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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第五章 正也の秘密
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求めるもの

 須藤があらわれて、ガールズトークが中断された萌美たちだが、話題を変えるにはちょうど良かった。


 萌美も皆崎姉妹も、正也のことをもっと知りたいと思っているが、その本人がすぐ近くにいる。

 学校のちがう早弥香にとっては、こういう機会はめったにないだろう。


 早弥香は胸をドキドキさせながら、訊きたいことのひとつを正也にたずねてみる。


「弓友くんは、どこでピアノの練習をしているの?」


 正也は、ジュースを飲もうとした手を止めて答えた。


「いや、俺はピアノの練習は、やらないよ」


 信じられなかった。いくら才能のある天才正也でも、全然練習もせずに、閃葉高校で聴いた演奏ができるとは思えない。まったく予期せぬ正也の返答に、早弥香の口が止まる。

 そんな早弥香のあとに、萌美が以前から気になっていたことを正也に投げてみる。


「先輩は、なぜピアノがきらいなんですか?」


 正也はピアノがきらいだということを、皆崎姉妹も萌美からきいてはいるが、彼女たちも不思議に思っているところだ。

 萌美に返した正也の言葉は、ほんのひと言だった。


「秘密」


 実に素っ気ない。まともに相手をしてくれない正也に、萌美は続けて問いかける。


「先輩は、どうしてピアノが弾けることを秘密にしているんですか?」

「みんなが知る必要のないことだから」


 軽く、いなされる。萌美が撃沈すると、今度は世梨香が出てくる。

 真面目に答える気のない正也に憤慨(ふんがい)する世梨香は、眉をよせながら、もはやピアノとは全然関係のない質問を正也にぶつける。


「弓友先輩は、女子にモテたいとは思わないんですか?」


 ピアノが弾ける男子に心をよせる女子が、一人ぐらいはいるだろう。

 正也は、ぬぼーっとした顔で、あっさりと返した。


「別に」


 世梨香は「ハァ……」とため息をつくと、正也と目を合わさずに横を向いて、呆れたようにいい放った。


「だから先輩は、女子に人気がないんですよ」

「うるせえよっ」


 正也にすれば、大きなお世話である。ほっとけと思いながら、正也はジュースを口に運んだ。

 横に座るルミが、怪訝な顔を兄に向ける。


「お兄ちゃん、意地悪しないで、ちゃんと答えてあげなよ」

「………」

「みんな、お兄ちゃんが楽器を弾けることを知ってるんだし」


 確かに、そのとおりだ。


「お兄ちゃんが秘密にしていることだって、たいしたことじゃないんだし」


 他人にしてみれば、そうだろうなと正也は思う。だが正也にすれば、けっこうたいしたことなのだ。


「この先輩たちなら、信用できると思うよ」


 確かにな……と、正也もルミのいうことに共感する。萌美も早弥香も、そして世梨香も、約束をやぶる無神経なおしゃべりではなさそうだ。


「わかった」


 正也はそういってジュースを飲みほすと、空になったコップをテーブルに置いた。


 萌美と皆崎姉妹は、これから正也の謎が解き明かされるのかと思うと、胸がわくわくする。

 正也が、興味津々に目を輝かせている彼女たちを前に、自分のことを語りはじめる。


「俺が練習しているのは、ピアノじゃなくて、チェンバロなんだ」


 チェンバロとは、バロック時代の代表的な鍵盤楽器である。撥弦(はつげん)楽器に分類されるチェンバロは、音を出すシステムが打弦楽器のピアノとはちがい、その音色はチェンバロによって様々だ。


 ピアノは鍵盤のタッチにより、音の強弱を表現する楽器だが、チェンバロではそれができない。また、この楽器は、音の減衰がピアノにくらべて速い楽器でもある。

 時代が下るにつれ、その需要はピアノにとって代わられることになる。


 後の時代につくられたモダンチェンバロは、その制作技術や音色において、いささか批判を受けたようだ。モダンチェンバロは、バロック時代のチェンバロとはちがう楽器として認識されている。


 現在、世界で保管されている数少ないチェンバロは、歴史的にも大変貴重な存在である。


 正也の自宅には、バロック時代のチェンバロを再現して作られた、特注のヒストリカルチェンバロが置かれている。

 正也は、それで自分の腕を磨いているのだ。


 ただ、当時の時代を再現して作られたといっても、完璧に再現するには不都合な部分がある。そのあたりは改良が施され、例えば、音を出す部品として使っていた鳥の羽軸は、現在ではプラスチックで代用される。


 価格も桁違いであり、仮にピアノと同じ値段であったとしても、ふつうの人であればチェンバロよりもピアノを選ぶだろう。

 このチェンバロという楽器を自宅に所有する家庭は、非常にめずらしい。


 早弥香は、チェンバロの存在は授業で学んでいるのだが、その演奏を実際に聴いたことは、一度もなかった。

 萌美は、チェンバロという楽器の存在自体、知らなかった。


 萌美は正也に問いかける。


「先輩は、そのチェンバロという楽器をきわめることを……」

「いや、ちがう」

「え?」


 正也の予想外の返事に、彼女たちは驚いた。


 ──どういうこと?


