄々感じ取っていた。母はそんな親父を相手にうんともすんとも言わず、代わりに働きに出て家事もする。

そんな鉄人みたいな母が涙を流す様子を俺は3回だけ見た事がある。

1回目は、親父が大喜びで帰ってきた時。

いつものように俺たちに何も言わずに家を出た親父が、次の日の晩に意気揚々と帰宅した。どうやら新種の植物の第一発見者になったらしく、贅沢にもタクシーで帰ってきた。翌日の新聞の一面には親父の絵が掲載され、この時ばかりは親父を尊敬していたと思う。念願が叶ったと、母と手を合わせて小躍りしていた。中秋の名月の日に竹林で見つけたから「カグヤソウ」と名付けたという武勇伝をよく聞かされた。親父は画家として脚光を浴び、口座の通帳は一気に6桁増えた数字を記帳していた。

2回目は、

-親父が死んだ時だ-

カグヤソウの発見から5年後、森の中で首を吊っている所を発見された。

そばに転がった鞄からは、遺書が出てきた。そこには、自分がカグヤソウを見つけてしまった事、カグヤソウを世間に広めてしまった事、カグヤソウによって多大な被害が出た事の謝罪の弁が綴られていた。

俺たち家族へのメッセージは、一言も無かった。

葬儀はあっという間に終わったが、母の悲壮は全く癒える気配がない。その頃には国全体がカグヤソウの依存者で溢れ、国民の中でも規制の声がポツポツ挙がり始めていた。

俺の親父を擁護する声も出始めていた。

だが世間でいくら肯定されても、俺から見た親父は「父親」だ。

「カグヤソウを発見した人」じゃない。

「現代の合法麻薬絵画商人」じゃない。

“お父さん”なんだ。

ニュース番組で親父の特集が組まれ、哀悼の意が捧げられる度に

俺はまた一つ親父を嫌いになる。

親父が稼いだ多額のお金は、国の職員が七色の理由をつけてほとんど持っていきやがった。俺たちはほとんど騒動の前の様な生活に戻らざるをえない。

母は、俺の前ではもう泣く事はなかった。

そんな母を泣かせた3回目は、つい先日結婚報告をした時だ。

聡明で、落ち着きと品位ある女性。

カグヤソウを持ち歩いたり、カグヤソウのタトゥーを入れたりなんかする最近の頭の弱い女とは違う。己の足で立ち、自分の力で生きる責任感ある女性だ。

カグヤソウに対する嫌悪感で意気投合し、トントン拍子にゴールインをした。警察官という時間と都合が悪くなりがちの俺を、懸命に支えてくれている。

親父は家族を捨てたが、俺はそんな事しない。

家族と家庭を護り抜く

それが子どもにとっての理想の“父親”だと思ったからだ。




私は今イライラしている。

それは、この警察という組織の腐敗に心底うんざりしているからだ。

階級を上げれば上げるほど、関わる仕事はどす黒く変色してゆく。

冤罪をでっち上げるなどはまだ可愛い方で、ニュースでもよくお見えになる方からちょっとした“お願い”を頼まれる事がある。もちろん、警察といえども公的機関の一種なので、逆らえば俺なんて戸籍ごと簡単に消える。だが吐いた嘘を隠すには、より多くの嘘が必要になる。

愚かな上層部様は、そんな事にも気付かない。

嘘つきは泥棒の始まり

そんな世迷言はぜひ変えて欲しい。

嘘つきは警察の始まり、とね。

全ては、27年前の9月28日の事だ。

その日私は息子の誕生日に向け、家族と準備をしていた。

まだ幼い我が子と、明日ばかりは一緒に過ごそうと息巻いていたのだ。普段共に過ごせる時間が極端に少ないからだ。

公安に勤める私は、家族にすら仕事の内容を語れない。

なぜなぜ期の息子に「パパは何のお仕事をしてるの?」と聞かれて、

「悪い人を捕まえるお仕事だよ」と言わなければならない。

半分正解で半分間違いだ。

実際は、悪い事をしてグレーな人間を社会から抹消する仕事である。

息子どころか、国民に嘘をつかなければならない。

そんな私の唯一の休息の日

何ヶ月も前から調整したはずだったのだ。

当日の朝、上司から電話が入った。

お上から“お花回収のお願い”だと。

ふざけるな

常々民衆からは大量に税金を巻き上げる癖に

また無駄な事に精を出しやがって

そんなに深刻ならば、自分でやればいいじゃないか。

それに何だ?

