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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第二章 ピアノコンクール
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予選に挑む二人

 瞬く間に日々は過ぎ、ピアノコンクールの予選開催日がおとずれる。


 萌美は、すでに会場で自分の順番を待っている。様々な想いが萌美の心に渦巻き、焦りと不安をかき立たてる。

 昨年と同じ失敗を犯すことは、絶対に許されない。なんとしてでも、予選を突破しなければならない。


 時間が経つにつれ、昨年の不甲斐ない結果に終わった記憶が、萌美の心を支配してゆく。

 萌美は自分でも知らないうちに、心も身体も(しば)りあげられたように固くなる。そのことに、萌美自身は全然気づかないまま、時計の針は進んでゆく。


 自分の順番まで時間がある萌美は、トイレに行こうとする。そしてトイレで用を済ませた萌美だが、少しも緊張がとけない。

 自分がどういう状態かわからないまま、トイレから出ようと通路に足をふみ出したときだった。


「先輩!」


 萌美に向かって、大きな声が響く。まったく予期せぬ大声に、萌美は飛び上がりそうになるほど驚いた。


 声のする方をふり向くと、そこにはルミがいる。ルミの声はとても明るくて元気なのだが、心臓に悪いと思うことが、たまにある。


「ルミちゃん、来てくれたの?」


 そういう萌美に、ルミはニコニコしながら近づいてくる。

 まだ驚いたショックがおさまらず、心臓がバクバクしている萌美は、あの世に片足を突っ込んだように青ざめている。


 萌美の近くまできたルミが、不思議なものを見るような目をして萌美をながめた。


「先輩、けっこう地味な服装なんですね……。ちょっと、びっくりです」


 萌美の服装は、襟のある水色のボタンシャツに、紺のスカートである。ルミは、もっと派手なドレスのような服装で予選に挑むものだと思っていたのだ。

 意外そうな顔をしているルミに、萌美は微笑んで答える。


「まあ、みんな、だいたいこんな感じよ」


 萌美のいうとおりで、派手な服装で予選に出場する者は、一人もいない。これは予選に限らず、本選においても同様である。

 ルミにすれば、いまひとつ「コンクール」という感じがしない。


 それはともかく、萌美はもっとも気になることをルミにたずねた。


「正也先輩は、来てるのかしら?」

「いいえ、お兄ちゃんは来てません」


 即答で返された。


 ──そっか


 ルミの返答にがっかりした萌美だが、ルミが応援に来てくれたことは素直に嬉しい。

 ここで、ルミが言葉を続ける。


「お兄ちゃんから伝言があります」

「え?」

「『よけいなことは、なにも考えなくていいから、自分の感性を信じろ』って、先輩に伝えとけって」


 萌美は、胸が熱くなる。


 ──正也先輩……


 正也が、自分のことを想ってくれていた。萌美は、それだけで嬉しかった。


 正也からのアドバイスは、萌美の固くなった心と身体をときほぐす。正也が伝えるとおり、自分の感性を信じて演奏すれば、必ず予選を突破できるはずだと彼女は思う。

