11 リチャード
親のことは覚えていない。というより、思い出したくない。
親父は母親のことをよく殴っていたし、親父が牢獄にぶち込まれた後は、
「リチャード、あんたの顔を見ていると、あのろくでなしの顔を思い出すのよ」
と母親に言われて、孤児院に連れていかれた。
つまり、親はふたりとも生きてはいるが、俺は捨てられて孤児院に入ったわけだ。
それが不幸かどうかと言われたら、恐らく幸運の部類に入るだろう。
何せ飯はちゃんと出るし、夜中に親が怒鳴り合ったりしない。環境的には最高だ。
ただ、問題はあった。孤児院ではなく俺のほうに。
すぐに手が出ちまうのだ。
言葉で言うよりも先に相手を殴っちまう。それが唯一親父から教わったことだからだ。話し合う必要も無く、俺の勝ちでケリがつく。世界一簡単なコミュニケーションだ。
俺は同じ年頃のガキどもに比べるとでかかったし、ケンカで負けることはなかった。
院長たちからは散々説教をくらったが、罰を受けても何てことはない。飯を一回や二回抜かれようが、説教部屋に閉じ込められようが、俺が家で受けていた理不尽に比べれば全然マシだからだ。
そういうわけで院長たちはうるさいが、孤児院では快適な生活を送っていた。
あいつが来るまでは。
ある日、孤児院に貴族がやってきたのだ。そいつはまあ珍しいことじゃない。
お高くとまった貴族が捨てられた子どもを哀れみに来て、ついでに菓子のひとつもくれることはあることだ。
でも俺は見下されるのは好きじゃねぇ。そういうときは決まって、貴族の間抜け面をにらみつけてやることにしている。そしたら、貴族が来るときは俺は部屋に閉じ込められるようになった。
今回もあらかじめ説教部屋に閉じ込められた。何でも偉い貴族のクソガキが孤児の中から従者を選びに来るとかで、出来の良い連中が貴族向けのマナーを教え込まれていた。
「可哀そうな孤児に身の回りの世話をさせてあげるわたしは慈悲深い」ってか?
むかつく話もあったもんだ。
俺はいつものように説教部屋で寝っ転がっていた。嫌なことを息をひそめてやり過ごすのは慣れている。静かにしてれば土産の菓子にもありつけるし、大したことじゃない。
そしたら、院長のババアが説教部屋にやってきた。
「あなたを公爵令嬢に紹介します」と。
気でも狂ったのかと思ったが、院長自身も混乱していた。
で、連れていかれた先で待っていたのがあいつだった。他に偉そうな大人もいっぱいいたが、わざわざ俺を見にきたのはこいつに違いないとすぐにわかった。
さらさらしてそうな長い黒髪に透き通るような白い肌、くそったれの神がえこひいきして作ったとしか思えないような面。そして、悪意に満ちた瞳。
見て分かった。こいつはヤバい。外見は良いかもしれないが、こいつはヤバい。
従者なんかにされた日にはロクな事にならない。俺は思いっきりにらみつけた。おまえのお遊びの相手など、こっちから願い下げだと。
しかし次の瞬間、あいつは俺の希望を打ち砕いた。
「一人目はこの子にします」
ああ、くそったれ! こいつはやっぱりヤバい。まともなヤツなら絶対に俺なんか選ばないはずなのに、選ぶってことはまともじゃないってことだ。
「おい、勝手に何を決めてるんだよ? 貴族だからって調子に乗ってんじゃねぇぞ?」
俺はあらがうことにした。多少痛い目にあうかもしれないが、それでもこいつの玩具になるよりはマシだろう。
「リチャード。今日からあなたはわたしの従者となります。不満があるならかかってきなさい? 力にだけは自信があるのでしょう? 頭は弱そうだしね」
あいつは頭に血がのぼった大人たちを止めると、人差し指で俺を招いて挑発した。
身体が勝手に反応したように俺は飛びかかった。ガキ同士のケンカで負けたことはない。人形みたいな女相手に引き下がったらいい笑いものだ。
けれど次の瞬間、あいつは視界から消え、顎に強烈な衝撃が走った。頭の中に火花が散って足元がふらついた。油断は無かったはずだ。「手慣れてやがる」と考えを改めたときには、股間を強烈に蹴り上げられた。
まったくの手加減無し。生まれてから一番キツイ一発だった。
これだから女は嫌になる。この痛さをわかっていない。
俺がのたうち回っている間に、あいつは立ち去って行った。
もちろん、見逃されたわけじゃない。あいつが帰る際に、他のついてないろくでなし共と一緒に俺は馬車に詰め込まれ、牛か豚のように孤児院から出荷された。
俺以外にあいつからご指名を受けたのはイザベル、アリス、エマ、オスカー、ルイスだった。
イザベルとオスカーは札付きの悪。アリス、エマ、ルイスも孤児院が持てあましていた連中だ。
どう考えても、お上品な貴族が好むようなメンバーじゃない。
セリーナとかいう公爵令嬢は何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
──
公爵家に連れていかれてからの日々は、控えめに言って地獄だった。