ただの花が、植物が何だと言うのだ。

詳細を教えろと伝えるも、

理由は極秘だ

気持ちは分かるがやれ

突き放した口調による命令は、私から冷静さを奪った。

がっかりする妻と泣きじゃくる息子に何も言わずに出てしまった。

闇夜を乱暴に突き進む黒の車の中で、悔し涙と脂汗に塗れた顔を強引に裾で拭う。

なぜ私なんだ

なぜ私なんだ

なぜ私なんだ

山道を唸り走り回る鉄の塊は、獲物を追う熊のように獰猛である。

逸る気持ちのせいか、道を間違えた事に気付いたのは、大分後になってからだった。

やっとの思いで現場に着いた頃には、もう全て終わった後だった。

先に現場にいた地元警官から事のあらましを聞いた。

民間人が先に花を見つけた事や、現場にいた関係者や地元住民が何人も病院送りになった事。

竹林をグルっと囲ったテープをくぐり、いざ花と対面する。

花と顔を合わせた刹那、時が止まった。

なんと美しいことか

人間の美的センスとか趣がどうこうではなく、本能の根底から求めている感覚を感じた。私は花や植物を愛でる趣味はないが、この花だけは庇護欲を掻き立てられる。失礼ながら、妻と息子に及びかねない程だ。

けれども目が離せなくなるとか、脳に多大なショックを受ける程度ではない。あくまで理性の範囲内だ。

運ばれた人間たちは恐らく、美麗絢爛なものに耐性がないのだろう。

育ちの善し悪しとは、こういうものなのか。

薄ら笑みを浮かべ、フッと零す。後ろで体を強ばらせている警官の方をポンと叩き「まだまだだね。」と煽る。

足元に散乱した第一発見者の荷物は酷く汚れている。手袋を着けなければ収拾を拒んでいただろう。差し当たり、花の美しさに圧倒され、無様に倒れ、荷物も視界に入れず、這いつくばって竹林を抜けた、そういった所だろう。本当に滑稽だ。

ボロボロのリュックから、身分証明書を漁る。

ゴールド免許の運転免許証には、いかにもな男の写真が載っている。

小土井 秀作…、夢を捨てられぬ子供のような奴だ。

ひっくり返して転がったスケッチブックは、大量のデッサンが描かれている。確かに上手いが、それだけだ。

心の芯を穿つ様なメッセージは感じない。観たものを観たまま描いているだけで、これを芸術とは呼ばない。

携帯の待ち受けに映った嫁と子供が可哀想だ。

悦に浸る私に警官が声をかける。

「免許証で照会した所、00(前科前歴がない事)でした!」

「だろうな。こういう人間は行儀だけは良い。」

一瞬警官の顔が歪んだが、私は何も間違った事は言ってない。

それよりも、私は今から事後対応にあたる事が決定した。札束で昨日の記憶を買い叩け、と上司からのメールによる指示だ。

「ご苦労だった。後は我々が対応にあたる。

…あ、あそこで固まっている男を持って帰ってくれ」

きょとんとして見合わせた警官2人の顔はみるみるうちに青に変わる。

走り出した2人を背に、公安の職員と打ち合わせをした。

予定通り、花は回収する。目撃者を上手く丸め込んだら一件落着だ。

少しの仮眠と現場作業の後、小土井が搬送された病院へ向かった。

500万で口封じしろとのお達しを頭に置き、病室の前に立つ。

ノックをしようと握りこぶしを胸元まで挙げた時、中から声が聞こえた。

「その絵とその花の情報、うちに売ってください!」

は?どういう事だ。

マスコミがもう嗅ぎつけたのか?

