演奏のあとで
正也はピアノの椅子から立ち上がると、無言のまま、スタスタと音楽室の扉に足を進める。
早弥香は正也と話がしたいのだが、身体中から憤りの想いを発散しているような正也に、声をかけるのを躊躇する。
このままでは、正也となにも話せずに終わってしまいそうだ。
扉の前まできた正也は、扉を開けて音楽室を出ようとする。
早弥香は勇気をふりしぼり、正也に声をかける。
「あ、あの……」
正也がその声に反応し、彼女の方をふり向いた。
「話があるなら、仲田と話してくれ。仲田は、君の力になれると思う」
正也は早弥香にその言葉をのこすと、音楽室から出て行ってしまった。
「お兄ちゃん、待ってよう」
ルミが兄のあとを追いかける。
正也と話すことがかなわず、音楽室にとりのこされた早弥香は困惑する。正也に「仲田と話してくれ」といわれたものの、なにを話せばいいのか戸惑う。
萌美はコンクールで優勝を争うほどのライバルなのだ。訊かれても答えたくないことが、いっぱいあるのではないか。
しかし、黙ったままいるのも妙に気まずい。
──なにか話さなきゃ
そう思えば思うほど、焦ってくる。萌美を相手にどんなことを話そうか、必死で考えるほどわからなくなってくる早弥香である。
早弥香は、とりあえず軽い感じで萌美に問いかけた。
「仲田さんは、弓友くんの演奏を毎日聴いているの?」
「いえ、今日で二回目です」
萌美のこの返事に、早弥香はもちろん、となりに立っている須藤も目が点になる。
──ま、毎日、彼の演奏を聴いていたのではなかったのか?
あまりにも予想外な萌美の返答に、早弥香も須藤も唖然となり、言葉が出てこない。
そういう状況のなかで、不意に萌美が正也との出会いについて語りはじめる。
萌美の話に耳をかたむけている早弥香は、胸が締めつけられるほど切なくなってくる。苦しんでいたのは、自分だけではなかった。萌美も苦しんでいたのだ。
いまの早弥香には、その当時の萌美の苦しみが、わかるような気がする。
萌美の話は、正也の逆説的な理論に進んでゆく。話をきくみんなは、正也の音楽に対する考え方に、驚かずにはいられない。
みんなを驚嘆させる正也独特の音楽論理は、早弥香にとって新しい発見であった。
──音楽を想う、感じる、楽しむという心が、技術を磨く……
早弥香の心の奥にある「感性の扉」が、いま、静かに開かれようとしている。
早弥香は、萌美が包み隠さずなんでも話してくれたことを、とてもありがたく思って感謝する。
だが、同時に理解しかねることもあった。
──なぜ、そんな大事なことを、わたしたちに話してくれるのだろう?
萌美がみんなに話したことは、いわば、萌美の演奏の秘訣といってよい。
早弥香は、もし自分が萌美と同じ立場にあれば、己の武器といえる演奏の秘訣は、絶対に他人には教えないと思うのだ。
早弥香は自分の抱く疑問について、萌美に触れてみる。
「仲田さん」
「はい」
「そういう大事なことを、わたしたちに話してもいいの?」
すると萌美は、当然であるかのように、あっさりといいきった。
「さっきも話したけど、正也先輩のいうように、音楽は競うものじゃないですから」
「………」
早弥香は、萌美の言葉に己の醜さを知らされた思いだった。自分よりも萌美の方が、音楽を純粋に理解していると思った。
そして、自分はなんて卑屈な想いを抱いていたのだろうと、情けないほどに己れを恥じるのだった。
この日以降、萌美と皆崎姉妹は、無二の親友となる。
その後の話をすれば、早弥香が立ち直るのに時間はかからなかった。早弥香は、数日で自分本来の調子をとりもどし、完全に復活する。
ベストの状態で挑んだ全国大会では、まったく危なげなく余裕で優勝を勝ちとるのだった。
みんなより先に音楽室を出た正也は、真っ直ぐに自宅に向かって歩いていた。
正也の横に、ルミがならんでいる。ルミが兄の顔をのぞき見る。
機嫌が悪そうだ。
ちょっと話しづらい雰囲気ではあるが、ルミは正也におそるおそるたずねてみる。
「やっぱり、ピアノじゃダメ?」
「うん」
正也は首を縦にふる。ルミだけが、その理由を知っている。
ルミは、正也に別の質問を投げかける。
「なぜ、今度もまたイギリス組曲だったの?」
正也は前を見たまま、その問いに答えようと口をひらいた。
「イギリス組曲は、ある高貴なイギリス人のために作られた曲なんだが」
「知ってるよ」
ルミが言葉をはさむ。一応、正也のいったことは一般的に知られる通例ではあるが、これには諸説があり、真偽のほどはわからない。
正也は、ルミの方をふり向いた。
「彼女たちに、ぴったりだと思わないか?」
その言葉に、ルミは自分の兄をまじまじと見る。兄の感性の鋭さを、目の当たりにした気がする。
──なるほど
イギリス組曲は、確かに萌美や早弥香にぴったりという感じだ。
──ある高貴なイギリス人って、女の人だったのかな?
