30 もうひとつの結末(前)
わたしには婚約者がいた。幼いころから仲の良かった3つ年上の従兄弟。
わたしと同じ黒い瞳に黒い髪で綺麗な顔立ち。穏やかで一緒にいるのが心地良い、そんな人だった。
14のときに婚約が決まった時は嬉しかった。子どもの頃から「そうなりたい」と願っていた相手だったから、夢が実現したのだと思った。
ところが、わたしが18になった年、同じ学院に通っていた男子生徒から求婚を受けた。
相手は公爵家の跡継ぎ。うちは下級貴族だったから、とうてい釣り合わないし、既に婚約していたこともあってお断りした。
「身分の差なんて気にすることはない。僕は君のことが好きなんだ」
その人は笑って言った。個人的にも断り、家からも正式に断ったはずなのに、まったく意に介していないという感じだった。
彼は公爵家の人間であるにも関わらず人当たりが良く、いつも笑っていて、少しふっくらとした体型と相まって、穏やかで優しい人と評判の人物だった。わたしもそう思っていた。
けれど、求婚された後に気付いたのだが、この人はいつも笑っていて物腰は柔らかいのだけれども、話が通じていないような気がした。ひょっとして笑っているだけで、相手のことや都合などまったく考えていないのではないかと。
そう考えたら、笑顔の下に不気味なものがあるように思えて、その人のことが恐ろしくなった。
周囲の人たちからは
「公爵家の跡継ぎが身分の差を越えて求婚してくるなんて、まるで恋物語のようだ」
などと羨ましがられたりしていたので、「あの人は怖い」だなんて言うことはできなかった。
それでも、両親はわたしが従兄弟との結婚を望んでいることをわかってくれていたので、公爵家という雲の上の存在に対しても丁重に断りを入れてくれた。だから、わたしはこの話が進むことはないと思って安心していたのだ。
ところが徐々に雲行きが怪しくなってきた。
「向こうが諦める気配がまったくない」
父がそんなことを話すようになった。
父としては、公爵家が格の違う我が家との婚姻に積極的になるはずがなく、息子が独断で求婚しているものと思っていたのだ。だから、こちらが断れば、公爵家としても渡りに船とばかりに乗ってくると考えていたのだが、そうはならなかったらしい。むしろ、公爵家の面子をかけて、高圧的になってきているというのだ。
さらにうちの領地では「周辺の貴族たちとの関係が疎遠になってきた」「商人の出入りが少なくなった」「領内で取れた農作物が売れなくなった」等の変化が現れるようになってきて、領地の運営が厳しくなってきた。それも従兄弟の家も含めた一族全体がだ。
誰の仕業であるかは明白だった。国内でも有数の貴族であるローゼンバーグ公爵家であれば、このくらいのことはできるだろう。
親族会議が開かれることになった。その席では皆が一様に深刻な顔をしていた。
「公爵家と縁を持てるのは悪いことではない」
誰かがポツリと言った。わたしは泣いた。もうどうしようもないことを理解したのだ。
こうしてわたしは従兄弟との婚約を破棄し、ローゼンバーグ公爵家へ嫁ぐことが決まった。
──
「こうなると思っていたよ」
結婚式の日、夫となった彼は満面の笑みを浮かべた。
「僕たちは結ばれる運命にあったんだ」
まったく悪びれた様子もない。わたしの一族にあんなことをしておいて、本気でそう思っているのだ。
こんな男と結婚しなければならない自分の身を、わたしは呪った。
結婚してから間もなく、わたしは子を身籠った。
早い懐妊に周囲は祝福してくれた。夫も表面上は喜んだ。
しかし、寝室でふたりだけになると、彼はやはり笑顔のまま切り出した。
「少し早すぎる気がするんだよね」
「……初夜にできた子であれば、これくらいの時期かと」
「でも君は結婚直前まで元婚約者の男と仲良くしていたそうじゃないか?」
彼は微笑んだままだ。だが、却ってそれが怖かった。
「あの人は従兄弟なので、幼いころから仲が良いのです」
「そうなのかな? ああ、もちろん、僕は君のことを信用しているよ。生まれてくる子が楽しみだよ。せめて髪か瞳が僕に似ていてくれれば安心するのだけど」
夫の瞳は青く、髪は金髪だった。わたしも従兄弟も黒髪黒目なので、髪と目のどちらかが夫のものであってくれれば、わたしの無実は証明される。
「……ええ、わたしもそうであることを望んでいます」
わたしは身を固くしてベッドに横たわった。
──
わたしの懐妊が判明してから、しばらく経った後、従兄弟が死んだ。何者かによって殺されたのだ。
「どういうことですか!?」
わたしは夫に詰め寄った。この男の仕業だと信じて疑わなかった。公爵家には影働きをする者たちがいる。
特に夫の護衛も兼務している執事は、高齢だが凄腕の暗殺者らしい。これくらいのことは簡単にやってのけるだろう。
「仕方ないじゃないか」
彼は微笑んだ。
「あの男がいる限り、僕は君の一番になれないだろう? 君を想うがゆえさ」
夫はあっさりと自分の仕業であることを認めた。
「あの人とは何もなかったのに! 何故そのようなことを!」
「そうかな?」
彼は一枚の紙を取り出した。
「それは……」
「何故か彼の元にあった君からの手紙だよ。随分、情熱的な文じゃないか。僕にはそんなことを言ってくれないのに」
