29 アリス
昔、わたしは孤児院にいた。どうしてそこにいたかは知らない。特に興味はない。ただ、孤児院は本が少なかったので、あまり良いところとは言えなかった。仕方がないので同じ本を何度も読んだり、修道女たちの日記や手紙などを読んで気を紛らわせた。
とにかく何かを読んでいたかった。何かを知りたかった。わたしにとって、それがすべてで、他に何も無かった。
転機が訪れたのは10才になった年。孤児院にセリーナ様がやってきた。
わたしはセリーナ様に強い興味を持った。外見はわたしたちと同じくらいのはずなのに、言動や雰囲気がそれと乖離しているように思えたのだ。
「アリス、魔法を勉強する気はあるかしら?」
セリーナ様がわたしに尋ねた。
「……あります」
勉強は好きだ。ずっと本を読んでいられる。中でも魔法の勉強は時間がかかり、高い本もいっぱい必要だと聞いている。それなのに魔法を勉強させてくれるとセリーナ様は言うのだ。
わたしがその誘いを断る理由はなかった。
──
連れていかれた公爵家は素晴らしいところだった。とにかく本がいっぱいある。しかも好きなだけ読めた。むしろ、「読め」と強制された。人生であの時ほど幸せを感じたことは無い。わたしは恩人のセリーナ様を終生の主と定めた。
従者としての訓練は厳しかったが、本が読める喜びに比べれば大したことはなかった。すぐにわたしは才能を認められ、魔法使いとして生きていくことが決まった。
それからはセリーナ様と共に魔物と戦った。セリーナ様と共に学院に通った。学院を卒業した後も、わたしは魔法の研究をしながらセリーナ様にお仕えした。
充実した日々だった。セリーナ様は何もなかったわたしに、生きる意味と役割を与えてくれたのだ。これ以上ない良い人生だと思う。
ただ、わたしには秘密がある。
罪、と言ってもいいだろう。
ローズウッド学院の3年目、セリーナ様がレイヴンウッド子爵家に立ち寄った日のことだ。
最初は何故そんなところへ行ったのかわからなかったのだが、それとは別に、わたしにはひとつ気になることがあった。
セリーナ様がわたしの知らない本を持っていたのだ。
公爵家にある蔵書はすべて読んでいる。新しく入った本もその日のうちに読み終えている。何であれば、公爵家の機密性の高い書物すらもこっそり読んでいた。
けれど、レイヴンウッド子爵家から帰るとき、セリーナ様が膝に置いた本は見たことが無かった。
馬車ではセリーナ様の対面にイザベル、隣にエマが座っていたが、彼女たちは本に興味を示さず、主の妨げにならないよう目を閉じていた。従者としては正しい態度だろう。
斜め向かいに座っていたわたしだけが別の本を読むふりをして、セリーナ様が読んでいる本を視界の端でずっと見ていた。その本には、何らかの魔術的な処理が施されているのが分かった。単なる魔導書ではありえない。本自体が特別な何かであるはずだ。
(恐らく読ませてもらえない)
わたしは直感的にそう思った。セリーナ様は本を入手すると、大抵わたしに先に読ませてくれる。そして要約した内容をわたしから聞いて、自分は読まずに済ませることが多い。
そのセリーナ様が、わたしに渡さずに自ら読んでいるのだ。であれば、あの本はわたしの元に来る可能性は低い。
(どうしても読みたい)
自分でもどうしようもないほどの衝動にかられた。子どもの頃からの悪癖だ。読みたい物があると我慢できなくなる。
そして幸か不幸か、読む機会はすぐに訪れた。
わたしたち従者は交代でセリーナ様の夜番をしているのだが、その日はわたしの番だったのだ。
みなが寝静まった深夜、セリーナ様の部屋の前で待機していたわたしは、魔法で物音を消して部屋の中へ足を踏み入れた。夜目も魔法で強化した。セリーナ様はよくお休みになられていた。
目的の本は机の引き出しの中に入っていた。鍵はかかっていたが、その程度は魔法で簡単に開錠できる。これらの魔法は、どんな本でも読むことができるように真っ先に覚えたものだ。
本に書かれていた記述自体は短かったが、非常に興味深い内容だった。
セリーナ様はマリウスという魔法使いの手によって、2度目の人生を送っていらっしゃったのだ。
出会ったときの外見と中身が乖離しているような違和感の原因は、これだったのだろう。