恐る恐る開けたドアの隙間から覗いた先の光景は、私の人生に大きな凝りを遺した。

小土井秀作の前には、大きなキャンバスに描かれた“あの花”がある。

それもかなりの再現度で、昨夜私が見たものとまるで遜色ない。

観たものを観たままに描く、が裏目に出てしまった瞬間だ。

「私、今たまたま新聞社の記者をやっているんです。

その花の記事を書くことになりまして、ぜひご提供お願いします!」

「なるほど、そういう事なんですね!

私で良かったらどうぞお使い下さい。」

まずい、トントン拍子に話が進んでいる。

だが手荒なマネは出来ない。私の意思はお上の意思だ。

勝手な行動は慎まないと部署ごと消えてしまう。

当時30歳の私の若い判断力では、どう動くのが最適解か分からなかった。上司にすぐ報告をしたが、なんせ連絡の媒介を幾重にも挟むので、案が出始める頃には事態の収集がつかなくなっていた。

私は、早急な対応の不履行により、今まで以上に帰りが遅くなってしまった。上司はどこか知らない部署への異動を命じられ、乾電池を入れ替えるみたいに次の人間へと移り変わった。

責任感と緊張感、国に対する忠誠心を疑われた私が、部署で針のむしろになるのには本当に一瞬だった。

それもこれも全部アイツのせいだ。

-小土井 秀作-

お前が要らぬ事をしたせいで、私の今の不遇があるのだ。運が良いだけのお前が、私の順風満帆な人生を傾けた。

私は始末書を握りしめ、アイツを呪った。

5年後、私の意思は神に届いた。お上からの“お願い”が来たのだ。

それは、「小土井 秀作の殺害」だ。

すぐに部下数人を引き連れ、身辺調査を始める。

毎週月曜日に絵を描くために、遠出をする事が分かった。

10月上旬、場所を決め、荷物を下ろそうとするアイツを後ろから襲った。

びっくりするほどひ弱な体だったからか、すぐにオチた彼を部下含めた3人で運ぶ。

奇しくも5年前と同じ場所である。予め用意した、アイツに似せた筆跡の遺書をポケットへと押し込む。竹林の中の唯一の樫の木の枝にロープをくくり、アイツの首を通す。

サラバだ、小土井。

目障りなお絵描きはあの世で楽しんでくれ。

積年の恨みを晴らさんとばかりに部下に合図する。

ロープにかかった身体の重みで、複数箇所から「ギュッゥィー」と音がした。ジタバタしていた手足は、ものの10秒で動きの一切を止める。別にこんな事は初めてじゃない。

また社会から1人、社会の邪魔者が消えただけだ。

涼しいようなまだ暑いような気持ち悪い天候の昼下がり。

一仕事終えた後の煙草の煙は、アイツへの弔いの線香のつもりだ。

リュックを漁って出てきた日記と、財布の金だけを頂いた。

日本と私の糧になれ、秀作。




私はちょっと変だ。

小学3年生の私が違和感を抱いたのは、友達の一言にある。

授業参観の次の日の朝。クラスメイトの春菜ちゃんが、私に言った。

「こうきちゃん。お母さんとは全然似てないねぇ。」

ビックリした。今までそんな事考えた事も言われた事もなかったからだ。でも確かに言われてみれば、私はお母さんに全く似ていない。

まず、お母さんは一重だ。でも私は二重だ。

お母さんは頬骨が厚い。でも私は滑らかだ。

