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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第二章 ピアノコンクール
9/36

前回優勝者の実力

 正也がはじめて見る早弥香は、マッシュの頭がとても目立っている。しかし、全体的な雰囲気は、どこにでもいる物静かな女の子という印象を受ける。


 正也は首をかしげた。


 ──本当に彼女が、昨年の優勝者なのか?


 そう思うほど、早弥香はなんの変哲も感じない女の子だ。


 襟つきの薄いピンクのブラウスに、濃い緑色のスカートは、萌美の着ていた服を色違いにしただけのように思う。これから優勝をかけた演奏に挑むようには、まったく見えない。

 正也は自分が思っている以上に、服装から感じるギャップが大きいようだ。


 早弥香は、やはり萌美の演奏にショックを受けたのか、ふだんの彼女にしては表情がいくぶん固い。

 早弥香は観客に一礼し、ピアノの前に座る。そして、静かに目を閉じる。


 いまの彼女には、その両肩に「昨年の優勝者」というプレッシャーが、重くのしかかっているにちがいない。

 観客たちは、最後の演奏者を心配そうな目で見守っている。


 ──自分の演奏ができれば良いのだが……


 会場にいるみんながそう思うなか、早弥香はゆっくりと目を開ける。

 まるで、自分自身に魔法をかけ終えたかのように。



 早弥香の演奏する曲は『ベートーベン・ピアノソナタ第14番Op.27-2』。

 この曲は「月光ソナタ」として知られる名曲である。


 早弥香の指が、第一楽章のアダージョを奏でる。落ち着きのある三連符の響きが、ゆっくりと漂うように流れてくる。


 早弥香が奏でる旋律は重くなり過ぎず、また軽くもならず、観客たちにまさしく月光を意識させる。

 高校生の彼女からは、想像できない哀愁をたずさえながら、会場をあっという間に早弥香の色に染めあげる。

 序盤の彼女の演奏に、正也は驚いた。


 ──へえー


 正也は感心する。早弥香は、まったくプレッシャーを感じていない。


 幻想的で美しい旋律が、観客を魅了する。早弥香は観客の心をしっかりととらえたまま、曲は第二楽章へ移行する。


 曲調が、(えい)ハ短調から変ニ長調へ変わる。まるでスキップでもしているかのような楽しさが、会場に穏やかに伝わってくる。

 アレグレットであるこの曲は、それほど速さを感じさせない。この牧歌的な曲の雰囲気は、第一楽章とはまたちがった落ち着きを観客に与えてゆく。


 そして迎える第三楽章。曲調は、ふたたび嬰ハ短調にもどる。

 月光ソナタの「月光」は、第一楽章のことを指す。その第一楽章しか知らない人が、この第三楽章を想像するのは、非常に困難をきわめるだろう。


 終章である第三楽章は情熱にあふれ、迫力に満ちた曲であり、嵐のような激しさをともなう難度の高い曲なのだ。

 早弥香の本領は、この第三楽章で発揮される。



 早弥香の演奏が、第三楽章に入る。突然、ナイフのように鋭い旋律が、会場の空気を切り裂く。

 早弥香の指が、鍵盤の上を所狭しと駆けまわる。


 彼女が奏でるプレストは、ただ乱暴に速いわけではない。しっかりしたリズムは乱れることなく、その音はとても鮮明に聴こえる。

 強烈な和音が、観客たちの胸を突き抜ける。


 これほど迫力に満ちた演奏は、物静かでおとなしい印象の早弥香からは、想像ができない。

 観客の誰もが驚いている。


 早弥香のピアノ講師だった小谷は、祈るような想いで早弥香の演奏に聴き入っている。


 ──大丈夫、あなたは絶対に負けない


 萌美の存在に驚愕した小谷だが、それでも彼女は、早弥香の優勝を信じて疑わない。


 同じようなフレーズが繰り返される。しかし観客たちには、それが同じ感じには聴こえない。


 早弥香は、楽句が繰り返されるごとに、音の大きさを全体的にわずかに変えている。また、音を徐々に大きくするとき、あるいは小さくするときに、その強弱の振幅をも、微妙に変化させている。


