本選開始
コンクールの予選から、一週間が過ぎた。
よく晴れた日曜日となった今日は、コンクールの本選が行われる日である。
本選開始時刻は、午後一時三〇分となっている。
弓友家では、ルミがその時刻に間に合うように、会場に向かう準備を整えている。
知らないうちに、正也がいなくなっている。母親の小百合に訊くと、正也は遅い朝食をすませると、どこかへ出かけたという。
「もう。いっしょに仲田先輩の応援に来ればいいのにっ」
ルミはブツブツいいながら玄関で靴を履いたあと、自宅を出てコンクールの会場に向かうのだった。
コンクールの会場は、本選開始時刻の三〇分前に開館となる。その時刻になると観客たちが次々に会場に入ってくる。
本選に挑む演奏者は、全部で七人。萌美は六番目であり、最後の七番目の演奏者は早弥香である。
彼女たちは、会場が開館するまえに手続きを済ませ、控室に集まっている。
萌美も早弥香も、それとなくおたがいを意識するのだが、大事なのは自分の演奏をすることだと二人ともわかっている。
彼女たちの闘いは、彼女たちのなかで、すでにはじまっているのだ。
この日は、出場者の保護者はもとより、ピアノに携わる多くの人たちが会場に来ている。
萌美の講師である前川も、もちろんいる。前川は予選の日も同行したかったのだが、彼女の方で外せない用事があり、それはかなわなかった。
萌美が予選を通過したのを知ったときは、心底ホッとした彼女である。
予選がはじまるまでのある日を境に、萌美の演奏は大きく飛躍し、その演奏を直に聴いた前川は目を丸くした。
スランプから完全に脱出し、予選通過どころか優勝さえ狙えるのではないかと思うほど萌美の演奏は格段に進化している。
ただ、予選に挑むときに、平常心を保つことができるかどうかが気にかかった。
事実、予選当日の萌美は、ルミに会うまでは心も身体もカチカチに凍りつくように固まっていたのだ。
本選が開催される今日、会場の客席に座る前川は、萌美の優勝を祈るような想いで本選が開始されるのを待っている。
一方、早弥香の方も、中学校を卒業するまでピアノを教える講師がいて、いつも自宅に来てくれていた。
小谷という、四十歳を迎えたばかりの女性である。彼女は早弥香の演奏をはじめて聴いたとき、身体に戦慄が走るのを覚えた。「金のたまご」を手に入れた思いだった。
早弥香をいかに育てるべきか、小谷は大いに悩んだ。どういう指導が早弥香をもっとも上達させるか、頭が痛くなるほど考えに考えた。
だが、放っておいても勝手に上達してゆく早弥香を見て、小谷はよけいなアドバイスをするのを極力避けることにした。
つまり、「金のたまご」を育てるよりも、潰さないことに細心の注意をはらったのだ。結果的に、これがいまの早弥香をつくるベストな選択となった。
早弥香には、一流のプロの演奏を聴かせれば、それでほぼ十分だった。あとはわずかなアドバイスをするだけで、早弥香は飛躍的というほどではないが、己自身を確実に向上させていった。
早弥香が条万学園に進学するころには、もう小谷が教えることは、なにもなかった。彼女にとっては寂しいことであったが、早弥香が自分のもとから巣立ってゆく現実を受け入れる。
自分はなにもしていないと思っている小谷だが、彼女の名はいまもって皆崎早弥香を育てた名手として、あちこちに知られている。
今日は小谷も会場に足をはこび、早弥香の優勝を願っているのだった。
開館した会場に、ルミが到着する。演奏が開始されるまで、ちょっと時間に余裕がある。
その間に、萌美に会いに行こうとしたルミだったが、今回は会うことができなかった。
仕方なく観客席に向かい、空いている椅子に座ろうとしたときだった。
離れた場所に見覚えのある人物が座っているのを、ルミの目がとらえる。
「あれ?」
ルミは、その人のところまで近づいて行く。ルミが見つけた人物は見覚えがあるどころではなく、彼女のよく知っている人間だった。
思わず声をあげる。
「お兄ちゃん!」
「よう、来たか」
なんと、正也がこの会場にいるではないか。正也は、いままでコンクールに興味をもったことなど一度もない。コンクールがどうこう以前に、彼はピアノが大きらいなのだ。
そんな正也がピアノコンクールの会場に姿を見せるのは、ルミにすればめずらしいというより信じられないことである。
「お兄ちゃん、来てたの?」
「ああ」
「いっしょに来れば良かったのに」
「おまえといっしょにいると、うるさくてかなわん」
「もうっ」
「こらこら、牛が吠えるな」
「もうっ」
ふたたび吠えるルミだった。
二人が馬鹿な会話をしているうちに、本選の開始時刻がおとずれる。
本選では課題曲に指定がなく、出場者の自由に任せられる。
演奏時間は、二〇分。その時間を超えると、オーバーした時間の演奏は評価の対象にならず、演奏を中止させられる場合がある。
本選が開始され、出場者の演奏に集中する正也。だが、数名が曲を弾き終えたところでイヤになってくる。
まあ、どういう演奏を聴くことになるか予想はしていた正也である。その予想をまったく裏切らない結果の連続に、正也はうんざりしてくるのだった。
本選に出場する彼らは、この日のために一生懸命に技術を磨き、その技術の上に、必死になって感情をのせようとしている。
正也は、そういう努力が悪いとは思わない。コンクールで素晴らしい成績を目指すことにしても、同様に思う。それは彼らの自由であり、正也がとやかくいうことではない。
確かに悪いとは思わない正也だが、しかし彼らが求めているのは、あくまで己の演奏に対する評価である。
正也が求めるものは、演奏者が創り上げる純粋な音の世界だ。彼らと正也とでは、求めるものが根本的にちがうのだ。
正也は思う。
──自分のためだけに演奏する音楽の、なんとツマラナイものか
正也にとって、そういう音楽は耐えがたいものがある。ピアノがきらいな正也であれば、なおさらである。
本選が進むにつれ、正也はいいしれぬ苦痛を感じてくる。だんだんとふくらんでくる苦痛は、時間とともに重くのしかかってくるようだ。
──もう、限界だ
ちょうど演奏に区切りがついたとき、正也は会場を出るため席を立とうとする。
そのとき、ルミが正也に告げるのだった。
「お兄ちゃん、次は仲田先輩の番だよ」
ルミの声が、会場を出ようとする正也を思い止まらせる。
「次は、仲田か……」
そもそも、正也がここへ来たのは、萌美の演奏を聴くためだ。しかし、正也は萌美に対しても、まともに演奏できるのか疑問に思う。
これまで聴いてきた彼らの奏でるピアノにうんざりしている正也は、萌美にも期待ができないのだ。
正也は、萌美の演奏を聴いてダメだと思ったときは、すぐに会場を出て自宅に帰ろうと考える。
──俺、なんでこんな所にいるんだろ
正也が憂鬱になっていると、萌美がその姿をステージにあらわすのだった。