お母さんは頭がいい。でも私は馬鹿だ。

お父さん似なんだねぇ、どころじゃない。

私の容姿を生み出す方程式に、お母さんが組み込まれていないのだ。

肌の色なんて、両親共々違う。昔のアルバムと見比べても、明らかに白い。人種を疑うレベルだ。

体型も年々細くなっている。お父さんからは、いっぱい食べないと大きくなれないぞ、と何度も言われるが、私はしっかり食べている。

スポーツをする訳でも、アウトドアに勤しむ訳でもないのに、体が勝手に絞られていく。

ある日、お母さんに聞いたのだ。

「ねぇ、お母さん?私って本当にお母さんから生まれたの?」

怒鳴られるのも覚悟していた。でも本当に悩んでいるのだ。

お母さんは、ハッとしたように私に返事をした。

「え、う、うん!そうよ、お母さんが産んだのよ。」

お母さんは驚いていた。でも予想していた答えで良かった。

けれど、お父さんは険しい顔をしていた。

怖くなった私は、すぐにリビングを離れた。

自分の部屋でゆっくり考えてみて、合点がいった。

私のアルバムには、出産時に立ち会うお父さんの写真があった。

もし養子とかだったら、そんな写真は残らない。

どこかで聞いた、新生児の取り違えも考えたが、それだとお父さんに似る理由が分からない。

たまたまお母さんに似なかっただけ。そう思う事にした。

リビングに戻り、両親にさっきは失礼な問いだったと謝った。

ほんの少しだけ懐疑の念が残ったが、デザートのアイスクリームで押し流した。

次の日の朝、お父さんは朝早くスーツで出かけた。

私とのお出かけの予定が消えてしまった事を憂いでいたら、チャイムが鳴った。いつもの元気な顔の少年が、モニターの端に映る。

健吾くんだ!

隣の家の健吾くんが私の事を呼びに来たのだ。

健吾くんは同い年の男の子で、家族ぐるみでとても仲がいい。

3歳の頃、警察官の父の新しい勤務先であるこの地に引っ越してから、ほぼ毎日顔を合わせた。通う小学校が違うためか、最近学校でカップルだなんだと噂が立つ事が気になるが、だからと言って距離をとるような事はしない。

お母さんにせがんで作ってもらった水筒を握りしめ、玄関の戸を勢いよく開ける。行先も決めずに走り出した私たちを、お母さんが見えなくなるまで見送ってくれた。

彼との思い出は全てかけがえのない宝物だ。

この日は、太陽が沈むまでとことん遊んだ。

彼と最期に遊んだ記憶が、こんなにも美しいもので本当に良かった。




「健吾ー、ご飯だよー。」

母が僕を呼ぶ声が聞こえた。

「はぁいー。」

新聞をめくる手を止め、階段を下り始める。

さっきまで僕は、カグヤソウに関する記事を読んでいた。

父と祖父の記録は本当に精密なものであった。

記録の中のカグヤソウは、一世を風靡した“神からの贈り物だ”。

類似する近縁種等は一切存在せず、どこから来たのかどうやって生まれたのかが、今日に至るまで何も分かっていない。そんなカグヤソウは、10年前に大麻に近い成分が検出されたとかで、突如規制の対象になったのだ。成分が特殊らしく、人体に入ったとしても中毒症状や反応は一切出ないとのこと。成分が成分なので脱カグヤソウして下さい、と時の法務大臣が矢面に立つ記事を見た。