 楽器の練習はすれど、上達を目的としてはいないというのか。

 ふと、世梨香が別のことを正也に投げてみる。


「弓友先輩が求めるものって、なんですか?」


 正也は、己をおおうベールを少しずつ剥がしてゆく。


「俺が求めるのは」


 その目を好奇心であふれさせている彼女たちは、静かに耳を澄ませながら、次に続く正也の言葉を待った。


「バッハやヴィヴァルディの時代の、バロック音楽の再現だよ」


 萌美たちは唖然となる。正也は、萌美や早弥香のように、自分の扱う楽器の演奏をきわめようとしているわけではないのだ。


 正也の求めるものは、もう少し突っ込んでいえば、バロックという時代背景をも考察した、当時の音楽の再現である。

 同じ音楽の世界に足をふみ入れても、正也は萌美たちとは全然ちがう道を歩んでいる。


 正也の話によると、近年、バロック時代の音楽においては、その時代に実演された演奏の研究が進められているという。現に、著名な演奏家たちが、バロック時代に存在したオリジナル楽器を使用して、当時の演奏の再現に取り組んでいる。

 そうした彼らの演奏は、世界でも高い評価を受けているのだ。


 正也にとって、バロック時代には存在しない「ピアノ」という楽器は、なんとも拭い去ることのできない違和感がある。


「ピアノでは、どうしてもしっくりこないんだ」


 正也の話をききながら、早弥香は思い出す。以前、閃葉高校の音楽室で、イギリス組曲を弾き終わったあとの、とても機嫌が悪そうな正也の様子を。

 あのときの正也の心は、苦い想いで埋めつくされていたのだ。


 ──この音は、ちがう……バッハの時代に、あの時代に産まれ、求められた音じゃないっ


 正也がそう思うのも、無理はなかった。


 ただ、バッハの時代には「フォルテピアノ」という、ピアノの前身といえる楽器が存在したのは事実だ。しかし、それが現在のピアノのように発展するのは、もっと後の時代になってからである。


 正也は「不可能だ!」というほど、ピアノの音を受け入れることができないのだった。


 話をきく彼女たちは、正也がピアノをきらいな理由がわかった気がした。

 それでも世梨香は、正也が楽器を演奏できるのを異常なまでに秘密にしていることが、ふに落ちない。


 自分たちの年代の男子であれば、やはり女子にモテたいとか、クラスの人気者になりたいと思うのが、ふつうではないか。

 ピアノがきらいなら、そのチェンバロという楽器で演奏すればよい。


 世梨香は、自分の考えることを正也に話す。


「……と、わたしは思うんですけどね。弓友先輩」


 正也の目に、怖いくらいの真剣さが宿る。


「楽器は、女子にモテるための、あるいはクラスの人気者になるための道具じゃない」


 正也は、きっぱりといいきった。


「俺は、そんな目的で楽器を弾こうとは思わない。たとえ、大きらいなピアノでもな」


 音楽に関しては、本当に真面目な男である。話をきいていると、惚れそうになる。


 正也のクラスの男子たちは、なにも知らずとも、正也のそういう部分を心のどこかで感じているのだろう。ゆえに、正也のまわりには人だかりができるのにちがいない。


 正也の美談に、ルミが口をはさんでくる。


「お兄ちゃんが自分のことを秘密にしている本当の理由は、ピアノに関わりたくないからなんだよね」


 正也は、目だけを動かしてルミを見る。


 ──よけいなことを……


 萌美と皆崎姉妹が、正也をじーっと見て、話すのを待っている。彼女たちの無言の圧力に耐えられない正也は、いつも思っていることを彼女たちに投げ放った。


「部外者が俺の秘密を知ると、俺はピアノを弾くはめになる気がするんだよ」


 正也だけにしかわからない、イヤな予感がするのだ。

 現に、彼の予感は的中した。自分の通う学校で、他校の生徒や教師もいるまえでピアノを弾くことになるとは、夢にも思わなかった正也である。


「君たちのおかげで、えらい目にあった」


 そんなことなど意に介さない世梨香が、正也にたずねる。


「弓友先輩は、バロック音楽が好きなんですか?」


 彼女の言葉に、正也の目が輝いた。


 バロック時代に生まれた曲は、二五〇年もの歳月を過ぎたいまも、世界中の人々から愛されている。

 現代においても、ヴィヴァルディの「バイオリン協奏曲四季」や、ルミが演奏したオルガンの曲「トッカータとフーガ」など、その名は衰えることがない。


 バロック音楽は、正也にとっては特別な音楽なのだ。


「バロック時代の音楽は、いまでも研究が続いているんだ」


 資料の研究はもちろん、当時に使用された楽器においても、研究者たちが保存と修復に力を注いでいる。

 それほどまでに、人々を魅了してやまないバロック時代の音楽を、正也は己自身で再現させ、その素晴らしさに触れてみたいのだ。


 ふだんは口数の少なそうな正也が、熱く語り続ける。萌美たちは、そんな正也を意外に思いながら、呆然とした眼差しを彼に向けるのだった。


 正也の話をきいている彼女たちは、バロック音楽の素晴らしさとともに、わかったことがもうひとつあった。


 萌美が、心の中でつぶやく。


 ──正也先輩は、音楽が恋人みたいな人……


 みんなにバロック音楽のことを話している正也からは、まるで自分の恋人を自慢しているような楽しさが伝わってくる。


 萌美も皆崎姉妹も、正也に憧れている。憧れだけでなく、彼女たちはそれ以上の想いを正也に強く抱いている。


 しかし彼女たちは、音楽が恋人のような正也に、自分の想いがとどくとは思えなかった。

 己の求めるものをどこまでも深く追求する正也にとって、男女の恋愛など二の次なのだろう。


 萌美がふたたび心の中で、寂しそうにつぶやいた。


 ──正也先輩に、わたしの入りこむ余地はない


 皆崎姉妹も、同じことを思った。はからずも、彼女たちは三人とも、正也が初恋の相手だった。


 初恋が(つい)えた悲しさが、彼女たちの顔に浮かび上がる。

 女心に(うと)い正也が、それに気づくことはなかった。



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