1.私のとある事情について
・・・そして目が覚めた。不思議な夢を見た感覚だけが残っていた。
「なんだろう・・。すごく壮大な夢を見ていた気がするんだけど
・・思い出せない・・」
それがなんだかすごく勿体ない気がする。すごく繊細で愛しい感覚が残っているんだけど・・だめだ、一生懸命思い出そうとすればするほど遠ざかっていく・・。
私は夢を思い出すことを諦めた。
「起きるか・・。でも起きてもすることない・・」
現実に戻ってため息をつく私。
目下、とある事情により、家族も友達も、知人すらいない土地に住んでいて、
仕事もない、完全なる孤立状態。
とある事情、といってもそれほど目新しいものではない。
要するに・・男に騙されたってだけ。
長崎瑠璃子、38歳、独身。もともと関東在住。
知り合って7年になる知人男性、3つ年上の山霧にいきなり告白されたのが
約一年前のこと。
「俺のこれからの人生のパートナーになってくれないか。一生面倒見るよ」
本当に“ただ付き合いの長い良い知人”だった彼からそう言われ、最初は引いた。
けれど何故か、気持ちよりも魂が反応しているような不思議な感覚があり、
そうなるのが自然のように思えた。
この奇妙な感覚はずっとあって、山霧に対しては最後まで
感情的な「好き」はほとんどなく、
魂が「愛してる」からそれに従っていたとしか言えない感じだった。
こうして、関西在住の彼との遠距離恋愛が始まった。
このころ彼はすごく優しく、何度も私に会いに関東まで来てくれた。
私と同じく、社会にうまく居場所を見つけられないタイプで、
生活に苦労していて、それでお互い惹きあったのかもしれない。
数か月して、その彼が人生をかけて弁当屋を始めると言い出し、
私にも関西で手伝ってほしいと言ってきた。ビジネスパートナーとして。
関西なんて行きたくないと思ったけど、既に彼を人生の伴侶と決めていた私は、
悩んだ末に、結局仕事を辞め、彼の住む関西の地へ引っ越す選択をした。
私としては嫁に行くつもりの一大決心だった。それが半年前。
けれど。実際に来てみると、話と現実は全く違っていた。
まず山霧はそもそも既婚者だが、告白の時に、
「離婚することになり、その手続き中だ」
と言った。だからすぐにも離婚成立と信じて付き合い始めた。
しかし、なぜかその話はいつになっても進展しない。
仕事も、ビジネスパートナーの話は何だったのか、
という時給900円の雑用バイト。
しかも、始まってみたら、接客経験ほぼゼロで不慣れな私に、
十分なトレーニングもないまま、毎日人格全否定の罵詈雑言、
怒鳴るし、パワハラそのもの。
さらにひどかったのは、彼は思ったほど役に立たない私の穴埋めという理由で、
その離婚手続き中のはずの奥さんを手伝いとして呼んだのだ。・・何それ?
今ならきっと色々文句も言える。でもあの頃の私は言えなかった。
2人きりで息が詰まるような雰囲気の中、客足が伸びないことにイラついて、
日に日に暴君化していく彼は、もう私の知っている彼ではなかった。
彼の切羽詰まった状況に同情はしていたけど、
日に日に彼への想いが褪せてきているのも自覚していた。
お店で彼が隣に来ることがあると、体が強張るようになって、
距離を取りたくなった。・・身体が真実を教えてくれていたようだ。
・・そんなある日。その日は朝から本当に1人もお客が来なかった。
さすがの私も、これでお店やっていかれるのかと心配になったけど、
山霧の焦りとイラつきはそんなものじゃなかったのだろう。
もうすぐ昼という頃、その感情を私にぶつけてきた。
「お前の、口調が強くて、まるで喧嘩売ってるような感じ悪い接客のせいで、
客が来なくなった。これは営業妨害だぞ。どう責任を取るんだ」
・・冗談に聞こえる?実話である。
私は誓って客に喧嘩など売っていない。
関東弁と関西弁のニュアンスの違いはあると思うが、言いがかりにも程がある。
開店してまだ3週間。その程度で利益を出せるのは、よほどの評判店だろう。
この時期はひたすら辛抱が必要だろう、とド素人の私でもわかるのに。
毎日罵倒されてきた私だけど、この時までは辞めようとは思ったことはなかった。
自分で決断し、覚悟を決めて来たのだから、苦手な仕事でもひどい店長でも諦めるつもりはなかった。
言われたことは直して、頑張ろうと自分を鼓舞してきた。
でも、この山霧の言葉を聞いた時、私の中で何かがぷつんと切れた。
この人は、うまくいかないこと全部を私のせいにする気だ・・と怖くなった。
今後もっと大きな問題が持ち上がった時、彼は何のためらいもなく私のせいにするだろうと思った。
この人はもう私を恋人とは思っていない。
実際働き始めてからは、恋人としての時間どころか、
会話すら全くなくなっていたのに、私はそのことにも目をつぶっていた。
突然、彼の敵意と悪意を肌で感じた。元々あったのに、私が気づかなかっただけかもしれない。
逃げなくては。ここから脱出しなくては!
と突然、強烈な危機感が沸き起こった。
それに突き動かされ、急転直下、その日のうちに私はバイトを辞めた。
もちろん彼はぐずぐず言ったけど、私にはもう、逃げなきゃという気持ちだけ。
辞める時も妙で、さんざん罵っていた山霧がその日バイトを上がる時に、突然、
「辞めたいなら、もう明日から来なくていいよ」
と言い出したのだ。さっきまで、絶対ダメと言っていたのに。
私はそのチャンスをすかさずつかみ、
「はい。長いこと、お世話になりました」
とだけ答えて、そそくさと引き上げ、めでたく自由の身になったというわけ。