しかし、何年も人類が依存していたという事実は簡単には消えず、リビングのモニターに映るニュース番組では、今日もカグヤソウ所持の逮捕者が出た事を淡々と告げる。

実に興味深い話ではあったけれど、僕には関係ない。

昔の出来事で、歴史の一部だと認識している。

自室に戻る直前、台所のカウンターに1枚の紙切れを見つけた。

その紙には、

『月咲華姫 かぐや』

と書かれている。

すかさず、母に聞いた。

「これなーに?」

「知らない、さっきポストに入ってたの」

適当に紙切れを置き、自室へと戻る。

昨日、幼馴染のこうきと遊んだ疲れがまだ残っているのか、昼食後に強い眠気に襲われた。ベッドに適当に横になり、段々ボーッとしてくる。

女で、「こうき」ってちょっと変わってるなとか考えてたりもした。

遠くの方で聞こえる乾いた爆発音を無視するように、眠気にすがった。




厳正な廊下を歩く1人の男。

身なりには気を遣っているのか、綺麗なスーツを身に纏っている。

その目つきは凡人のそれではなく、獰猛な熊のようだ。

その男の名は、門見 中助。

警視庁公安部第4課所属の警視正である。

門見は苛立ちを隠すことなく、大股で廊下をのし歩く。

バン!と音を立てドアを開け、自分の椅子へと着く。

苛立っているのには、理由がある。

暫くして、ノックが部屋に響いた。

「入れ」

入室した男は、真っ直ぐ門見の方へ歩いた。

凛々しさの中に戸惑いを隠せない顔をしている。

普段刑事として働く彼が、公安の警視正に直々に呼ばれる理由が分からなかったからだ。

門見は一つため息を着いた後に、ゆっくり話し始めた。

「坂口 直人警部、よく来てくれた。

君のことは、真面目な働きぶりだとよく聞くよ。」

「いえ、滅相もないです。」

軽く会釈した坂口 直人の頭頂部を、門見は見下すようにチラ見する。

「君は、カグヤソウについてどう思う?」

直人は一瞬戸惑ったが、すぐにハキハキした声で返事をする。

「私は個人的にその関連に対して良い印象を持っていません。」

「…そうか…、そうだよな。」

門見は観葉植物の葉の先を撫でながら会話を続ける。

「カグヤソウはこの日本を、いやこの世界の秩序を乱した恐ろしい植物だ。多少取り戻したとは言えど、その影響は未だ尾を引いている。」

「………………。」

直人は何も言えなかった。彼の心の奥底では、疼くものがあったからだ。

「学生の学力は大幅に平均を下げ、カグヤソウ絡みの犯罪が後を絶えない。栽培、所持が違法になって10年経った今日ですら、逮捕者の知らせを聞くばかりだ。

カグヤソウは社会にとって害虫みたいなものだ駆除しなければならない。君もそう思わないかね。」

「……はい。」

「では、そこでだ。」

門見は、手を明るく叩いた。


「君の娘のDNAから、カグヤソウと同じ配列が数多く見つかった。」


直人は、固まったまま動かない。

見るからに青ざめる顔で震える直人を置き去りにして、門見は話続ける。

「先日、君の娘が病院で血液検査を進められただろう。

医者から病気の微細な疑いがー、とか言われてな。」

その通りだ。

何かしらの意味ありげに言われたから全く感付きもしなかったが、まさか、公安が俺たちを張っていたのか。

しかも娘を?俺ではなくて?

娘を人質にとって、カグヤソウを発見した親父の事を聞き出そうというのか!?

数秒のうちに、直人の頭のでは様々な考えが錯綜していた。

「私たちの間では常識なのだが、カグヤソウとはかなり特異な存在でだな。

DNAの配列は地球上の如何なる生命体とも共通点が少ない。

そんなカグヤソウと君の娘は高い確率で配列が一致する。

安全な社会のため、人類の発展のため、堅牢な秩序のために、

“娘を公安に差し出せ”、坂口警部」

門見が出した声は、人1人用にしてはやけに広い部屋の中を反響する。

直人は重い唇を震わせながら声を発した。

その肩は、左右に小刻みに震えている。

「畏まりましたぁ!」

この大声は、2人の鼓膜を執拗に揺らした。

今まで険しい顔の門見は一変、少し笑って見せた。

「そうか、そうか!