 細かい部分まで緻密に計算されたような早弥香の演奏は、ダレることなく、曲を聴いている人たちを飽きさせることがない。

 会場にいる観客たちに、違和感を与えない範囲で行なわれる彼女の技術は、絶妙である。


 早弥香は、そういうことを意識してできる演奏者だ。


 正也が感嘆する。


 ──なかなか、やるねえ


 ひとつ間違えば、ぐだぐだな演奏になりかねない技を、彼女は当たり前のように駆使する。


 早弥香が奏でるピアノからは、不思議と音楽的な感性を感じない。曲を聴いて感じるのは、技術というよりも早弥香の「才能」そのものである。


 演奏が中盤を迎え、音の流れがカデンツァを思わせる響きに変わる。まさに芸術といいたくなるような、繊細で大胆なその響きは、演奏を徐々にひと休みさせるように誘おうとする。

 だが、次の瞬間──早弥香の指は、一時の休息にひたるのを拒否するかのように走り出す。


 後半に入っても衰えることを知らない早弥香の演奏は、前半にもまして迫力と激しさをふくらませてゆく。


 乱れることのないリズムは安定感があり、ピアノから出てくる音のバランスが非常に良い。

 指先のタッチが絶妙である。ピアノとの相性も良さそうだ。


 ピアノのことをよく知らない人にはわかりづらいかもしれないが、ピアノのちがいというのは、音のちがいだけではないのだ。


 演奏する者にとって、ピアノのちがいで最も気になるのは、やはりピアノの鍵盤を叩いたときの感触だろう。つまり、タッチの重さである。

 これがわずかに異なるだけで、演奏者にとっては思わぬ影響をもたらすこともあるのだ。

 場合によっては「こんなはずでは……」と思うほど、とても「演奏」とは呼べない出来に終わってしまうこともある。


 コンクールでは、そういう事態も起こりえるのだ。早弥香の演奏を聴く限り、ピアノとの相性には、まったく不安がなさそうだ。


 あふれる情熱は冷めることなく、会場全体を熱くする。早弥香の奏でる音は、そのひとつひとつがとても美しく鮮明に聴こえる。


 早弥香の指は、情熱を燃え立たせながら正確に鍵盤を叩く。激しいほどに迫力に満ちた演奏ではあるが、早弥香自身はいたって冷静な状態で、演奏に挑んでいる。


 ピアノが発する音色が、早弥香の天才的な才能を前面に押しだしている。曲を聴く人々は、その才能に魅了され、また圧倒される。

 早弥香は、観客の心を自分の演奏に強烈に引き込んでゆくのだった。


 早弥香は自分の実力を、余すことなく出しきっている。

 音楽に限らず、スポーツや他のジャンルにおいても、自分の実力をその半分も出せずに終わる人たちは非常に多い。

 早弥香はどんな場面であれ、自分の実力をいかんなく発揮できる人間である。それが早弥香の「強さ」の秘密といってもいいだろう。


 ピアノを前にした早弥香は、練習であろうがコンクールの本番であろうが、まったく同じ精神状態で演奏にとり組めるのだ。

 メンタルな部分の鍛え方が、全然ちがうのである。


 早弥香は、まぎれもなく天才と呼ぶに値する才能を備えている。だが、そんな早弥香を支えているのは、彼女が今日に至るまでに(つちか)ってきた、たゆまぬ努力に他ならない。

