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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第五章 正也の秘密
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ルミの小宇宙

 不意に、離れた場所から「こんにちは」という女の子の元気な声が、柳井の耳にとどいた。柳井にはきき覚えのある声だった。

 彼女の視線は、自然にそちらへ移る。すると、須藤のふくよかな身体といっしょに、見たことのあるツインテールの頭が目にはいった。


 忘れられない記憶が、瞬時によみがえる。


 昨年の春、となりの町に音楽ホールが新しく建立される。それは、なかなか規模が大きく、建物内にはパイプオルガンが設置されている。

 こけら落としには演劇が催され、上々の評価を受けた。


 こけら落としの前日に、数人の関係者が集い、オルガンのチェックをかねた演奏が行われている。

 そのときの関係者の一人が柳井であり、同じく弓友小百合が呼ばれていた。


 小百合はすでに第一線を退いているとはいえ、オルガンを学んでいたことのある柳井にとっては、憧れを通りこした雲の上の存在だ。同じ場所にいっしょにいるというだけで、中学生のように胸が高鳴り、ドキドキする。


 この日、オルガンを演奏するのは小百合である。小百合は、一五〇センチほどの小柄な身体だが、彼女は自分よりも背のひくい娘を連れて来ていた。


 柳井がルミを見たのは、このときがはじめてだった。一四〇センチあるかないかというルミは、ただ母親についてきた子供にしか見えない。


 オルガンの点検が予定どおりに終わり、あとは総合的なチェックをかねた演奏を行うだけとなった。

 そのとき、ルミの大きな声がホールに響く。


「わたし、オルガン弾いてみたい!」


 小百合が困った顔をしていると、ホールの責任者である筒浦(つつうら)が、微笑みながら許可を与える。


「弓友さん、かまいませんよ。お嬢さんに、一曲演奏してもらいましょう」


 筒浦の言葉をきくなり、ルミは嬉々として、三段鍵盤のオルガンに駆けよって行く。この少女にまともな演奏ができると思っている人間は、小百合以外は誰もいない。


 演奏のまえに、ルミの頭に思い浮かんだ曲は、バッハの「小フーガ」だ。オルガン名曲集には、必ずといってよいほどその名を連ねる、世界に知られた名曲だ。


 ルミの手が鍵盤にかざされたとき、筒浦の部下である女性が、ボソッと彼に話す。


「オルガンの曲というと、やっぱり『トッカータとフーガ』が有名ですよね」


 その声が、ルミの耳にもとどいた。ルミの思考が瞬時に切り替わる。

 トッカータとフーガ・ニ短調──数あるオルガンの曲のなかでも、多くの人が真っ先に思いつくのが、この曲だろう。バッハが作曲した、名曲中の名曲である。


 ルミの指が、いきなりオルガンの鍵盤を叩き、唐突に演奏がはじまる。

 あまりにも有名な下降のパッセージが、ホールに厳かに響きわたる。その瞬間、全員が度肝を抜かれて息をのんだ。


 古来、オルガンは教会に建造されることが多いが、崇高な神聖さを感じさせるオルガンの響きは、まさに教会にふさわしい。


 荘厳なる音色は、ルミには全然似合いそうにない。しかし、その音色はルミの才能を確実に知らしめ、ひとつの宇宙を産み落とす。

 目覚めのときを待っていた宇宙は、ルミの演奏によって産声をあげる。


 トッカータの無秩序に思える即興的な音は、しっかりとしたリズムを保ち、ときおり駆使するアーティキュレーションがルミの非凡さを訴える。


 みんなの心をルミの世界へ誘うのは、躍動感のあるフーガ。元気なルミを象徴するような、とてもエネルギッシュなフーガだ。


 ルミが奏でるオルガンの音色は、みんなの心に飛翔感を与え、天使をも呼び込んでくる。

 天使が舞い降りると思うほどに、神々しく美しい音の響きは、オルガンならではのものだ。


 このオルガンという楽器は、他の鍵盤楽器にくらべると、その機械的構造がまったくちがう。

 しばしば「楽器の女王」と称されるオルガンは、管楽器に分類される。


 音の出る仕組みを簡単に説明すると、鍵盤を押したときに、その鍵に対応するパイプに空気が送り込まれることによって音を出す。

 音の大きさは一定であり、ピアノのように音の強弱を存分に生かした演奏はできない。


 多段鍵盤が一般的であり、オルガンによっては五段以上の鍵盤を有するものも存在する。


 同じ音階の音でも、音色のちがうパイプが鍵盤に対応するようにそろえられ、ストップと呼ばれる装置でそのパイプ群を切り替えることにより、音色を変化させる。

 そのストップの操作は、演奏中に助手が行うこともよくある。


 パイプの数はオルガンによって様々だが、数千本ものパイプは、実に多彩な音を響かせる。

 倍音を重ねることも可能であり、ストップによってコーラスされた音色は、まさに芸術の極みを求めるかのようだ。


 オルガンと他鍵盤楽器との大きなちがいに、足鍵盤がある。オルガンのペダルは、低音を担当するれっきとした鍵盤である。

 オルガンにより数が異なるが、現在は三十あるいは三十ニの足鍵盤が標準といえよう。


 また、一般に(例外はあるが)オルガンはその構造上、建物に固定されていて移動することができない。オルガンという楽器は、それほど規模の大きな楽器なのである。


 偉大なる楽器の女王は、己の威厳を知らしめるように、ルミの前に君臨する。

 手だけではなく足も楽譜どおりに駆使して演奏しなければならないため、他の鍵盤楽器とはずいぶんと勝手がちがう。

 しかし、ルミは女王の存在に臆することなく、のびのびと演奏を続ける。


 聴いていると、まるでルミが、彼女の世界で戯れる天使たちに「いっしょに遊ぼう」と話しかけているようだ。

 いまのルミには、やはり足鍵盤を扱うには厳しい部分があるようで、そういうところは無理をしない。だが、曲を聴く者はなんの違和感も覚えず、とても素直に聴こえてくる。


 ルミから産まれた小宇宙は、あちこちに散らばった星々を集めて、ひとつの星雲を形作る。その動きは規則正しく、乱れがない。

 それは、ルミの演奏の完成度をイメージさせるようだ。


 フーガの後半に入っても疲れを感じさせないルミの演奏は、星雲をまぶしいほどに(きら)めかせている。

 フーガを突き抜けた先にルミを待っているのは、トッカータ。即興的な旋律を、ルミは気負うことなく華麗に弾きこなす。


 柳井は、感嘆せずにはいらない。


 ──なんという集中力!


 降臨した音楽の神が、ここまでがんばったルミを褒めたたえる。


 小柄な少女が創りあげた小宇宙は、その輝きを衰えさせることのないまま、みんなの前からゆっくりと遠ざかってゆく。

 それが見えなくなったとき、ルミの演奏は静かな眠りに入るのだった。



 柳井にとっては、忘れられない出来事である。過去の記憶から、われにかえった柳井は、視線をルミから正也に移した。


 ルミが、あれほどの驚くべき演奏を聴かせるのだ。彼女の兄である正也は、どれほど素晴らしい演奏を奏でるのだろう。


 しばらくの間、正也から目を離すことができない柳井だった。



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