スペインの朝
スペイン──今日から世界大会の予選がはじまる。
萌美は清々しい朝を迎えた。観光シーズンと呼ぶにふさわしい、この時期のスペイン。よく晴れた朝の天気は、萌美にとって非常に重要だった。
六十名を余裕で超える出場者が、二つの会場で五日間にわたって予選の課題曲を奏でる。
決勝に進出するのは、そのなかの十二人だ。スペインに集う各国の演奏者たちが、決勝に進む十二人の枠を目指してしのぎを削る。
早弥香のいうとおり、個々のレベルは高かった。昨年、決勝に進んだ演奏者であっても、今大会では予選をクリアすることができなかったかもしれないというほどのレベルなのだ。
驚いたのは審査員たちである。今年の大会は小粒ぞろいの印象が否めないと評価した彼らだが、その認識を大いに改めねばならなかった。
ビデオを見ての評価と、実際に演奏を聴いての評価では、まったくちがう。
予選に挑む彼らは、確かに横一線にならぶような実力ではあるが、それは決してドングリの背比べではない。
各演奏者の実力が伯仲しているなか、審査員たちは頭を痛めながら決勝へ進む十二人を決定する。
その十二人のなかに、萌美の名前が挙がった。真っ先に決まったのは、他ならぬ彼女だった。
ぶじに予選を通過した萌美は、ホッとする。思いのほか、実力者がそろっていたという感じの予選だった。
決勝に進出する強者たちは、己が備える実力をすべて出しきる思いで優勝を狙ってくるだろう。
しかし萌美の場合、そういう彼らとはちょっとちがう。もちろん優勝が目標ではあるが、やってみたいことをどこまでやり遂げられるかが、彼女にとってはなによりも重要なことなのだ。
結果は、あとについてくる。
今大会における最大の問題はクリアした。予選を突破するということではなく、決勝で演奏する曲についての問題である。
ただでさえ、コンクールで演奏するには疑問のある曲なのだ。今朝の天気が晴れであることが、審査員や観客たちの抱くイメージを萌美の世界に塗り変えるための絶対条件だった。
──旅行シーズンで本当に良かった
運が彼女に味方している。この運をムダにはできない。
決勝当日──この日も好天にめぐまれた。決勝での演奏は、二日間にわたって行われる。
萌美の順番は、二日目の最後に演奏することとなっている。
決勝に進出するほどの演奏者の実力が、低いわけがない。昨年の早弥香やセレナのように飛び抜けた才能のある演奏者はいないが、今大会においては個々のレベルが想像以上に高い。いままでにないほど優勝争いが白熱する大会になりそうだ。
全体的に、ペダルの使い方が向上している。
ピアノにある三つのペダルは、それぞれに役割がある。音を長く持続させたり、また音を小さく響かせる、あるいは特定の音だけを伸ばすという効果がある。
国際的なコンクールでは、手の技術よりもこのペダルの操作が採点に影響することが多々あるのだ。
ペダルの使い方を極めるのは、それほど難しい。
審査員たちが注目する演奏者に、ロシア代表のセルゲイ・ペトロフがいる。
彼の演奏は、審査員たちを唸らせた。
セルゲイが奏でる曲は、バッハの『パルティータ第1番』。
ピアノで演奏するにあたり、バッハのパルティータでもっとも人気があると思われるのは、このパルティータ第1番であろう。
曲の構成は、プレルーディウム(プレリュード)、アルマンド、クーラント、サラバンド、メヌエットⅠ&Ⅱ、ジーグからなり、パルティータの中では演奏される機会も多い。
セルゲイの演奏がなぜ審査員たちの注目を集めたかというと、彼の奏でる音が審査員たちの予想に反した響きをもたらしたからである。
それは明らかにチェンバロを意識した演奏で、希有な天才グレン・グールドを彷彿とさせるような演奏だった。
ピアノにくらべて派手さを抑えたような音が、聴く者の耳に心地よい。要所ようしょに駆使されるアーティキュレーションが、音楽を楽しげに語らせる。
チェンバロの特徴を完全に把握した彼の演奏は、ピアノで演奏していることを意識させない。バッハの時代の音楽をそのまま再現する印象を、彼は審査員たちに与えたのである。
萌美も驚いた。ピアノという楽器の音をここまでチェンバロのそれに近づけるのは、自分には至難の技といってよい。いや、いまの己の実力では不可能だと彼女は認める。
審査員のみんなを唸らせるほどの演奏をするとなれば、なおさらだ。
決勝にのこった演奏者の半数が三十分を超える曲を披露するなかで、セルゲイの演奏は十六分ほどで終わる。
しかし、彼は間違いなく優勝候補の一人として名前が挙がってくるにちがいない。
ハンガリー代表のリリー・エルガスは、前評判どおりの実力を知らしめた。
彼女が演奏する曲は、ブラームスが作曲した『パガニーニの主題による変奏曲Op.35』だ。
この変奏曲は各14の変奏をまとめた2冊で構成されていて、合計28の変奏がある。主題は2冊とも「パガニーニの無伴奏ヴァイオリンのためのカプリッチョ第24番イ短調」から採用されている。
練習曲として構想されたこの曲は、国際的なコンクールでは予選で演奏されることが多い。超絶技巧が要求される各々の変奏曲は、未熟な腕では技術が追いつかない。また技術にとらわれていると、深みのある叙情的な表現がおろそかになる。
リリーが決勝で披露した演奏は、審査員たちを感心させた。技巧もさることながら叙情的な想いを曲に乗せ、しっかりと表現している。
他にも台湾代表のジャン・ハオジュ、カナダからはマーセル・ケリー、ドイツはフランツ・マイヤーと彼らの演奏もレベルが高く、審査員たちは顔をひきつらせるのだった。