1度目の人生におけるセリーナ様はあまり素行の良い方ではなく、それが原因で処刑されてしまったようだが、その程度でわたしの忠誠が揺らぐようなことはない。恐らく他の従者たちも同じだろう。大体、現世のセリーナ様も決して素行は良くはない。体面を取り繕う術を覚えただけで、力を持った分、よりひどくなっていた可能性すらある。
わたしは本の内容を暗記すると、そっと元の場所に戻した。もちろん、鍵もかけ直した。
そのまま夜番を続けたわたしは思考を巡らせた。
本の内容からして、恐らくセリーナ様はマリウスを世界に復帰させることを望むだろう。
そのためには、身代わりが必要となることも承知しているはずだ。
身代わりにはセリーナ様自らがなる可能性が高い。出会った頃のセリーナ様であれば、我々従者の中から選んだかもしれないが、あの方も大分変わられた。今のセリーナ様はあの本を読んだ上で、他の者を身代わりとすることを良しとはされないだろう。
だが、セリーナ様が身代わりとなることを黙って見過ごすことはできない。わたしはセリーナ様を失いたくなかった。
──
わたしはすぐに代償を置き換える儀式の調査と準備を始めた。セリーナ様は儀式系の魔法は得意ではないため、わたしに命じられることは想像に難くなかった。セリーナ様がなさりたいことを先んじて用意するのが、従者としての役目でもある。
1週間ほど経って、予想通りセリーナ様はわたしに代償を置き換える儀式を行うことを命じられた。
準備はできていた。覚悟も。あとは最後の用意をするだけだった。
わたしには8年間一緒に過ごした赤い犬がいた。出会った頃は子犬だったが、そのときはすっかり年老いてあまり動くことがなかった。もっとも、あの子は小さい頃から大人しくて、本を読んでいるわたしの足元で丸くなってることが多かった。
わたしが本を読みながら歩いているとき、何かにぶつかりそうになると服を引っ張って教えてくれた。わたしが寝食を忘れて本を読んでいると、「食事をしろ、自分にも飯を寄こせ」とばかりに唸ってくれた。わたしが読みたい本をくわえて持ってきてくれたこともあった。本が駄目になったから止めさせたけど。
この子はセリーナ様のことが大好きだった。この子だけでなく、仲間たちが飼っている犬たちはみんな。
「セリーナ様を助けてあげて」
自室に戻ったわたしは、待っていた犬にそう呼びかけた。通じるはずもない身勝手な言葉。
あの子はわたしと目を合わせた後、そっと寄り添ってくれた。
「ごめんね」
そう言って、わたしは犬の頭を撫でた。
──
儀式の前、わたしは自分の犬に魔法をかけた。
セリーナ様の身代わりとなって行動する暗示の魔法。
暗示の魔法は強い効果を持つものではなく、相手がその行動に対して能動的でなければかかることはない。
例えばその魔法で「死ね」と命じても、相手に強い自殺願望でもない限り、本当に死ぬことはない。その程度の強制力しか持たないものだ。
今回の場合は、犬のセリーナ様への愛情を利用している。セリーナ様のために行動するように動機付けして、身代わりとなるように誘導した。あの子にはそれで十分だった。
そしてもうひとつ、年老いた犬が機敏に動けるように、体力を増強する補助魔法も施した。
短時間だが、これで昔のように思う存分走り回ることができるようになるはずだ。
だが、犬1匹では人の代わりにはならない。計算では6匹でようやく人ひとり分の対価となる。
わたしは事前に、仲間たちにセリーナ様自身が身代わりとなる可能性があることを説明し、彼らの犬にも同じように魔法をかけることにした。
イザベル、エマ、リチャード、オスカー、ルイス。
みんな、「それがセリーナ様のためならば」と、孤児だったわたしたちにとっての唯一の家族を失う覚悟を決めてくれた。
だから、修練場では皆一様に押し黙っていた。
イザベルの目は赤く充血していた。いつも元気なエマが下を向いていた。リチャードは昔に戻ったみたいに張り詰めていた。オスカーの眉間には深い皺が刻まれていた。ルイスは涙がこぼれないように目を見開いていた。誰一人として平気なわけがなかった。
結界はわたしが張ったものだったので、いつでも解除することができた。
犬は近くで待機させた。
