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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第七章 はばたく若者たち
33/36

ペール・ギュント

 決勝での演奏も最後を迎え、萌美の順番がまわってくる。


 審査員たちが神妙な顔をしている。萌美の考えがまったく読めない。

 予選では素晴らしい演奏を聴かせ、決勝での演奏を大いに期待させたのだが、決勝に挑む彼女の選曲が理解できない。


 萌美が決勝で演奏するのは、グリーグの『ペール・ギュント第1組曲Op.45』。


 ペール・ギュントは、ヘンリック・イプセンの戯曲である。戯曲、つまり舞台作品だ。


 あらすじをざっと説明すると、ノルウェー人であるペール・ギュントは結婚式場で花嫁をさらい、一日で飽きると魔王の娘と結婚して魔王の国をわが物にしようと考えるが、魔王の出した条件がのめずトロルという怪物に追われるハメになる。


 あと一歩で捕まるというときに教会の鐘が鳴り、魔王の国は消え失せてペールは一命をとりとめる。


 そして別の女性ソルヴェイグと二人で山の小屋で暮らしていたが、魔王の娘が子どもを連れてあらわれてペールを脅し、ペールはソルヴェイグを小屋にのこして実家に帰った。


 ペールを心配していた母親は、帰ってきたペールを見て安心するが、彼女はほどなく寿命を迎える。


 その後、モロッコで怪しげな商売で儲けていたペールだが、だまされて全財産を失ってしまう。砂漠をさ迷っていた彼は、盗賊が隠した金や宝石を奪ってふたたび財を築く。


 今度は予言者としてふるまうペールは、当地の酋長の娘アニトラの踊りに魅入られる。ペールは彼女のいうままに宝石や貴金属を与え、またもや一文無しとなってしまう。


 月日は流れ、老人となったペールは故郷へ帰る。以前、ソルヴェイグと住んでいた小屋を見つけると、ソルヴェイグがそこでペールを待っていた。

 ペールは彼女の膝に顔をうずめ、ソルヴェイグが子守唄を歌うなかで、彼は静かに息をひきとったのだった。



 こういう物語なのだが、この作品を上演するにあたって作品が舞台向きではないと思ったイプセンは、音楽で作品の弱点をカバーしようと考えた。

 そこでイプセンは、グリーグに作曲を依頼する。最初は断ろうとしたグリーグだが、結局はひき受けることとなり、初演の舞台上演は成功をおさめた。


 グリーグが作った曲は、舞台作品の弱点を補えるほどの優れた曲であるといえるだろう。


 萌美が演奏するのは、第1組曲作品46だ。しかし、決勝で演奏する曲としてはいろいろと疑問に思う部分がある。


 まず、難易度においては予選の課題曲の方がずっと難しい。そういう曲を決勝での演奏に選ぶのは、前代未聞といえるだろう。

 演奏時間は、はやい人では十五分ほどで完奏してしまう。萌美はもう少し時間をかけて演奏することを考えているが、ほんの数分だけ長くなるにとどまるだろう。


 曲の構成は「朝」、「オーセの死」、「アニトラの踊り」、「山の魔王の宮殿にて」という曲順なのだが、この順番は舞台の進行に沿っているわけではない。


 これが大問題なのである。


 第1曲目の「朝」はモロッコでの朝であり、舞台の進行に合わせるならば「山の魔王の宮殿にて」の後にくる。

 第2曲の「オーセの死」は、ペールが魔王の娘に脅されて家に帰ってのことであり、モロッコへ行くのはこのあとである。したがって、この曲は第1曲「朝」の前に位置する。

 第3曲「アニトラの踊り」は「朝」の直後となり、第4曲の「山の魔王の宮殿にて」は組曲の冒頭にくるのだ。


 舞台進行を考えた場合、この組曲の構成はデタラメというほかはない。


 世界的にまったく演奏されないわけではなく、また、カラヤンが指揮するベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏など名盤も存在する。だが、プロの演奏がそれほど多いとは思えず知名度がいまひとつだと感じるのは、この曲構成が理由の一端となっているのかもしれない。


 舞台作品を知っている人がこの組曲を聴くと、曲から連想する物語が上手くつながらない。それは当然だろう。

 コンクールで演奏する場合、審査員が舞台作品に覚えがあると、演奏者にとってはどう考えても有利にはならず不利になる公算が高い。


 今大会で、決勝の演奏を審査する審査員たち十二名は、全員がこの戯曲を知っている。


 そして、組曲をとおしてピアノ単独で演奏されることも、なかなか見られないであろう。優勝を目指すには、冒険が過ぎる感じが否めない。


 決勝にのこった各国の代表者たちは「日本代表の彼女は、勝負を捨てたのか?」と個々に思い、ライバルが確実に一人減ったと安心していた。


 だが──それはとんでもない大間違いだった。


 萌美は勝負を捨ててなどいない。審査員も観客たちも、萌美が創る世界にまるで底なし沼に落ちたかのように引きずり込まれることになるのを、誰一人として予想できる者はいなかった。


 正也だけが萌美の意図を知っている。




 会場で名前を告げられた萌美はピアノのそばまでくると、観客たちに向かって一礼する。


 椅子に座ると、目を閉じる。感性の扉が静かに開かれ、眠りの魔法から覚めたように目を開けた萌美は、演奏に挑む。


 彼女の指は己の感性にしたがうように、最初の音を奏でた。




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