萌美の演奏
ステージに立つ萌美を見た正也は、妙な気分におおわれる。
襟のある白いブラウスに、制服のような藍色のスカートは、信じられないほど地味である。
これは萌美に限ったことではない。出場者のみんなが、予想外というほどの味気ない服装で、演奏に挑んでいる。
てっきり、ドレスのような服を着て演奏するものだと思っていた正也は、コンクールの本選という感じが全然しない。
──まあ、服装を競うわけじゃないからな……
正也は自分にいいきかせる。どうにも、コンクールの服装というものに違和感を覚える正也だった。
萌美はすでに観客に向かって一礼し、ピアノの前に座っている。
演奏する曲は『モーツァルト・ピアノソナタ第11番K.331』。欲にいう『トルコ行進曲付き』である。
演奏においては、第二楽章のメヌエットが割愛される。それはなぜかというと、そうしないと二〇分という演奏の制限時間を超えてしまうためだ。
このことは審査員たちも了承済みであり、採点に影響することはない。
ピアノを前にしている萌美は、見るからに落ち着いている。
萌美の指が、静かに鍵盤に向かう。第一楽章はアンダンテ。ゆったりとした音の響きが、観客を優しく包んでゆく。
萌美の指先が作り出すその音は、とても優雅で、観客の心に得もいわれぬ安らぎを与える。
「ほう」
正也は感心する。
「ちゃんと、弾けるじゃないか」
正也は、腰をすえて萌美の演奏を聴いてみようと思った。
演奏を聴く人々は、萌美の優しさの世界にどんどん浸ってゆく。このまま、なにもかも忘れて、ずっとここにいたい……。そう思うほどに、みんなの心は萌美の奏でる音の世界で満たされてゆく。
しとやかな音の流れは、曲を聴く人々に、なんとも心地の良い安らかな時間と空間をもたらす。
観客のみんなは、萌美の感性が創る世界のなかに、わが身をあずけるように溶け込んでゆく。
やがて、曲の主題が六回にわたって変奏される。それは、様々に表情を変えてゆく。
喜んだり、悲しんだり、繊細な優しさをのぞかせたと思えば、はしゃぎ回るような元気さを見せたりと、次々に変わりゆく。
観客たちは萌美の演奏を聴いて、とても感銘を受けるとともに、どこか懐かしい思いに触れているような気がするのだった。
第一楽章が終わると、萌美の演奏は第三楽章にはいる。先に述べたように、第二楽章は演奏時間の関係で割愛される。
第三楽章は、かの有名な『トルコ行進曲』である。この楽章は、アレグレット(やや速く)であるのだが、それよりも速いテンポで演奏されることが多い。
萌美も同じように、速いテンポで曲の演奏にとりかかる。
萌美の指が、彼女の想いを的確に伝えるように鍵盤を叩く。ピアノから出てくる、萌美の感性が生み出した音を、観客たちは快く受け入れる。
まるで、その音を心から求めているかのように。
馴染みのある旋律が、会場を駆けめぐる。左手の伴奏が行進曲を象徴する。
観客たちは、曲に合わせて手で、足で、身体でリズムをとっている。萌美の演奏と一体化してゆく彼らは、もう萌美の演奏から離れられない。
萌美の演奏が創る世界は、観客たちに、またとない感動を与え続けた。
そして最後は、メリハリのあるコーダで演奏を締めくくる。演奏が終わった瞬間、会場に大きな拍手が巻き起こる。
観客に向かって、萌美は笑顔で礼をする。彼女にとって、いままでにない会心の演奏であった。
前川は、その目からこぼれ落ちる涙をこらえることができなかった。
条万学園の受験に失敗し、昨年のコンクールでは予選すら突破できず、それ以降は長いスランプから抜け出せなかった萌美である。
今日というこの日まで、萌美はどれほど苦しんできたことか。
萌美の近くで、それを目の当たりにしてきた前川は感慨にひたり、あふれる涙を止めることができない。
苦しみぬいた末の、才能の開花。音楽の神は、萌美を見捨ててはいなかった。
萌美は音楽の神に愛されていたがゆえに、試練を与えられたのではなかったか。
その試練をのり越えたとき、彼女の才能は目覚めの時を迎えるよう、神は考えていたのではないか。前川には、そのように思われてならない。
彼女は、教え子の成長に大きな感銘を受け、惜しみない拍手を送り続けるのだった。
萌美の演奏が終わったとたん、ルミが正也に叫ぶようにいった。
「やったね、お兄ちゃん!」
「そうか?」
素っ気なく返事をする正也は、決して本心を口には出さない。
──あいつ、よくがんばったな
自分の想いを隠そうとする正也だが、口もとが嬉しそうに緩んでいることに、正也本人は気づいていない。
それを見たルミは思う。
──素直じゃないなあ
だが、よけいなことをいうと正也の頭グリグリ攻撃が迫ってくるにちがいない。
ルミは黙ったまま、なにもいわないようにしようと決めるのだった。
萌美はステージから去っているが、まだ感動の余韻が覚めやらない。
「今年の優勝は、あの子に決まりではないか?」
そういう声が、口々にきこえてくる。誰もが萌美を賞賛している。
会場のざわめきが、なかなかおさまらないなかで、愕然とショックを受けている女の子がいた。
それは、このあと本選に挑む最後の演奏者、皆崎早弥香だ。彼女は動揺を隠せないほど、顔の色を失っている。
──こんな……一年の間に、これほど変わるものなのか!
