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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第一章 才能を秘める天才
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正也の演奏

 翌日、萌美はいつになく明るい顔で、学校へ向かう。今日は、正也が自分のためにピアノを弾いてくれるのだ。


 ──どんな曲を演奏してくれるんだろう


 萌美は、授業中もそのことばかりを考えている。放課後になるのが待ちどおしい。


 やがて、すべての授業が終わり、待ちに待った放課後がおとずれる。

 萌美は、急くように音楽室に歩を進める。ルンルン気分である。音楽室にたどり着くと、ゆっくりと扉を開けてみる。しかし、室内には誰もいない。


 ──来るのが、はやすぎたかな?


 そう思った萌美は、何気なく後ろをふり向いた。


 すると


「よう、来たか」


 いつの間にか、正也が自分の背後に立っている。

 ビクッとなった萌美は、心臓が爆発しそうになるほど驚いた。まさか、自分のすぐ後ろに正也がいるとは思わなかった。


 胸をドキドキさせながら、顔が赤くなったり青くなったりしている萌美をよそに、正也は「入るぞ」といいながら、音楽室の扉を開けて足を進ませる。

 そして、萌美の視界の外にいたルミが、ちゃっかり正也のあとに続くのだった。


 萌美は、とにかく「自分も入らなきゃ」と思い、音楽室に足をふみ入れる。

 ピアノに向かう正也を見ていると、なんだか雰囲気が変わったように思う。これまで見てきた正也の背中と、いまピアノに向かっている正也の背中は、感じるものが異なるのだ。なにか、ものすごく頼りがいのある人間に思える。

 萌美は、キュンとうずく胸を両手でおさえた。


 ピアノの椅子に座る正也。その姿は、まるでプロのピアニストのようなオーラを放っている。

 萌美は、正也の指の動きが見えるところまで移動する。


 正也の指が鍵盤に触れる。ピアノから聴こえてくる曲は、ルミがここで弾いていた『インベンションとシンフォニア』だ。

 ピアノの練習曲というイメージが強いこの曲が、ルミのときと同様に、練習曲という感じには聴こえない。


 ──全然、ちがう……


 音のひとつひとつが、すごく洗練されているように聴こえる。ピアノの音に込められているものが、自分の場合とはまったく異なるのだ。

 萌美はそのことを痛感する。いや、痛感せずにはいられなかった。


 正也の奏でる音色は、萌美の心にスムーズに入ってゆく。

 萌美は、美しい音の流れのなかに漂う自分を想う。単なる練習曲だと思っていた曲が、これほどの感動を与えるものなのかと、驚かずにはいられない。


 しかし、正也はまだ指慣らしの状態で曲を演奏している。つまり、萌美に聴かせる曲は、この曲ではないのだ。


 指慣らしが終わり、正也は一息ついた。そして萌美の方に顔を向けると、これから演奏する曲名を彼女に告げるのだった。


「これから弾くのは」


 萌美は、正也の声にドキドキする。


「バッハの『イギリス組曲第2番プレリュード』だ」


 萌美の知らない曲である。正也の指が、ふたたび鍵盤に触れる。どんな曲だろうと思った萌美は、曲の冒頭からいきなり引き込まれた。


 聴いたことのない、とても不思議なリズムが、萌美の心をがっちりととらえる。連なる音色が、萌美の心によりそってくる。


 その音が、萌美の心に語りかけてくる。


『こっちへ、おいでよ』


 心に感じる声のままに、萌美は正也の奏でる音の世界に入って行くのだった。


 正也から生命を吹き込まれたひとつひとつの音が、正也が想う曲の世界を創りあげる。

 萌美は、イ短調という曲調が、いまの自分にピッタリのような気がする。曲が進むにつれ、長引く不調から抜け出せない自分と重なってゆく。


 だが、正也の創る世界は、光に満たされている。その世界の行き着く先は、決して絶望ではない。

 ほのかに感じられる希望が、萌美を包み込む。聴こえてくる音色が、萌美に伝える。


『ここは、君の求めていた世界だよ』


 萌美の目が涙で潤む。正也の演奏は、軽快なリズムが乱れることなく、萌美の心を駆けめぐる。

 プロの演奏のような安定感があり、とても聴きやすい。


 この曲は、ゆったりした曲ではなく、また、それほど明るいといえる曲でもない。しかし、その世界に浸る萌美は、まるで自分の居場所にいるように落ち着くのだった。


 正也の演奏を聴いている萌美は、自分と正也の根本的なちがいを感じはじめている。

 それは、技術的なことではない。技術以外のなにかであることはわかるのだが、ずっと奥にある核心に迫る部分には、触れることができない。


 正也の演奏を聴いて実感するのは、曲の世界と自分との一体感。

 ピアノから出てくる音は、すんなりと心の奥にまで浸透し、心の中で曲の世界が創られ、どこまでも広がってゆく。


 はじめて聴く曲なのに、どこか懐かしくて不思議な気分のする世界に、わが身をあずけたくなる。

 なんとも居心地が良く、いつまでも浸っていたいと思うのは、自分の求めるものが、ここに有るからだろう。


 そう、求めるものがここに。萌美の目から、涙がこぼれた。


 ──自分も、こんな演奏ができたなら……


 それは、ピアニストとして生きていこうとすれば、生涯をかけた目標となるかもしれない。


 正也が演奏をはじめてから、約五分半が過ぎる。正也の奏でる曲は、萌美にいままでにない感動を与えたのち、静かに幕を閉じるのだった。


 演奏を終えた正也は、萌美の方に顔を向ける。


「少しは参考になったか?」

「え? あ、はい」


 萌美は、いまだに曲の世界の余韻に浸っている。


 萌美の様子をじっと見ていた正也が、不意に口をひらいた。


「おまえは、まだなにもわかっていない」


 その言葉は、素晴らしい感動を与えてくれた演奏とは逆に、とても冷たく響いた。



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