08 孤児たち
「何で犬の面倒を見なきゃいけないんだ、俺たちは?」
足元でぐるぐる動き回る黒い子犬を見て、オスカーは溜息をついた。あの悪魔が訳の分からないことをさせるのは今に始まったことではないが、それにしてもこれは極めつけと言えた。
就寝前、6人はひとつの部屋に集まってお喋りに興じている。厳しい訓練を送る中での、唯一の憩いの時間であった。
「言ってた通りじゃないかな? 犬を飼うことで、僕たちに何かを教えたいんだと思うけど」
ルイスが茶色い子犬を撫でながら答えた。彼は元々犬好きであり、犬の面倒を見るのに積極的だった。
「教える? あいつが痛みと苦しみ以外の何を教えてくれるっていうんだ? 残っている科目は『死』くらいなものだぞ? 毎日が驚きの連続だ、悪い意味でな」
オスカーが肩をすくめた。
「そうよねぇ。よくもまあ毎日あんなことを思いつくものだわ」
イザベルが白い子犬を抱えつつ、腕の火傷の痕を労るように触った。すぐに消えるだろうが、彼女は白くて綺麗な肌が自慢だったので、どうしても気になった。
この火傷は先日の姿勢を正す訓練でできたものである。それは熱湯の入った金属製の器を頭の上にのせ、30分間落とさずに姿勢を保つという、訓練とは名ばかりの新種の拷問だった。
当然、器を落としたら最初からやり直しである。
イザベルたちが器を落して熱がるたびに、セリーナは腹を抱えて笑っていた。
「どういう人生を送ったら、あんな人でなしができるのかしら? 公爵様はとても良い人なのに」
公爵は穏やかで笑顔を絶やさない人柄で、孤児であった自分たちにも優しく接してくれる。これは身分の高い貴族がなかなかできることではない。貴族は階級が上がれば上がるほど、庶民を同じ人間とは見做さなくなるからだ。その点、公爵はできた人間と言えた。とてもあのセリーナの父親とは思えない。
「あれだ。公爵夫人が悪魔と浮気してできたんだろ? あの夫婦はあまり仲が良くないみたいだしな」
オスカーは屋敷内の情報を時々女の使用人から仕入れていた。彼はまだ少年のあどけなさを残しているが、整った顔立ちは若いメイドたちから密かに注目を集めている。さらに礼儀作法を身に付けることで、優雅な立ち振る舞いができるようになり、それで一際目を惹くようになっていた。
「セリーナ様は悪魔というほど、ひどくはないんじゃないかな?」
ルイスが遠慮がちにセリーナをフォローした。
「ちょっと待って、ルイス。今のは言い間違いか何かかしら? 悪魔ほどひどくない? 違うわよね、『悪魔よりひどい』でしょ?」
イザベルが美しい顔を険しくしてルイスをにらんだ。異論は許さないという剣幕である。
「でもさ、子犬たちはみんなセリーナ様に懐いていたじゃないか。あんなに犬に好かれる人は滅多にいないよ? 犬に好かれる人に悪い人はいないって言うしさ。だから、僕たちが思うほど悪い人じゃないんじゃないかなって」
「ルイス」
少し大きめの子犬を手で遊ばせていたリチャードが声を上げた。
「あれが悪い人間じゃなかったら、世の中から悪人がいなくなるぜ? 牢屋は無人になり、看守たちは失業だ。俺の親父もめでたく釈放される。だろ?」
リチャードの中では、世界一の悪人はセリーナに決定しているようだ。
「リチャードの言う通りだ、ルイス。犬に好かれたら良い人? じゃあ裁判も犬に任せればいいのか? 犬が懐いたら無罪放免? そんなことはないだろう。目を覚ませ、ルイス。おまえはあの外見に騙されているんだ。そりゃ美人かもしれないが、中身はこの世の汚濁を煮詰めてジャムみたいに詰め込んだような女だぞ?」
オスカーがルイスの肩を掴んで揺さぶった。ルイスは苦笑いを浮かべている。
「セリーナ様はとても良い人ですよ?」
思わぬところからセリーナを擁護する声が飛んだ。
うず高く積まれた本の隣で、黙々と読書に勤しんでいたアリスだ。かたわらには赤みがかった子犬が大人しく座っている。
「こんなに本をいっぱい読ませてくれる。あんなに素晴らしいご主人様はいません」
アリスは大量の本を与えてくれたセリーナを既に主と認めていた。