わたしの合図ひとつですべてが動き出すように。例え身体が動かなくなっても。
──奇跡は起こらないから奇跡と呼ばれる──
何としてもセリーナ様を失いたくなかった。
そのためにあの子たちを犠牲にした。
いくら賢くても、犬が勝手に身代わりになることなどありえない。
あれは奇跡でも何でもなく、わたしの薄汚れた企みに過ぎない。
そのままにしておけば、世界の改変と共にわたしもあの子たちのことを忘れることができただろう。
けれど、そんなことはできなかった。
わたしは自分自身にも魔法をかけていた。『リセット』にも組み込まれている記憶を固定するための魔法。効果時間は短いが、世界が変わる瞬間に発動していれば記憶を持ち越すことができる。
だから、わたしだけがすべてを覚えている。
消えていった、あの十二の瞳を。
セリーナ様や仲間たちまでが、あの子たちを犠牲にしたことを覚えている必要はない。
わたしだけの罪なのだから。
それで良い。すべては上手くいった。わたしだけが知っていればいいことだ。
しかし、あの日以来、セリーナ様は犬を遠ざけるようになった。
ルイスたちは勘違いしていたのだが、セリーナ様は犬に好かれていただけで、ご自身は犬が嫌いだったのだ。わたしは気付いていたけれど、面白かったので指摘しないでおいたことだ。
ただ、セリーナ様は犬たちとの距離を少しずつ詰めていき、最後は心を通わせていたと思う。
だからこそ、あのとき犬たちを引き留めようとなさっていた。
それが、犬たちがいなかったことになってしまったせいか、また犬嫌いになってしまわれたようなのだ。あんなにセリーナ様のことが好きだった犬たちの痕跡が、セリーナ様の中から一切消えてしまった。
わたしだけが覚えていればいいと思ったけれど、それにはどうしようもない悲しさを感じた。
──
今日はセリーナ様がわたしを供として、聖女であり王妃でもあるエレノア様に会いに王城へと赴く予定だ。現在、おふたりは友人となっている。セリーナ様は初めて同性の友人を持てたことを喜び、よく城に遊びに行くようになっていた。
国王陛下のご家族は、犬が好きでたくさん飼われている。しかし、エレノア様は察しの良い方なので、セリーナ様が来るときは犬を遠ざけておくのが常だ。
ところがこの日は一匹の子犬が脱走して、例によって異常に犬に好かれるセリーナ様のところへ一直線に駆け寄ってきた。
とっさにわたしが前に出て捕えようとしたのだが、それより先にセリーナ様は綺麗な所作で屈むと、犬を丁寧に抱きかかえた。
すぐに王家の侍従たちが平謝りで犬を受け取りにきたのだが、セリーナ様は犬をじっと見て、なかなか渡そうとしない。
その瞳には怯えも恐れもなく、ただ涙をにじませていた。
「セリーナ様」
わたしは思わず声をかけた。
「犬はお嫌いではなかったのですか?」
すると、セリーナ様はようやく子犬を侍従たちに手渡した。
「昔は嫌いだったわ。でも、きっかけは覚えていないけど、気づいたら好きになっていたの」
「しかし、今までずっと犬は遠ざけていたではありませんか」
「よくわからないけどね」
セリーナ様は侍従に抱えられて遠ざかっていく子犬を眺めていた。
「好きなんだけど、何故か犬の目を見ていると悲しくなるの。涙が出るくらいにね。おかしいでしょ? 鬼とか悪魔とか呼ばれているわたしが泣くだなんて。だから、あまり近づかないようにしていただけよ。今だって泣きそうになってしまったわ。本当に……何でこんな風になってしまったのかしらね?」
「……そうですか」
わたしはその答えを知っている。けれど、それはあり得ないことのはずだ。
「あら、アリス。どうしたの?」
セリーナ様はわたしを見て微笑んでいた。
「何がですか?」
「あなた、泣いているわよ? 長い付き合いだけど、あなたが涙を流す姿は初めて見たわ。わたしが犬が好きという話で、そんなに感動したの?」
そういえば何かが頬を伝う感触があった。視界もぼやけている。顎から雫が床に落ちた。
「そうですね」
わたしは笑った。よくわからないけど、とても嬉しかった。
失礼なことに、わたしの笑顔を見てセリーナ様は驚いている。
「だってそれは奇跡ですから」
The True Ending




