出発
昨年のこの時期に早弥香が立っていた駅のプラットホームに、今度は萌美が立っている。
萌美は、これから世界大会の会場となるスペインへ向かうところである。
萌美のとなりには、めかしこんだ彼女の母親がいる。萌美にピアノを教えてきた前川も、彼女たちに同行する。
スペインに出発する彼女たちを、ルミや世梨香、そして山坂教頭までもが見送りに来ていた。
残念ながら留学中の早弥香の姿はないが、今回は正也もみんなに混じっている。ルミに無理やりつれてこられたのだ。
前日、ルミに怒った顔で怒鳴られた。
「去年、ひとりでこっそり早弥香先輩の見送りに行ったの、知ってるんだからねっ」
正也は怪訝に思う。
──なんで知ってるんだよ
それは、早弥香がルミに直接話したからである。
正也は、みんなが激励の言葉を萌美に送るのを、ぬぼーっとした顔で見ている。ひたすら傍観している兄に、ルミが眉をよせながら催促する。
「ほら、お兄ちゃんも、仲田先輩になにかいったら?」
「別にいうことなんかないよ」
ドライな正也の返事にムッとなったルミは、正也のむこうずねを思いきり蹴りあげた。
「ぐおおっ」
思わずしゃがみこむ正也に、ルミが吠える。
「もうっ、ぶん殴るよ、お兄ちゃん!」
ルミは本気で怒っている。その様子を見ていた世梨香は腹をかかえて大笑いし、まわりの人たちも笑いの渦に巻き込まれた。
萌美だけが、なにが起きたのかと真っ青な顔になり、ハラハラしている。
観念した正也は顔を上げた。
──しかたないなあ
ゆっくりと立ち上がると、萌美の方へ顔を向けて口をひらいた。
「まえにもいったと思うが、おまえは自分の感性を信じろ」
昨年のコンクール地区予選の際、伝言としてルミに託した言葉である。萌美にとって、忘れることのできない大切な言葉だ。
「他の演奏者のことは気にしなくていい。おまえは自分の感性を信じれば、それで十分だ」
萌美の胸が、キュンとうずく。正也のアドバイスは、正也本人にすればいうまでもないことだろうが、萌美にとってはどれほど励みになることか。
自分がもっとも尊敬する人から送られる言葉に、あふれんばかりの自信がみなぎってくる。
正也が、さらに自分の考えを付け加える。
「それでダメなら、審査員の連中が馬鹿なのだ」
ルミが大きくうなずいた。
そこまでいってくれる正也に、萌美は自分の想いを再確認する。
──わたしは、やっぱりこの人が好き
発車時刻がせまり、萌美たち三人は電車にのり込む。萌美は、車内から見送りに来てくれたみんなを見た。自分は、本当にコンクールの世界大会へ挑んで行くという実感がわいてくる。
早弥香のあとに続く、日本を代表する演奏者として、それに恥じない演奏を成し遂げなければならない。
──わたしは、自分の感性を信じる
やがて発車のベルが鳴り、萌美たちをのせた電車が徐々に進む。感動しやすい性格の山坂教頭は、すでに涙を流している。
萌美の優勝を願うみんなをあとに、萌美は実力者が集うスペインへ翔び立って行くのだった。
萌美たちの見送りを済ませたみんなは、駅を出ると各自バラバラに別れて歩を進める。
正也とルミは、二人いっしょになって帰途につく。
不意に、ルミが正也を見上げる。
「仲田先輩、優勝できるよね?」
「わかりきったことを訊くなよ」
相変わらず、素っ気ない返事が返ってくる。
正也は、萌美が己の感性を信じて演奏に挑むならば、彼女の優勝は動かないだろうと思っている。
──なかなか、おもしろいことになりそうだ
萌美を過小評価した審査員たち、その評価を鵜呑みにした観客どもが、彼女が創りあげる世界に引きずり込まれたときにどうなるか。
正也の興味は、萌美が優勝することよりもそっちの方にある。
自宅に帰り着き、自分の部屋に入った正也は、いつものようにベッドに身体をあずける。
ステレオのリモコンを手にとり、スイッチを入れる。ステレオから、バッハの『ブランデンブルグ協奏曲』が流れてくる。
ふと、萌美の顔が浮かんでくる。
──明るくなったなあ、あいつ
正也は、萌美にはじめて会ったときのことを思い出す。そのときの彼女は顔色が悪く、表情に陰りがあり、かわいい顔をしているのにもったいないと思ったものだ。
いまの彼女とは雲泥の差がある。正也に出会って以来、萌美は心から音楽を楽しんでいるのだろう。
──おまえが創る曲の世界を、みんなに知らしめるといい
ブランデンブルグ協奏曲第4番で、リコーダーが明るい音色を奏でている。それが正也の無言のエールをのせて、世界大会に向かう萌美のもとに運んで行くようだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
恋愛要素はうすいのですが、青春物語として楽しんでもらえれば、作者として嬉しく思います。
読者の皆様に感謝です。




