仕来り
朝から、母が慌ただしい。
祭りの時、直接神様と接するのは、頭の家の人間の務めだ。実際相手をするのは、殆ど頭である父の仕事で、母は顔を出さない。兄は、もうすぐ父の後を継ぐことになるので、もしかすると今年は神様に会うのかもしれないけれど、私は完全に蚊帳の外だ。
なぜ、母が慌ただしいのかというと、裏方の仕事は全て母が取り仕切っているからだ。
神様に捧げる酒、食べ物、演武。
全ては、母が頭の家に伝わる仕来りにのっとり、責任を持って行う。
兄が頭となりお嫁さんが来るまでは、今、母のしている仕事は私が担わなければならない。
私はこの祭りの中心にはいないが、その中心を一番近くで見ている人間といえるかもしれない。
特に今年は、仕事を覚えるために近くで見ているようにといわれたため、何もしないまま慌ただしい部屋の隅で、ひっそりと息を殺して様子を見ている。
祭りの準備は前日の夜から始まるが、実際に祭りが動き始めるのは夕方からだ。
季彦との約束はもしかしたら守れないかもしれない。
いつもそうしていたように、待ち合わせをして屋台を楽しむはずだったのだが、この様子ではこの場を離れることは難しいだろう。
なぜ、もっと早くこのことを伝えてくれなかったのかと母を恨む。
少し考えればわかることだといえばそうなのだが、そういったことは考えないようにしようとしていた自分と幼いころから変わらない季彦と態度が、もう十八歳であるということを忘れさせ、私の中にある子どもの心をいいように解釈させるのだ。
夕方になり、提燈に灯がともされると国中が祭りの雰囲気に包まれる。
魚や肉にそれぞれの店特製のたれをつけて焼いた香ばしい匂いと、鍋やその汁を使った麺などの出汁の香り、それに焼き菓子の甘い香りを含んだ空気が風に乗って運ばれていく。
私はまだ、神殿の裏にある部屋の中でそんな香りを腹の中に落とし込みながら、母やその他の人の出入りをぼんやりと眺めていた。
太陽の姿が遠ざかり空が紫色になり始めた頃、神殿の入り口では様々な楽器を用いて音楽が奏でられ始めた。特徴的な弦楽器の音、澄んだ笛の音、太鼓の音。曲が始まると同時に人々は活気づき、そのざわめきもまるで曲の一部のようになって空に昇っていく。
「……アキ」
突然聞こえた声に驚いて、背中を突き上げられたような感覚を覚える。
「タカ?」
声は季彦のものだったように思うけれど、しばらく待っても返事がない。
もう一度呼び掛けようかと迷っていた時、父が近づいてくるのが見えた。
「亮。調子はどうだ」
「殆ど丸一日立っていたので少し疲れましたが、祭りの中心をこのように近くで見られること、光栄に思います」
「どうした? そのように硬くならなくともよい。仕来りは守るに越したことはないが、全く同じでなければならないわけでない。すでにこの祭りが始まった頃のものとは、おそらく異なっておるであろう。それが、我々の繁栄の証であるともいえる。さらに時が流れれば、祭りなぞ無くなり、我々は神と話すことなどできなくなってしまうやもしれん。だが、その心に大切なことを忘れないでおれば、生きていくために必要なものを失わずに済むだろう」
「生きていくために、必要なもの……?」
「まずは大切なものが何か、知らねばな」
父は、私の肩を大きな手で軽く叩いて、私が次の質問を口にする前に背を向けて去って行ってしまった。
「忘れてはいけない大切なこと……」
心がどこにあるのかは知らないけれど、その存在を確かめるように胸に手を当てた。
大切なことが何なのか、今の私にはまだわからなかった。
浮かんでくる言葉はいくつかあるが、私はまだそれらの言葉の本当の意味を知らない。