萌美の決意
月日は流れ、正也はぶじに高校を卒業し、大学生になる。ヒロとユウも同じ大学に進学し、三人の付き合いは、いまもって変わらない。
早弥香はイタリアの音楽院に留学する。そこは正也の父親の正人が、バイオリンの講師として在籍している音楽院だ。
そして萌美は今年もコンクールに挑み、地区予選で優勝した彼女は全国大会に出場する。その全国大会で優勝し、念願の世界大会への切符を勝ち取ったのだった。
喜びに浸っていた萌美だが、悩みがないわけではなかった。世界大会の予選は課題曲が指定されているが、決勝での曲は演奏者が自由に決められる。その演奏に制限時間はない。
この決勝で演奏する曲を、萌美はなかなか決められずにいるのだ。どんな曲を演奏するか慎重に考えれば考えるほど、彼女の思考は泥沼にはまり込んでしまう。
萌美はそういう毎日を過ごしていた。
だが、いろいろと情報を集めていると、自然にたどり着くべきところにたどり着いた。
八月半ばに、イタリアに留学している早弥香に電話する。もちろん、世界大会に関することだ。今回の大会へ出場する各国演奏者たちの実力を、早弥香は知っているかもしれないと思ったのだ。
電話に出た彼女がいうに
「今年の大会のレベルは、けっこう高いわよ」
特に目立つほど才能がずば抜けた演奏者はいないようだが、全体的には昨年よりも個々のレベルが高いらしい。
留学先の音楽院で、早弥香とともに学ぶ他国の友人たちから彼女がきいた話だ。
国際電話は高くついたが、早弥香と話すことができて良かったと萌美は思う。
九月のはじめに発売されたピアノの月刊誌に、世界大会の特集が載っていたが、各国を代表する出場者は自分を含めてまったくといってよいほど期待されていないようだ。しかし萌美は、そういう記事よりも早弥香の情報を信じている。
今回、世界大会が行われるのはスペインだ。十月に行われるのだが、この時期のスペインは観光シーズンといえる気候で、雨は降りそうにない。
審査員の前評判、今年の大会はけっこうレベルが高いという早弥香の情報、スペインの気候……
萌美は、ふと思った。
──あの曲で挑めば
その曲を決勝で演奏しようとする者は、まずいないだろう。
ふつうに演奏したのでは、優勝はまったく勝ち取れないのが予想できる。この曲を選んだ時点で、優勝からは見放されたようなものだ。
審査員や観客たちが抱く曲のイメージを完全にぶち壊し、自分が創る世界に塗り変え、彼らをその世界に引き込まなければならない。
できるのか?
萌美は心の中で自問自答する。
──本当に、それが可能だろうか
技術的に難しい曲ではない。
──大丈夫、きっとやれる
大事なのは、自分の感性を信じることだ。
瞬く間に日々は過ぎ、十月になった。
十月最初の日曜日、町を歩く弓友兄妹とばったり出会った萌美は、彼らといっしょに歩きながら会話する。
ルミが、興味津々な想いで萌美にたずねた。
「世界大会の決勝に進んだときは、どんな曲を弾くんですか?」
萌美が答えると、正也が足を止めて驚いた顔を萌美に向ける。感情をなかなか表に出さない正也がそんな顔をするのは、かなりめずらしい。
「本気か?」
「はい」
萌美が決勝で演奏しようと決めている曲は、コンクールには向いていないと正也は思う。身内での演奏会ならともかく、優勝を狙うコンクールの場合、ふつうなら絶対に避けると思われる曲だ。
しかし、萌美にはある決意があった。
「やってみたいことがあるんです」
それをきいた正也の思考が、頭の中を駆けめぐる。
──やってみたいこと?
不意にピンときた。
──なるほどな
正也は、いつものぬぼーっとした表情にもどると、萌美から視線を離した。
「まあ、がんばれ」
素っ気なくそういうと、ふたたび足を進ませながら、思っていることを萌美に伝える。
「今回の大会はドングリの背比べと評価する審査員どもを、おまえが創る曲の世界へ引きずり込んで、思い知らせてやれ。おまえが小粒のドングリではなく、直径数メートルもある杉の大木だったとな」
萌美の目が点になる。
──あの記事、見たんだ……
正也の言葉から、それがわかった。
あの記事──十日ほどまえ、本屋に立ち寄った正也は音楽雑誌がならぶコーナーで、ふと目についたピアノの月刊誌を手に取った。
ふだんはピアノの本などまったく読まない正也だが、その本には萌美が出場するピアノコンクールの世界大会に関する記事が載せてあった。
審査員たちによる、出場者の前評判だ。
『今回、世界大会に出場する演奏者のビデオを見る限り、皆崎早弥香やセレナ・エレーヌという天才肌の演奏者がいない今大会は、ドングリの背比べといったところか』
『優勝候補をしいて挙げるなら、ハンガリー代表のリリー・エルガスが全出場者のなかでは一歩ぬきん出ているように思う。あとは横一線で彼女を追うような大会になりそうだ』
『全体的に、小粒ぞろいの印象は否めない』
正也は表情を変えずに思った。
──ほう
胸にふつふつとわき上がってくるのは、怒りの想いだ。
──いってくれるじゃないか
萌美に感性の扉を開くことの重要性を教えた正也にすれば、萌美は弟子のようなものだ。
そんな彼女のことをここまで過小評価されると、全然いい気はしない。だんだんと腹が立ってくる。
だが、正也は顔色は変えないまま、静かにその本を元の場所へ返したのだった。
正也たちと別れた萌美は、己の意思を再確認する。
──自分は間違っていない、あれでいい
先ほど正也から受けた言葉が、萌美の決意を固めさせる。
萌美が創る世界は、彼女の中で完成に近づきつつあるのだった。