君の国家に対する忠誠心は本物だな!」

そう言い、まだ震えの引かぬ直人の肩と背をポンッと叩く。

そして頭を掴んで耳打ちをしたのだ。

「明日のこの時間に娘を連れてこい。

何でもいいから理由をつけて、身の回りの物を持ってこさせろ。

別れの挨拶ぐらいはさせてやる。」

俯く事しかできない直人へ矢継ぎ早に語る。

携帯を取り出した門見はどこかへ電話をかけた。

「私だ。表に車を回せ。送迎だ。」

直人は、会釈とも言えぬ角度で傾いたままである。

生え際の端から吹き出した汗の粒たちは、頬を流れては顎の先で合流する。何も考えられない頭の中では娘の顔が浮かんでいた。

ドアのノックで気づいた頃には5分が過ぎていた。

「お迎えにあがりました!」

門見の部下が声高らかに述べる。

「そちらの坂口警視(・・)をご自宅まで送って差し上げろ。」

「承知しました!」

直人の足元には、小さな水溜まりが出来ていた。

もう遠い遠い先に沈んだ世界の中で、直人は門見からの言葉を反芻する。

車に揺られながら、その意味を理解する。

家に着いた彼にすぐさま妻が駆け寄る。

「あらぁ、レクサスでご帰宅なんてどうしたの?」

「何でもない、少し休ませてくれ」

直人は妻の出迎えも耳に入れず、自室へと一直線に向かう。

赤い空が紫を経て夜になっても

彼の娘が帰宅しても

妻が心配してドア越しに声をかけるも、直人は出てこない。

次の日の朝、久しぶりの家族揃っての朝食に、娘は違和感を抱いていた。普段忙しくても正義と社会のために奮闘する父親が、今日はこの時間に家にいる。その上、暗い顔で白米をチビチビ食している。いつもだったら、お母さんに注意される程の勢いでかき込むような人のはずだ。あるいは私に、しっかり食べて元気に遊ぶんだぞ、なんてのはお決まりのフレーズだ。

少女が感じたいつもとは違う日常の不協和音。

父親が乱した旋律の流れを妻もまた察していた。

昨日の夕方の帰宅から、私たちは一言の会話もない。仕事関係で何かしらあったのか、はたまた別の問題か。

カチャ、ズーッ、コト、シャキ、トン

食卓の上の四重奏を切り裂くように、父親が声を絞り出した。

「2人に話がある。」

娘と妻の箸の動きが止まる。

「うん…」「何、どうしたの?」

シリアスな空気は、人の舌までもを重くする。

キッチンの流し台から聞こえた3滴の落下を受け流した。

「訳を聞かずに従って欲しい、

最低限の荷物をまとめ、ここではないどこか遠くへ逃げてくれ。」

「……?」

「分かった。かぐや、早く食べなさい。」

勘づいた妻は淡々とした口調で返す。

少女は納得できなかったが、言われるがまま食事を急いだ。

「俺はいつも通りを装って仕事に行く。

警戒はするが、なるべく早くここを出るんだ。」

そういうと父親はドタバタして家を出た。

妻は食べ終わるなり、食器も片付けずに大きめのスーツケースとリュックサックに粗方の必需品を詰め込んだ。

「ほら出発するよ!」

「待ってお母さん、もうすぐ終わるから…。」

まるで空き巣に入られたみたいにひっくり返された家を後に、玄関で2人は靴紐をいつもよりギュッと結ぶ。

ドアを開ける直前

「あ、教科書を持って行った方がいいかな?」

「いらないよ!私が教えてあげられるから!」

「でも、でも私頭悪いから…」

ドアの方を向いた妻は、ハッキリ言い切った。

「何言ってるの!あなたはお母さんの子どもでしょ!

…だから、大丈夫なんだよ…。」

遊び回っては学のあるお母さんへ酷い点数のテストを渡してしまう私に

お母さんはそう言ってくれた。

強く握りあった大きさの違う手を互いに強く握りしめ、

母娘は家を飛び出した。




奈良県警のオフィスには、1人の男が腕を組み座り込んでいる。

坂口 直人警部である。実績と信頼と人間性の高さにより、若くして警部にまで達した男である。

そんな男は今、自分の仕事机に向かい何の仕事もしていない。

長年使い古された机を雑巾で丁寧に拭く。

それが終わっては立ち上がり、共有設備のメンテナンスに取り掛かる。他の職員はその異変にすぐ気づくも、男のただならぬ雰囲気に圧倒され、何も言えずにいた。

それもそのはず、直人はもう腹を括っているのだ。

公安所属の上官に、

警察組織に、

国に背くが故の自身への糾弾の全てを、受け入れる気でいる。

例えそれが、「死」だとしてもだ。

死を受け入れた人間は、異様なまでの落ち着きをはらう。

真っ赤な顔をした門見が自分を捕らえるその瞬間まで、せめて自分の同僚に迷惑はかけまいと、雑務を進んで取り組む。

今頃、娘と妻はどの辺まで行けただろうか

英語が話せる妻なら海外でも大丈夫だな…

でもかぐやは頑張らないと厳しいな…

段々と熱くなる目頭を必死で抑える。

どうかこのまま

妻と娘が無事に逃げられ……


バンッッッ!!!


