15 イザベル
母は娼婦だった。父のことは知らない。多分、母の客のひとりだったのだろう。
わたしは娼館で生まれ、娼館で育った。似たような境遇の子は何人かいて、兄弟のように扱われた。
だからというわけでもないけど、あまり母親にかまってもらった記憶はない。娼婦として人気があったのだろう。子供の面倒を見るのは、客を取る前の若い女の子の仕事だった。
成長すれば、女は娼婦に、男は下働きに。そういう場所だった。
多分、他の連中が思っているほど嫌なところではない。それなりに楽しくやっていたと思う。
でも、成長するにつれて、自分がどういう場所にいるのか理解するようになり、客を取るようになった年上の子たちが泣いているのを見るようになって、段々心境に変化が生まれてきた。
きっかけになったのは母親の死だった。
娼婦によくある病による死だ。けれど死ぬ直前、妄想にとりつかれて錯乱する母の姿を見て、わたしは恐怖にとりつかれた。「ああはなりたくない」と。
母の葬儀は簡易的だった。共同墓地に葬られて終わり。
ただ、その墓地に隣接していたのがホーリーヘイヴン孤児院だった。
わたしは葬式が終わると、隙を見てそこから抜け出して、孤児院の門を叩いた。
そして、扉から出てきた院長にわたしは言った。
「娼婦にはなりたくない」
院長は少し困った顔をした後、わたしを匿ってくれた。
娼館の連中は孤児院にまでわたしを探しに来たみたいだけど、院長が「そんな子はいない」とはっきり否定してくれたのだ。運が良かったことに、この孤児院は貴族たちの援助によって運営されていたため、権力者の庇護下にあった。そのため、娼館の強面の男たちも、無理を通して孤児院の中まで探すことはできなかった。
──
孤児院の日々もそう悪いものではなかったが、娼館に比べれば、お行儀の良い子が多かったので、育ちの悪いわたしは浮いていたと思う。ただ、それなりに運動ができて、ちょっとだけ頭の良かったわたしは、比較的行儀の悪い子たちを仲間に引き入れて、自分の居場所を作った。
それで他の子たちにも影響力を発揮するようになり、何年か経つとわたしは孤児院の女の子たちを仕切るようになっていた。
だからといって、わたしは悪いことをしたわけじゃない。何といっても匿ってくれた院長には恩を感じている。
わたしがやったことは、悪いことをした連中にちょっとしたお仕置きをしただけだ。
みんなで無視したり、物を隠してやったり、何故か食事の量が減っていたり、幽霊が出るという物置に閉じ込めたり。
そういう見せしめを作ると、取り巻きたちは喜び、わたしの影響力は強くなった。一石二鳥だ。
「イザベル、勝手に罰を与えてはなりません」
院長からはよく注意を受けた。
「何で? あいつらは悪いことをしたじゃない?」
「神様が罰を与えるからです」
「神様は何もしないよ?」
「神は決して悪を見逃すことはありません。どんな人間でもいつかはその報いを受けるのです」
「でも、院長。神様がいたら孤児なんてひとりもいないはずじゃない? 神様はいないんだよ」
わたしが神の不在を説くと、院長は悲しそうな顔をした。
でも、神の存在を前提にして生きていくことなんかできない。そんなものに頼っていたら、とてもやっていけないことは生まれたときから知っている。
結局のところ、何事を為すにも力がいるのだ。それは腕力だったり、人の数だったり、権力だったり色々だ。
孤児院で腕力があったのはリチャード。あいつは何でも暴力で解決していた。
数の力に物を言わせていたのはオスカー。男の子たちを統率して好き勝手やっていた。
わたしは孤児院に秩序をもたらすべく、あいつらといつも争っていた。
どこにいても争いは起きる。やはり力は必要だ。
ところが、わたしの孤児院での生活は突如として終わりを告げた。
悪魔が孤児院にやってきたのだ。
セリーナ・ローゼンバーグ。公爵家令嬢。
彼女は孤児の中から従者を選ぶと宣言し、服でも選ぶような気安さで子どもを品定めしていった。
初めは院長が選抜したお行儀の良い子たちから選ばれると思っていたのだけれど、リチャードとオスカーが選ばれたと聞いて、わたしは身の危険を感じた。
すぐに身を隠そうと思ったのだが、時すでに遅く、院長が悪魔を連れてきた。
「この子も従者にするわ」
