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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第一章 才能を秘める天才
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仲田萌美

 正也たちの通う学校に向かって、ひとりの女子生徒が歩いている。


 やや細身の彼女は暗い表情でうつむき、その足どりは元気がない。

 ショートボブの髪が似合う彼女の名前は、仲田萌美(なかだもえみ)。萌美は閃葉高校の二年生である。


 彼女は、あることで人知れず悩んでいた。


 ──どうしよう。あと一ヶ月ちょっとしかない


 あと一ヶ月ちょっと、すなわち五月の半ば過ぎに、ピアノコンクールの地区大会が開催されるのだ。

 萌美はそのコンクールに応募しているのだが、彼女はスランプに陥っているのである。


 萌美は、本当は閃葉高校ではなく音楽学校へ進学したかった。ピアノ科の受験に挑んだ萌美は、実技試験も自信をもってこなし、絶対に合格できると確信していた。

 しかし、その結果は、夢も希望もこなごなに打ち砕かれた悲惨なものだった。合格発表の夜、萌美は一晩中、涙で枕をぬらしたのだった。


 萌美には、週に数回、ピアノのレッスンのために自宅にきてくれる中年の女性講師がいる。

 前川というその講師は、当時の萌美をずいぶん(なぐさ)めたのたが、萌美にはどんな言葉も通じなかった。


 閃葉高校へ入学した萌美は、昨年の同じ時期に開催されたピアノコンクールに挑んだ。ところが、彼女を待っていたのは散々たる結果だった。

 萌美はコンクールの予選すら突破できずに、終わったのである。


 ──自分を不合格にした学校を、見返してやりたい!


 予選がはじまるまえから、そういう想いに必要以上にとらわれていた彼女は、身体に余分な力が入っていることに気づかない。

 予選がはじまると、自分でも信じられないほどぎごちない演奏に終始してしまう。


 七歳からピアノを学んでいる萌美は、これまでにいろいろなコンクールに出場し、賞をとったこともある。

 だが、昨年のコンクールの予選は、いままで演奏してきたなかでは最悪の出来だった。このときの演奏ほど不甲斐ない演奏はないと自分でも思うほど、まったく話にならない有り様だった。

 まるで、ピアノに見捨てられたような気がした。


 それ以降、萌美は調子を崩し、非常に長いスランプから抜け出せずにいるのである。


 萌美は学校へ行っても、コンクールのことで頭がいっぱいになる。授業が全然、身に入らない日々が続く。

 学校が終わり、自宅に帰ってピアノを弾こうとしても、指が思うように動かない。最近は、ピアノを弾くことが辛く感じる。


 ピアノがきらいになりそうだ。こんな調子では、とても一ヶ月後に迫るコンクールの予選を、突破できそうにない。

 ピアノ講師の前川も心配し、なんとかして萌美を立ち直らせたいのだが、どうすれば良いのかわからない。

 萌美は萌美で、どうにかして自分本来の調子をとりもどしたいと思っている。


 閃葉高校にもピアノを弾く生徒はいるが、コンクールで勝つことを目標にするほど力を入れている生徒はいない。

 つまり、校内では変に意識する相手はいないのだ。その点、精神的にこれ以上よけいなことにとらわれないですむのは、不幸中のさいわいといえよう。


 だからこそ、一刻もはやくいつもの自分に立ち返り、絶対にコンクールの予選までに間に合わせたい。

 だが、まったく突破口が見えない。萌美は大いに悩んでいた。



 ある日、萌美は学校の授業が終わると、音楽室をのぞいてみようと思った。

 なぜそう思うのか自分でもわからないが、萌美は導かれるように音楽室に足を進める。音楽室の近くにくると、誰かがピアノを弾いているのがきこえてくる。


 ──だれ?


 萌美は、音楽室の扉を静かに開けてみる。ピアノの位置の関係で、演奏している生徒の顔は見えない。後ろ姿しかわからないが、ずいぶんと小柄な女の子のようだ。

 ピアノを弾く彼女は、髪をツインテールにしている。


 萌美は「一年生かな?」と思いながら、ピアノから流れてくる曲に耳を澄ます。

 きき覚えのある曲だ。萌美もよく練習していた、バッハの『インベンションとシンフォニア』だ。一般に、ピアノの練習曲というイメージが強い曲である。


 ところが


「!」


 萌美は驚いた。女の子が奏でる曲は、確かに『インベンションとシンフォニア』なのだが、練習曲という感じには聴こえない。

 まるで、コンサートのメインの曲として観客に聴かせるような、完成度の高い芸術作品を思わせる。


 ──じょ、上手っ


 萌美は、女の子の演奏に大きなショックを受ける。聴こえてくるピアノの音色は、なんの淀みもなく、澄みわたる川を思わせるほどに美しい。

 三声部を奏でるシンフォニアは難度が高くなってくるのだが、演奏している少女は当たり前のように弾きこなす。


 萌美は、うつむきながら考える。


 ──この子も、コンクールに出場するのだろうか


 そんなことを思っていると、ピアノの音が急に途切れた。


 ──ん?