扉が蹴飛ばされる。

狭い入口から5人の黒いスーツの男が入ってきた。

退路を塞ぐようにそれぞれが整然と立つ。

ドアの奥の影から1人が顔を見せた。

「坂口直人、日本国に背いた罪で連行する。」

低く野太い声で言い切るその男は、門見 中助警視。

「アレ?ナンデ?って顔してるな。

お前みたいな出来損ないの父親を持つ者の考えなんざお見通した。」

門見の目配せにより反応した部下が直人を拘束し、連行していく。直人は少しも抵抗することなく、されるがままに部屋を後にする。

「お騒がせしたな、坂口警部はもう帰ってこない。

それじゃあ、後はよろしくね。」

あっという間に終わった出来事を、他の職員は唖然と見つめるしか出来なかった。令状もなければ同意もない、逮捕と表現しても差し支えないような一連の流れ。

我らがエースの粗雑な扱いに皆嫌悪感を抱いたが、相手が公安とあってはどうも出来ない。

地下駐車場の隅の暗い場所

車の中で後部座席に向けて、門見は語り出す。

「お前の処分はお上が決める。

だが、行動しだいで軽くなるかもしれんぞ。

父親のように犬死にしたくなければ従うのが懸命だ。」

ニヤつく門見とは裏腹に直人はとても落ち着いている。

「分かりました、何をすればいいんでしょう。」

門見は待ってましたと言わんばかりに、

「お前の妻と娘に連行を促させろ。俺の勘違いでしたとな。」

「はい…。」

母娘には既に尾行がついている。

2人の前に車が停車する。

「お2人とも止まってください。」

そう言いながら中から降りたのは、門見である。

門見は直人の腕を掴み、さらに続けた。

「君たちのお父さんから大事な話があるそうです。」

「……」

「さぁ、言え」

「…。俺はな、子供を守るのが親の1番の課題だと思っている。」

「何の話だ」その言葉を遮るように直人は続ける。

「犯罪、病気、貧困、悪いものなどから守るんだ。

それが親にしかできない仕事なんだ。金と厳格さとかでどうにかなるもんじゃないんだ。」

「誰に無駄口喋っているんだぁ!」

「お前に向けてだよ、門見中助!」

「はぁ?」

「奈良県警がしっぽを掴んだ、大規模なカグヤソウ密売グループの中にある名前を見つけた。門見涼介、お前の息子だろう。」

「はぁあ…?」

見るからに門見の腕が震え出す。

「親父はどうしようもないクズだけどな…、俺という人間が生まれたんだ!

それに比べてお前は犯罪者を育て上げてしまったなぁ!」

「うるさいうるさいうるさい!だまれぇえ、お前も父親みたいに殺してやろうか!」

「かかったな…。」

直人は、ズボンと腰の間に挟んだ拳銃を取り出した。

-パアアァァァンッ-

乾いた破裂音が、誰も通らない道路にこだまする。

短筒の先から放たれた銃弾は、男の額の中心に穴を開けた。その場で倒れ込む男を前に部下らしき5人は誰も動かない。

ありがとうお父さん。

「かぐや!いっぱい食べろよ…。」

そう言い放ったお父さんは車に飛び乗り、ドアを閉めた。

窓ガラスに貼られたスモークのせいで中の様子は分からない。

やっと動き出した5人の部下と1つの死体の後ろの方で、

もう一発乾いた破裂音が耳を刺した。

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― 新着の感想 ―
[一言] とても読み応えのある作品で、次はどんな関係者が出てくるのだろうとドキドキしながら読ませて頂きました。 謎が謎を呼ぶ存在、カグヤソウ。 その美しさを描写する表現が秀逸ですね。 きちんと読み解け…
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