本物の地獄もこういうところだとわかったら、俺は明日から聖人君子になって天国を目指すだろう。まあ、そんな場所だった。
勝手に喋ることはできない、反抗すればケツに魔法をぶち込まれる、土嚢を持って走らされる、鎧を着て川を泳がされる、森に投げ込まれた小石みたいな宝石を探させられる等々、自分の生まれた家や孤児院が天国に思えるような毎日だ。
おまけに文字や礼儀作法まで覚えさせられた。覚えられなかったら、屋敷の一番高い場所にあるバルコニーからロープで宙吊りにされて教本を読まされた。30分ごとに引き上げられて、内容を覚えられたかどうかのテスト。不正解ならまた下に蹴落とされた。公爵令嬢直々の蹴りだ。
「静かに本を読むには最高の場所でしょ?」だとよ。
ああ、確かに最高の場所だった。他にやることが何も無いという意味では。俺の身体には長いことロープで縛られた痕が残ったが。
そのおかげとは思いたくないが、文字も礼儀作法もすぐに覚えることができた。
馬鹿みたいに毎日鍛えさせられたから、力もどんどんついた。
多少怪我をしたところで公爵お抱えの治療師がいるから治るのだが、優秀な治療師も公爵令嬢のいかれた頭までは治せないようで、訓練の内容は日々エスカレートしていった。
しかもある日突然、子犬の世話までさせられた。まったくもって意味がわからない。
ルイスに言わせれば「犬を飼うことは、みんなにとって良い経験になる」らしい。
自分の寿命が明日尽きるかもしれない環境で、犬コロの面倒を見ることが良い経験?
犬を飼うことが免罪符になって、死後に天国にいけるとでも? 信じられないね。
──そう思っていた──
犬は可愛い。俺の荒んだ心を癒してくれた。荒んだのは公爵家に来てからじゃない。恐らく孤児院に入るもっと前からだった。
この小さな生き物は俺に愛を与えてくれた。
愛だ。信じられない。俺は生まれてからこの方、愛だなんて言葉を一度も使ったことはなかった。
孤児院で神の愛を語られたときも、そんなものの存在を信じられなかった。
当たり前だ。俺は親に捨てられたんだ。親に捨てられた子どもには一体どこから愛が与えられるんだ? 俺、いや俺たちにとって愛は架空の存在でしかなかったんだ。
他人なんて信じられない。言葉の上では何を言おうが、心の中では何を考えているかわからない。綺麗ごとを並べたその口で、平気で人を傷つけ、裏切る。
でも犬は違う。裏表無く態度でそのすべてを俺にさらけ出してくれる。
飯を食わせてやれば喜ぶし、遊んでやっても喜ぶ。その代わり、かまってやれないと悲しむし、俺が苛立っているとやっぱり悲しそうな顔をした。
シンプルだ。面倒くさいことは何もない。こいつは飯を与えるから俺に懐くわけじゃない。愛を与えれば愛を返してくれるんだ。
あのくそったれの公爵令嬢は言った。
「孤児であったあなたたちには心に欠けたものがあります」と。
ああ、まったくその通りだよ。俺たちには欠けていたものがあった。愛が足りない。それに飢えていたんだ。でも親に裏切られた俺たちは、人の愛を信じることができなかった。イザベルやオスカーも同じだ。犬を飼い始めてから、あいつらの顔や態度から険しさが無くなってきた。きっと俺もそうなのだろう。最初からあいつは……セリーナ様は見抜いていたというわけだ。
死ぬほど厳しい訓練も、犬が待っていれば生きて帰ろうという気にもなってくる。
気付けば俺たちは確かな力を身に付けていた。
公爵様からは「騎士になれる」とまで褒めて頂けるようになった。俺だけじゃない。他の連中も騎士やら魔法使いやら、そういった立派な何かになれると言われている。孤児院にいたときには夢にすらならなかったものに。
認めたくは無いが、あの地獄のような日々が実を結びつつあるわけだ。
あらゆる難関苦難、理不尽を耐え抜いて、俺たちの心と身体は鋼となりつつあった。
14になる年を迎えたある日、セリーナ様は俺たちを犬と共に庭に呼び出した。
そして、満面の笑みで何かを言おうとした。いつものしごきかとも思ったが、一旦公爵様の呼び出しを受けて中座し、戻ってきてから告げたのだ。
「あなたたちはわたしの従者です」
おまえたちは兄弟の絆で結ばれたと、わたしは永遠であるから従者であるおまえたちも永遠だと。
何を言っているのかよくわからないけど泣けた。みんな泣いていた。俺たちは認められたのだ。
あの悪魔に。あの憎くて憎くて仕方の無かった性悪女に。
それが何でこんなに嬉しいのかさっぱりわからないけど涙が止まらず、連れてきた犬たちに慰められた。
セリーナ様は俺たちが泣き止むのを待って、さらに告げた。
「あなたたちを連れて、国王陛下に拝謁します。犬も一緒です」
何てことだ! 国王に会うだなんて平民には一生無いような栄誉だ! セリーナ様はこの日のために俺たちを鍛えていたのか! それを従者としての最初の仕事にするなんて……
俺はこの人を一生の主にすると心に誓った。