 ふと顔を上げた萌美は、ビクッとする。さっきまで演奏していた女の子が、萌美の方をじっと見ているのだ。


「あ……」


 萌美は、なにか話そうと思うのだが、すぐには言葉が出てこない。

 すると、さっきまでピアノを弾いていた女の子の方が、先に話しかけてきた。


「ピアノ、弾くんですか?」

「え、ええ、ちょっとね」


 萌美がそう答えると、ツインテールの少女は好奇心を顔いっぱいにあらわしながら、元気な声を響かせる。


「聴いてみたい!」


 萌美はあわてて言葉を返す。


「きょ、今日はちょっと用事があるから」


 それは嘘だが、いまはとてもピアノを弾く気にはなれない。萌美は自分の想いをごまかすように、女の子と話そうとする。


「ピアノ、上手ね」


 萌美が、どうにか話をつなぐと、女の子から予想もしない言葉が返ってきた。


「お兄ちゃんの方が、上手ですよ」


 この少女はひとりっ子だと勝手に思っていた萌美は、目を丸くしながら彼女を見つめる。


 ──お兄ちゃん?


 この子には、兄がいるのか? 大学生だろうか。それとも、年若くしてピアノの講師でもしているのだろうか。

 萌美が頭の中でいろいろと考えていると、女の子がひとり言のようにつぶやいた。


「お兄ちゃん、もう帰ったかな」

「え?」

「お兄ちゃん、学校へ行くときはいっしょだけど、帰りは別々なんですよ」


 萌美の目が点になる。


 ──まさか……


 萌美は、女の子におそるおそる訊いてみる。


「お兄ちゃんて、ひょっとしてこの学校の」

「三年生です」

「──っ!」


 萌美は愕然とする。一年間この学校に通っているが、コンクールを目標にするほどピアノを弾ける生徒が自分以外にいるとは思っていなかった。

 しかし、それはちがうということを、萌美はたったいま知らされる。


 ここで自分と話をしている少女は、明らかに自分より演奏が上手である。さらに、この少女より上手だという兄が、この学校に通っている。

 不思議でたまらない。女の子の演奏を聴く限り、どう考えても音楽学校に進路を選ぶのが当然ではないか。


 ──音楽学校に進学せずに、なぜ普通科のこの学校に?


 ピアノに(たずさ)わる人であれば、誰もがそう思うだろう。


 ──この子の、お兄さんのことをもっと知りたい


 少女の兄に興味をもった萌美は、彼女にたずねてみる。


「名前は、なんていうの?」

「わたし、弓友ルミっていいます」


 もろに肩すかしをくらった。


 ──いや、あなたじゃなくて


 萌美は一瞬そう思ったが、まずは自分が名のることが先だと思いなおした。


「わたしは仲田萌美、二年生よ」


 その後、正也の名前をルミからきき出した萌美は、ますますルミに問いただす。


「クラスは何組かな」

「わたし、B組です」

「いや、ちが……お兄さんのクラス、わかるかな?」

「んーと、わかんない」


 やがて萌美は、自分がもっとも気にしていることに触れてみた。


「あなたたち、今度のコンクールに出場するの?」

「コンクール?」

「来月に行われるコンクールよ。けっこう、有名だけど」

「全然、知りません」


 萌美は唖然となる。そのコンクールは、まず五月後半に各地区で予選が行われ、続いて本選が開始される。

 各地区で優勝した演奏者たちは、七月に行われる全国大会へ出場することになる。

 さらに、その全国大会で優勝すれば、今度は世界で行われる大会の出場権を獲得するのだ。


 コンクールの出場資格に、二十歳までという年齢制限があるのだが、果ては世界大会にまで進むという、非常に規模の大きい有名なコンクールである。

 ふつう、ルミほどの実力があれば、誰もが出場したいと思うだろう。しかし、そのルミはコンクールのことを、まったく知らないという。


 ルミのキョトンとした顔は、嘘をいっている顔ではないと萌美は思った。また、ルミの兄である正也も、コンクールのことは知らないのではないか。

 現に、昨年のコンクールの予選のとき、正也はエントリーしていなかったはずだ。


 ──なんで?


 萌美は、信じられないことの連続に驚くばかりだ。


 呆然と突っ立っている萌美に、ルミが話しかける。


「先輩」

「え?」

「用事はいいんですか?」


 痛いところをつかれた萌美はギクッとなり、顔をひきつらせる。あわてふためく萌美は、オタオタしながらルミに答えた。


「そ、そうだった、わ、忘れてた」


 萌美はルミに「そろそろ帰るから」と告げ、音楽室をあとにする。

 自宅へ足を向ける彼女は「弓友正也」の名前を忘れないように、その名をしっかりと胸に刻みながら、帰途についた。


「弓友正也。どんな先輩だろう」


 萌美は、ひたすら己の想像力をはたらかせる。


 ──誰よりもピアノが上手で、頭が良くて、わからないところは優しく教えてくれて、顔は……


 萌美の頭の中で、あっという間に自分好みの正也ができあがる。萌美は、現実の正也をまったく知らないままに、自分の思い描く正也に憧れ、恋心まで抱きはじめるのだった。




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