まるで絵画の中から抜け出てきたみたいに綺麗な女の子だった。ただ、その瞳は子どものものとは思えないくらい強い意志を感じた。
「あの、わたしなんて何の役にも立たないと思いますが……」
わたしのことは院長から説明を受けているはずだ。それでもわたしを選ぼうとしている時点で、どんな従者を選ぼうとしているのか知れている。だから、必死で選ばれないよう振る舞った。
「あら、イザベルはお母さんみたいに娼婦にでもなりたいの? 素敵な将来の夢ね」
悪魔はわたしの心の黒いシミを正確に掴んでいた。怒りで顔が歪んだのが自分でもわかった。
そこでわたしの運命は決まった。
──
公爵家で待ち受けていたのは想像以上の地獄だった。
過酷な体力訓練、厳しい勉強、さらには武器を使った戦闘訓練まで施された。それも精神をえぐるような罵倒というおまけまで付いている。
どう考えても、普通の従者には必要のない能力が求められていた。目的が見えない。
ただ、ひとつわかったことは、確かにこれでは院長が用意していたお行儀の良い子たちでは耐えられなかったということだ。認めたくはないけど、リチャードやオスカー、それにわたしみたいな筋金入りのろくでなしでないと生き延びることはできなかっただろう。
ルイス、アリス、エマはまた違った意味で変わった子たちだったから、ついていけたようなものだ。
そういう意味ではセリーナ様の目は確かだった。
1年が経ち、わたしたちには犬が与えられた。
何で毎日を必死に耐え抜いている自分たちが、犬の面倒まで見なければならないのか理解できなかった。
でも、言うことは聞かなければならない。犬の世話を放置しようものなら、何をされるかわかったものではなかった。
仕方なく世話をしたが、最初はなかなか上手くいかなかった。
一向にわたしになつかないのだ。餌をあげても、散歩をしてやっても、トイレの面倒を見てやっても、どこかよそよそしさを感じた。
ある日、限界がきて、わたしは自分の白い子犬を思わず床に叩きつけようとした。
だけど、その瞬間、犬の瞳と目が合って身体の力が抜けた。
その瞳は知っている。娼館にいたときのわたしたちの目だ。常に何かに怯えていた自分の目だ。
なるほど、確かにわたしはこの犬を飼わないわけにはいかないらしい。
わたしたちは過去の自分たちと向き合う必要があった。それをセリーナ様は見抜いていたのだ。
犬が来てから、色んな事が腑に落ちるようになった。
セリーナ様は常にわたしたちを見ている。それも異常なまでに熱心に。
何故か?
そこには愛があるからだ。
セリーナ様にとってわたしたちは『特別』だったのだ。わたしたちはセリーナ様に選ばれた人間だったのだ。セリーナ様はわたしたちの父として母として愛を与えてくださっているのだ。
その証拠に、厳しい訓練を耐え抜いたわたしたちには力が身に付いていた。望めば騎士にだって、何にだってなれるような力だ。
従者になった日は忘れられない。何しろ国王陛下にまで謁見ができたからだ。娼婦の娘だったわたしがだ。
けれど、わたしは自分のことしか見えていなかった。
国王陛下に謁見した後、ルイスがセリーナ様に進言したのだ。
「毎日、我々の犬を相手に1時間ほど遊ぶ時間を設けてみてはどうかと」と。
不覚にもわたしは気付いていなかった。セリーナ様も本当は犬が大好きであることを。
考えてみれば、ベッドにまで犬を連れ込むような人だ。好きじゃないはずがない。
セリーナ様もルイスの提案を聞き入れ、早速犬と戯れていらっしゃった。
犬を抱きかかえたまま倒れ込んで、6匹の犬と遊ぶ姿はまるで天使のようだった。
残念なことに、セリーナ様はそのお姿をはしたないと思ったのか、すぐに立ち上がって犬たちと接するようになったのだが、それはそれで素敵だった。
わたしたちはみな、セリーナ様が犬と戯れるお姿を目に焼き付けるように見ていた。
本当にこの方に仕えることができて良かったと思う。
この夏はセリーナ様と共にエルフェン湖に行く。避暑地として有名な場所だが、セリーナ様によると蛇の魔物が出現するのだという。
そんな話は聞いたことも無いが、セリーナ様の言う事は絶対であり、その言葉に疑いを持つなどあってはならない。
例え蛇だろうがドラゴンだろうが、我々はセリーナ様の剣となり、盾となって戦うだけだ。
我らの命はセリーナ様のために。




