旅立ち
ちょうど菓子が焼きあがる頃、太陽の光りがうっすらと空を侵食し始めていた。
焼きあがった菓子を冷ます。
二つを紙袋に入れて、残りを机の上に置いておく。
これは、屋台の焼き菓子と似ているが、味付けは私が考えたものだ。母の味付けとも違う。
空が色づいてくると部屋に戻り着替えを済ませた。
部屋の中にいるのに壁や天井が遠く感じて、窓から見える空だけが近く感じられた。
これからの私にとって変わらないのは、この空だけで、それ以外は何もかも変わってしまう。
壁に立てかけていた弓を手に取る。その重さが、しっかりと私の指に食い込む。
外に通じる戸の前に立った。
外にも内にも、私を見送る者の姿は見えなかった。
扉を開け、一歩前へ踏み出す。
次にこの土を踏めるのはいつのことだろうか。
踏める外に出てしまってから、家に一礼をし、その後、人々が眠る家に向かって礼をした。そして最後に、神殿に向かって一礼をして、私はこの国の切れるところへ向かっていった。
国の堺を表す石が並ぶところに、人の姿が見えた。
人影は私の姿に気が付くと片手を挙げた。
「やぁ……」
「タカ……。見送りは禁じられているのに」
「僕は見送りにきたんじゃないから」
「え?」
「僕も一緒に旅立つんなら、問題はないはずだよ」
「うん……」
「どうしたの?」
「私は、……」
私は、自分で決める勇気がなくて、季彦が旅立ちの朝に来てくれたら――。来たのなら、事情を説明して、一緒に旅立ってもらおうと決めていたにも関わらず、いざこうして季彦の姿を見ると、嬉しいという気持ちと同時に、何とも言えない気持ちが湧き上がって、言葉が出ない。
「僕は行くよ」
「…………」
「朝日が昇る前に――」
「――旅立たなければ」
「さぁ、行こう。行く道でも話はできるよ。朝日は待ってくれないからね」
そういって季彦は、簡単に国の堺を決めている石を越えた。
私に向けて手を差し伸べるその顔には、これまでに見たことのない大人びた笑みが浮かべられていた。
私は、彼の手に縋るようにして石を越え、生まれて初めて国の外に出た。
多くの人が踏み越えることなく、また踏み越えようなどと考えることもない国の堺を息をする間もなく通り過ぎた。
ここはもう私の育った国ではなく、誰の土地でもない。
「行こう。アキの行くべきところへ」
私より色の薄い赤い瞳が、私を見下ろしていた。
季彦の瞳に映る私の顔は、とても怯えていた。驚くほど子供のような顔をしていた。季彦と出会った頃の小さな私がそのまま映りこんでいるように見えた。
しかし、季彦は昔とは違っていた。
普段はあんなにも子供のような顔をしているのに、どうしてこんな表情をすることができるのだろう。
力強い腕に引かれて歩き出す。
まるで季彦は、私の行くべきところを知っているかのようだった。