萌美の演奏に、早弥香は、はかりしれないショックを受ける。
昨年の萌美は確かに調子が悪そうに思えたが、今回の萌美はあまりにもちがいすぎる。
まるで、別人が演奏しているとしか思えない。しかし演奏しているのは、まぎれもなく仲田萌美本人だ。
レベルがちがう。いや、ちがうどころではない。
昨年の全国大会でも、これほどの演奏ができる人は誰もいなかった。
優勝を阻まれる危機感が、早弥香を襲う。これはもう「自分の演奏をすれば良い」では済まされない。
自分のもてる力のすべてを、余すことなく出し尽くさなければ、萌美に勝つことはできない。
それが事実であることを、早弥香はひしひしと肌で感じるのだった。
早弥香以外にもうひとり、萌美の演奏に驚愕している女性がいた。
──ま、まさか……まさか、あの子が!
顔から血の気がひいて青くなっている彼女は、条万学園のピアノ科の教師、須藤照子だ。
なにを隠そう、萌美が条万学園を受験したときに、萌美に「不合格」の烙印を押したのは、他ならぬこの人なのである。
須藤は、音楽教師として十五年を超えるベテランである。
背は高くないが、身長のわりに横幅があり、見た目以上に貫禄がある。栗色の髪はウェーブのかかったひし形の髪型で、それは細いメガネと同様に、須藤のトレードマークとなっている。
彼女の名は、音楽関係者の間ではかなり有名であり、生徒の資質を見抜いて育てる手段には定評がある。
萌美が条万学園を受験したとき、須藤はこれから先をも見越した厳しい判断を、萌美に下すのだった。
──この子は、これ以上はのびない
萌美のピアノの実技試験で須藤が感じたのは、誰よりも勝ちたいと思う異常なまでの競争心。
それは、萌美の演奏に如実にあらわれる。
競争心を抱くことは、確かに大事なことだ。だが、行き過ぎた競争心は、他人を思いやることなく他の生徒たちと不協和音を生じ、予期せぬ問題を起こす心配がある。
また、そういう性格は簡単には修正できないことを、須藤はよく知っている。なぜなら、相手との競争にこだわる生徒にとってこの学園での日々は、他人との熾烈な競争の毎日となるからだ。
ゆえに、萌美には「不合格」の判断を下した須藤だった。だが、いま目の前で演奏している萌美からは、競争心など微塵も感じられない。
それどころか、萌美の演奏からは、将来プロとして活躍できるほどの資質が伝わってくる。
気を失いそうになるほどのショックが、須藤の全身を突き抜ける。
──あのときのわたしの判断は、間違っていたのか?
須藤は、教師としてのプライドをズタズタにひき裂かれる自分を思う。
しかし、当時の須藤の判断が間違いであったとは、誰もいいきれないであろう。
萌美がルミと出会い、正也と遭遇することがなければ、萌美は己の才能を眠らせたまま、それを開花できずに終わっていたかもしれない。
萌美の通う閃葉高校に、偶然、弓友兄妹が通学していた。
萌美は音楽室で偶然ルミと出会い、本屋の近くでルミが絡まれているのを偶然目にした。怖い想いをしながら、ルミを助けた萌美の後ろに、偶然にも正也がいた。
現在の萌美があるのは、単にそういう偶然が重なっただけといっても、おかしくはない。
いずれにせよ、いまの須藤には、萌美の演奏を黙って聴くことしかできないのだった。
萌美の演奏が終了したところで正也は帰ろうと思い、座席から立ち上がる。
「さて、と」
すると、ルミが正也をひき止めるように言葉をかけた。
「お兄ちゃん、次の人も上手だよ」
「次の人?」
正也は、ルミが持っているプログラムを手にとり、目をとおす。
当然ながら、正也は最後の演奏者である皆崎早弥香を知らない。
ルミが簡単に説明する。
「去年、このコンクールで優勝した人なんだって」
「ふーん」
正也は、まったく興味がなさそうに返事をする。しかし正也は、ルミの音楽における感性を疑うことはなかった。
──まあ、これで最後だからな
そう思った正也は、早弥香の演奏を聴くために、ふたたび座席に腰をおろす。
──しかし、仲田の演奏のあとでは、かなりやりにくいだろうなあ
同じことを考えているのは、正也だけではなかった。会場の誰もが、早弥香を気の毒に思っている。
昨年の優勝者であるとはいえ、とても平常心で演奏に挑めるような心理状態ではないだろう。
ちょっとかわいそうな気もするが、観客たちにはどうしようもない。
その早弥香が、静かな足どりでステージに登場する。