 正也を信じている萌美は、もはやなんの不安も焦りも感じない。


 萌美に自信がみなぎってくる。そんな彼女に、ルミがエールを送る。


「先輩、きょうはがんばってください!」

「ええ、がんばるわ」


 トイレの前で、大きな声で話す二人であった。



 萌美が会場へもどると、ちょうど自分のまえの出場者が演奏を終えるところだった。


 自分の順番がおとずれた萌美は、落ち着いてピアノの前に座る。まわりから見ても、リラックスしているのがわかる。


 予選の課題曲は、ショパンの数曲のエチュードが指定され、そのなかからニ曲を任意に選んで演奏に挑む。

 萌美は、正也の伝言を思い出す。


 ──自分の感性を信じろ


 萌美の指が鍵盤に触れる。ピアノから聴こえる音が、審査員たちの心に溶け込んでゆく。

 彼らの心に広がるのは、萌美が想う曲の世界。その演奏は、審査員たちを一様に驚かせた。


 ──こんな演奏をする子がいたとは……


 技術的なことはもとより、他の演奏者からは感じられないなにかが、萌美の演奏からは伝わってくる。

 それは、曲を聴く人たちの心が自然に受け入れ、感動の芽を呼び覚ますようだ。


 昨年の萌美を知っている審査員は、いまの萌美を見て、信じられないという顔をしている。どれほど成長したとしても、これ以上は無理だという限界を、萌美は余裕でのり越えている。


 ぶじに演奏を終えた萌美は、難なく予選を突破したのだった。



 予選をクリアし、ホッとした萌美は帰途に着こうとする。

 そこへ、ルミが駆けよってくる。


「先輩、おめでとうございますっ」

「ありがとう、ルミちゃんのおかげよ」


 萌美は本当にルミに感謝している。もし、ルミが来てくれなかったら、ふたたび昨年と同じ結果を招いていたかもしれない。


 萌美とならんで歩くルミは、笑顔の表情をちょっとひきしめ、萌美に問いかける。


「もう一人、上手な人がいましたね」

「ああ、皆崎さんね」


 皆崎早弥香(みなさきさやか)──彼女は、昨年のコンクール地区大会の優勝者である。



 予選の際、萌美の演奏に驚いていたのは、審査員だけではなかった。


「去年の彼女とは、全然ちがう」


 そう思うのは、二年連続でコンクール全国大会出場をめざす、皆崎早弥香だ。萌美よりひとつ年上の彼女は、昨年の全国大会でも三位に入賞している。


 早弥香は、今回の地区大会においても優勝候補の筆頭であり、全国大会でも優勝を狙えるものと評価が高い。

 彼女が所属するのは、私立条万(じょうばん)音楽学園。その学校は、萌美が受験に挑戦して合格できなかった学校である。


 萌美と同じ一五六センチの身長で、適度にぽっちゃりとした体つきの早弥香は、どこにでもいるふつうの女子高校生となんら変わりはない。

 ただ、マッシュの髪型が、みんなの目をひくようだ。早弥香の友だちが、かなり遠くからその頭を見ても「あ、早弥香だ!」と、すぐにわかるのだ。


 とてもおとなしい顔つきをした早弥香だが、音楽における才能は、学園の教師たちも絶賛するほどである。

 一年生のときから、ずば抜けた成績を誇る早弥香は、条万学園の期待の星であった。


 萌美も早弥香も、幼いころからいろいろなコンクールに出場しているが、二人がそこで顔を合わせることも少なくなかった。早弥香はそのたびに、ことごとく優勝をさらっていった。