 天才と呼ばれる人たちの多くは、才能に恵まれていると同時に、人一倍の努力家でもある。

 正也は、そういうことをよく知っている。


 早弥香の素晴らしい演奏は、単に才能にすがりついたものではない。日々、積み重ねてきた努力が土台となっていることを、正也は実感するのだ。

 もっとも、正也も早弥香も自分が「天才」などとは、これっぽっちも思ってはいないのだが。


 人並みはずれた才能と、人一倍の努力が産みだした早弥香の演奏は、真に優勝候補と呼ぶにふさわしい。

 ピアノのソノリテを存分に活かした彼女の演奏は、誰が聴いても高校生のレベルをはるかに超えているとしか思えない。

 早弥香もまた萌美と同じように、将来はプロとして活躍する資質を、観客に十分すぎるほどに知らしめるのだった。



 やがて、演奏はクライマックスを迎える。厳しい規律から解き放たれたような、大胆でダイナミックな響きが、迫りくる情熱をそのままに観客の胸を打つ。

 それは、曲の演奏が終わりに近づいていることを物語る。


 繊細に動く早弥香の指は、高音のトリルを美しく奏でると徐々に低音に下り、つかの間の静けさを呼び込む。


 ほんのわずかな静寂のあと、早弥香の指がふたたび鍵盤に触れる。謙虚であるかのような音の響きは、徐々に迫力を加速させ、そして最後は劇的なフィニッシュで完奏を果たすのだった。


 その瞬間、割れんばかりの拍手が会場にとどろく。

 早弥香の演奏は、前回優勝者としての実力をまざまざと感じさせるほどに、貫禄に満ちたものであった。


 驚嘆したルミが、声をもらした。


「すごかったね……お兄ちゃん」

「……ああ」


 正也が、めずらしく素直に答える。


 早弥香の、あふれ出る天才的な音楽の才能が、怒涛(どとう)の勢いで襲いかかってくる。そんな迫力と激しさに満ちた演奏に、観客という立場にある者は、ただただ圧倒されるのみであった。


 正也がいままでに聴いたことのないタイプである。


 ──こういう演奏も、あるのか


 音楽的な感性は、不思議なほどに感じられなかったが、これはこれでおもしろいと思う正也だった。


 やるべきことのすべてを終え、ステージから去りゆく早弥香。全力を出しきった彼女の表情は、さすがに疲れが見てとれる。

 しかし、歩く姿は凛としている。その姿からは、与えられた課題や自分の決めた目標に対して、必ずやり遂げるという精神的な強さがうかがえる。

 

 正也は、そんな彼女を目で追いながら思った。

 

 ──本当に、すごかったな


 早弥香の内にある、いまは眠っている音楽的な感性が目を覚ましたとき、彼女の演奏はどんな進化を遂げるだろうか。

 早弥香は将来、真に「天才」の名を欲しいままにするような、世界に名だたるピアニストになるだろう。




 早弥香を誰よりも褒めたい人物は、われを忘れたように興奮していた。


「よし!」


 早弥香を見守っていた音楽科の教師である須藤は、演奏が終わったとたん、思わず叫んだ。

 胸にあてていた両手は、無意識にグッと拳をにぎっている。


 萌美の演奏に怖じ気づくことなく、また前回優勝者というプレッシャーに()し潰されることなく、最後までよく闘ってくれたと思う。


 須藤の教え子にはとても優秀な人たちが多く、プロとして海外で活躍している人もいる。

 だが今回の早弥香ほど、素晴らしい演奏を成し得た生徒はいなかった。


 これ以上の演奏を高校生の年齢で求めるのは、あまりにも酷である。これで優勝できなければ、よほど運が悪かったとしかいいようがない。

 しかし、優勝を争う相手は萌美である。観客の心が自然に受け入れ、会場のみんなと一体化するその演奏は、須藤と早弥香にとって、今大会最大の脅威である。


 技術的には絶対に負けない。そう思う須藤だが、優勝するためのカギとなるのが、技術ではなく音楽に対する感性となると……。


 須藤は早弥香の優勝を信じている。信じてはいるのだが


 ──でも、もし優勝することができなかったら


 相手が萌美である以上、須藤はそのときに早弥香にかける言葉も、考えなければならなかった。



 一方、観客席では小谷がハンカチで目頭をおさえている。

 金のたまごは、完全に孵化(ふか)したといって良い。彼女は、早弥香をここまで飛躍させた教師の須藤に、敬意をはらう。

 早弥香は条万学園に入学してから、小谷が思う以上に己を磨いてきたと実感する。


 ──優勝は、あなた以外にあり得ないっ


 小谷は、早弥香の優勝を一片も疑うことなく、信じきっているのだった。




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