その手紙は時折尋ねてくる親族を介して、彼に届けてもらったものだ。わたしも同じように手紙を受け取っていた。万が一のことを考えて、夫のことや公爵家のことなどは書いていなかったが、それでもわたしの唯一の楽しみだった。
「こうやってね、君が僕よりも好きな男をひとりずつ無くしていけば、僕が君の一番になれるだろう?」
人ひとり殺めたことを告白したというのに、まったく悪びれた様子もなく笑っていた。
(あなたが一番になるには、この世のすべての男を殺すしかないわ)
そう言ってやりたかったが、わたしは怖くて言い出せなかった。この男ならやりかねないと思ったからだ。身体の震えが止まらなかった。
──
精神的には最悪の状態だったが、子どもは無事に生まれた。黒髪黒目の女の子だった。
これではわたしの無実は証明できない。
「困ったね」
夫はいつものように笑っていて、まったく困っているようには見えなかった。
「じゃあ、こうしようか。この子は僕が育てるよ。君には子育てを任せない」
「何故ですか!?」
母親に子育てをさせないだなんて、わたしには信じられなかった。
「うん、それはね、この子がどんな風に育つかで、誰の子であるかを判断したいからだよ」
「何を言って……」
「僕はこの子を甘やかして育てる。でもこの子が本当に公爵家の血を引いているのであれば、それでも立派に育つはずだ。反対に君の一族の血しか引いてなければ、残念ながら怠惰で愚かな人間になってしまうだろう」
「本気でそんな風に思っているのですか!?」
信じられなかった。気が狂っているとしか思えなかった。
「あたりまえじゃないか。それが家の格の違いというものだよ? 例えば、貴い血筋の家の子と平民の子がいたとして、ふたりを同じように育てても違いは歴然と出る。品格、能力、人間性などにね。君も一応は貴族の出なのだから、それぐらいはわかるだろう?」
わからない。この人が何を言っているのかわからなかった。
けれど、わたしにはこの家に味方はひとりもおらず、言う事を聞く他になかった。
──
夫が言っていた通り、わたしはセリーナと名付けられた自分の子と会うことも話すこともままならなかった。
会おうとしても夫の直属の家臣たちに阻まれ、どうすることもできなかった。妻とは名ばかりで、わたしの言う事など誰も聞いてくれない。
何とか無理矢理口実をつけて、寝ている姿を一目見るのが精一杯だった。
一緒にいられるのは対外的な行事の時のみで、そこでさえも話しかけることを許されなかった。
そして、夫はセリーナを徹底的に甘やかした。セリーナの言う事はすべてかなえられた。どんな我儘も聞き入れられた。
教育も体面を保てる程度のもので、それさえもセリーナは嫌がる始末だった。
あれではまともな人間に育つはずがない。どんな血筋であろうが、怠惰で愚かな人間になるだろう。
唯一友達になってくれたマリウスという子の影響で本を読むようになり、多少は勉強をするようになったが、それだけではどうにもならなかった。
成長するにつれて、あの子の悪評はあちこちで聞くようになった。
城で恥をかいているはずの夫はそれでも何もしない。
「やっぱり僕の子じゃないようだね?」
彼は朗らかに笑った。
──
そして、とうとうその時がやってきた。セリーナは国の宝である聖女を害そうとした罪で、捕らえられてしまったのだ。
だけど、あの子はまがりなりにも公爵令嬢である。重い罪になるはずはない。わたしはそう思っていた。
しかし……
「陛下にお願いしておいたよ。『聖女様を手にかけようとした罪は許されるものではありません。例えそれが愛しい我が子であったとしてもです。お許しください。わたしが子どもの育て方を間違えたのです。故にこの汚辱は公爵家の汚辱でもあり、死をもって贖う他なく、どうか我が娘に死罪を賜りますよう……』とね。『そこまですることはない』と仰っていた陛下も最後は聞き入れて下さったよ。他の貴族たちからは、『潔い』とまで言ってもらえたくらいだ」
「我が子に死を与えるよう願ったのですか!?」
「僕の子じゃない。君たちの子だ。本当に我が家の子であれば、このようなことにはならなかったよ」
鉛を飲み込んだように腹の中が重たくなった。どうかしているとしか思えない。
──
「あの子は泣いていたよ」
セリーナと面会するために監獄塔に行った夫はにこやかに帰ってきた。
「『助けてください、お父様』『今すぐ、ここから出してください!』『わたしは悪くはありません!』なんて言っていたよ。愚かなことだ。自分の置かれた立場も理解できていないだなんて。血筋が悪いと頭も悪く育つ。でもあの子の罪ではない。君の罪だ」
わたしに罪があるとしながらも、彼は笑っていた。
「可哀そうだから希望は持たせてあげたよ。『きっと何とかしよう』『わたしだけは信じている』『すぐに助けてやる』とかね。もちろん、何もやるつもりはない。ああ、涙も流してあげたよ。血は繋がってなかったけど、一応父親ではあったわけだからね。それぐらいはやってあげるさ」
「……セリーナは血の繋がったあなたの娘です。本当に助けないのですか?」
わたしは親子の情に期待した。
「嫌だな、そんなはずないじゃないか。あんな子が公爵家の血を引いているはずがない」
夫は面白い冗談でも聞いたかのように笑っていた。
「大丈夫だよ。それでも僕は君のことを許してあげる。だって愛しているのだから。子どもならまた作ればいい」
ただただ恐ろしかった。この怪物からわたしは逃れることが出来ない。