 萌美にとって早弥香の存在は、自分が絶対に勝てない相手であり、また、絶対に勝ちたい相手であった。

 だが正也の伝言をきき入れ、予選をのり越えたいまの萌美は、もはや誰も、早弥香さえも気にかけてはない。


 今回、気にかけているのは早弥香の方であった。 彼女は以前から、萌美の眠れる才能を感じていたのである。


 早弥香はコンクールのたびに、萌美の演奏に注目していた。 

 萌美は他の演奏者にくらべると、技術的には確かに上手である。しかし、その演奏はどこか固い印象を受けた。

 これは、萌美の凝り固まった競争心が原因なのだが、萌美自身はまったく気づいていないのだった。それにより、萌美本来の実力が打ち消されているように思えた。


 早弥香からみれば、格下といえる萌美である。だが、早弥香はコンクールで萌美と顔を合わすたびに、萌美の演奏がなぜか気になるのだった。


 その萌美が、今回のコンクールにおいて自分を脅かす存在になることを、早弥香は肌で感じている。

 今回の予選で、萌美の演奏に驚かされた早弥香だが、自分の順番がくると彼女の思考は冷静にはたらきはじめる。


 ──わたしは、わたしの演奏をすれば良い


 早弥香は、瞬時にして平常心をとりもどす。いとも簡単にそういうことができるのは流石(さすが)である。


 予選の課題曲を演奏する早弥香は、非の打ち所がないというほど素晴らしい演奏をこなす。

 早弥香もまた、当然のように予選を突破したのだった。



 予選が終了し、自宅に帰った早弥香は自分の部屋に入ると、ふだん着に着替える。


 彼女は机の前に座ると、今日演奏した課題曲の楽譜をとりだす。そして、自分の演奏をふり返る。ミスはなかったか、曲のテンポはあれで良かったか、など。

 早弥香は、完璧といえる演奏であっても、そういうチェックや反省は絶対に欠かさない。


 才能豊かな早弥香であるが、己の才能に溺れることは、まったくなかった。さらに高みに昇ろうとする姿勢が、早弥香の演奏にますます磨きをかける。


 早弥香が自分の演奏をふり返っていると、コンコンッと、部屋のドアをノックする音がきこえた。

 早弥香が「はい」と返事をすると、妹の世梨香(せりか)が部屋のなかに入ってくる。


 世梨香は早弥香よりひとつ年下で、閃葉高校に通っている。萌美と同じく、ニ年生である。世梨香は早弥香と血をわけた本当の妹だが、他人がみれば「本当に姉妹なのか?」と思うほど、この姉妹は似ていない。


 身長一六〇センチに達する世梨香は、がっちりとした体格で、見るからに運動が得意そうだ。中学生時代から様々な運動部の助っ人をしている世梨香は、閃葉高校でも各クラブの助っ人に奔走している。


 伸ばすと邪魔になる髪は、バッサリとショートにしている。おとなしい感じの早弥香に対して、世梨香はとてもエネルギッシュだ。


 実は萌美と同じクラスなのだが、萌美は世梨香と早弥香が姉妹だとは思っていない。似たような名前とはいえ、それほど二人は、見た目も雰囲気も全然ちがうのである。


 ジャージ姿の世梨香が、すかさず姉のベッドにギシッと腰をおろす。


「お姉ちゃん、どうだった?」


 訊いているのは、もちろんコンクールの予選の結果だ。


「なんとか、クリアしたわ」


 早弥香は謙遜してそういうが、世梨香には姉が余裕で予選を通過したことがわかる。

 世梨香が、ふと思い出したようにいった。


「わたしの学校に、ピアノが上手な人が一人いるよ」


 早弥香は、それが誰なのかすぐにわかった。


 ──仲田さんね


 早弥香は、萌美の顔を思い浮かべる。今日の予選で印象にのこったのは、萌美の演奏だけだった。

 本選でもマークすべきは、おそらく彼女だけだろう。


「お姉ちゃんより上手かなって、思っちゃった」


 早弥香の頭の中で、きょうの萌美の演奏がよみがえる。予選では、群を抜いた素晴らしい出来栄えであるその演奏に、コンクールの連続地区優勝を目指す早弥香は驚異を覚える。


 思わず、顔つきが真剣になる。


「お姉ちゃん、がんばってね」


 世梨香がそういうと、早弥香は表情を崩しながら妹の声に答えた。


「ええ、がんばるわ」


 それをきいた世梨香は、安心したように自分の部屋にひき返して行った。


 だが──このときの会話が、のちに早弥香を苦しめる引金になろうとは、いったい誰が予想できたであろうか。

 早弥香は勘違いしているが、世梨香のいった「ピアノの上手な人」というのは、萌美のことではない。


 ひと月前、閃葉高校の放課後の音楽室で、扉の外から正也の演奏にじっと耳をかたむけていた女子生徒。

 その女子生徒は、他の誰でもない世梨香だったのだ。


 すなわち、世梨香のいう「ピアノの上手な人」というのは、萌美ではなく正也のことなのである。





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