ちなみに与えられた本は、すべて古代語で書かれている魔導書である。アリスはこの大量の魔導書を読むために、三日で古代語をマスターした。アリスに魔法を教えていた教師は「化け物だ!」とその才能に恐れおののいたという。
「おまえ、昼間は散々悲惨な目にあっているのに、本が読めればそれはなかったことになるのか?」
リチャードは呆れていた。
アリスも体力があるほうではないので、走り込みのような基礎訓練ではいつもへばっている。
ただ、物覚えは早かった。特に教本を与えた場合は驚異的で、礼儀作法・マナーに関しては教師をも上回る知識を身に付けている。
「本を読ませてもらえれば、あれぐらいは大したことではありません」
アリスは平然と答えた。
「大したことはない、ね……」
オスカーは何日か前の訓練を思い出した。
セリーナが掌の6つの宝石をオスカーたちに見せた後、それを崖の下に投げて、ひとり1個宝石を拾わせてくるという内容のものだった。
崖の下は森になっており、強くは無いが魔物もいる。
6人は結束した。誰かが1個拾っても帰らず、全員で6個の宝石を探したのだ。魔物を倒しながら、森の中を何時間もかけて。
しかし、血眼になって探しても、どうしても6つ目が見つからない。
日が暮れて森が危険になってきたので、仕方なく5個の宝石を持って崖を登り、セリーナに許しを請うた。
ところがセリーナは握っていた掌を開くと、6つ目の宝石を見せたのだ。
「注意力が散漫ね。わたしは最初から5つしか投げてないわ。ひとつは手に持ったままよ?」と。
あのときの邪悪な笑顔は忘れられない。
「あの時はアリスも、疲労で倒れる寸前まで宝石を探してただろう?」
「でもセリーナ様は正しい。何事においても注意を払う必要があります」
「いや、あれは後付けの理由だろ? あいつは単に俺たちの苦しむ姿が見たいだけだって」
確かにあの日以来、オスカーたちは注意深く物事を観察するようになった。人の動作に気を払うと、今まで見えなかったものが見えるようになる。しかし、オスカーはそれを訓練のおかげだとは思いたくなかった。
「あ、でもあたしは面白かったよ。森の中を走り回れたし、木にもいっぱい登れたしね」
今まで話に加わらず、部屋の中を灰色の犬と一緒に忙しなく動き回っていたエマが口を挟んだ。
活発そうな顔に日に焼けた肌、しなやかな身体が示すように、彼女は動ければ何でも良いと思っている節がある。
「猿と人間を同じにしないで」
イザベルが冷たく言い放った。
「エマだって礼儀作法では痛い目にあっているでしょう?」
エマとアリスは両極端な存在だった。身体を使った訓練が得意なエマと、知識を身に付けるのが得意なアリス、ふたりは足して2で割るとちょうど良い。
「確かに勉強は嫌いだけどね。でも、孤児院だと代わり映えしない毎日だったけど、ここではいつも色々あって面白いよ」
エマは子犬とピョンピョン飛び跳ねながら答えた。ここに来た当初、イザベルはじっとしていられないエマに大人しくするよう注意していたのだが、今では慣れて諦めている。
「あの苦行を楽しめるのは世界でもエマだけだろ?」
オスカーは呆れた顔をしている。
「でもよ、エマの言っていることにも一理あるぜ。孤児院よりはこっちのほうがマシだってことだ」
リチャードが皮肉めいた笑みを浮かべた。
「孤児院にいたままだったら、俺はそのまま牢屋行きの人生を送っていた。オスカーは詐欺師でイザベルは娼婦か? ルイスは僧侶になれていたかもしれないが、アリスやエマもどうなっていたかわからないぜ?」
一定の年齢になって孤児院を出た人間のその後はあまり良いものではない。運が良ければ神の道に入って修道士や修道女になれるだろうが、それにだって回復魔法に適性がないといけない。
ルイスはここにきてから回復魔法に適性があることが判明している。
リチャードはセリーナの家庭教師たちから戦闘技能を高く評価されているし、特化型のアリスやエマはもちろん、バランスよく成長しているオスカーやイザベルも、セリーナ以外の公爵家の人たちからの評判は良い。恐らく従者になれなくとも将来の働き口には困らないだろう。
それを理解しているのか、オスカーとイザベルは嫌な顔をした。
ここに来れたことを幸運だとは思いたくなかったのだ。