そういう疑問がルミの頭をよぎるが、正也にきいたところで、おそらく知らないだろう。
──ま、いいか
ピアノがきらいだという兄が弾くピアノは、ルミに楽しいひとときを与えてくれたのだ。
久しぶりに、二人ならんで下校する弓友兄妹であった。
須藤たち条万学園の一行も、音楽室を出る。彼らは、職員室で山坂教頭らに別れのあいさつをすると、タクシーに乗車して帰途につく。
その車のなかで、須藤の胸のうちに様々な疑問が浮かんでくる。
正也は、才能と実力をかね備えた逸材であることは確かだ。それゆえ、非常に不可解なことがある。
──あれほどの子が、なぜ音楽学校へ行かずに、あんな学校へ……
須藤は、閃葉高校に対してたいへん失礼なことを思いながら、正也の進路に疑問を抱かずにはいられない。
また彼女は、演奏を終えた直後の、正也の様子が気になっていた。
正也の演奏は、素晴らしいとしかいい様がないのだが、正也自身は明らかに自分の演奏に満足してはいない。
──なにが不満なのだろう?
正也の実力は、まだまだ、あんなものではないというのか。不満がのこるくらい、自分の実力を発揮できなかったというのか。
そうだとすると、須藤は腹が立ってくる。これほど才能に差がありすぎると、自分の生徒たちが、あまりにもかわいそうだ。
だが、妙にちがうような気がする。正也が不満に思っているのは、どんなにがんばっても、どうすることもできない部分があるからではないか。
──それが、彼の才能や努力に関係のないものだとすれば……
須藤も流石である。彼女の推理力も、なかなかのものだ。
しかし須藤の推測も、ここまでだった。もっと奥にある謎の部分に手がとどくには、彼女は正也のことを知らなすぎた。
また、生徒にピアノを教えるという立場にある須藤には、当然、もうひとつの疑問が浮上してくる。
──いったい、誰があの子にピアノを教えているのだろう?
ピアノに関して、業界では顔のひろい須藤である。
正也ほどの逸材を誰かが教えているのであれば、その人物の名前は、自分のところへも流れてくると須藤は思うのだ。
ところが彼女の知る限り、それらしい人の名前はきいたことがない。
──まさか、独学でピアノを……いや、あり得ない
正也の演奏は、どう考えても独学で到達できるレベルではない。一流のピアノ講師に学んだとしか思えない。ただの一流ではなく、「超」がつくほどの一流の誰かに。
と考えたところで、須藤のまわりには、それほどの人物はいなかった。
──あの子の親が、プロなのか?
須藤は正也の実力に際して、もっとも納得できる考えに行きあたる。
ふと、正也の顔を思い浮かべる。だいぶまえに、どこかで見たことのあるような顔だ。「弓友」という名字も、きき覚えがある気がする。
正也の顔は、須藤の知っている誰かの面影を映している。
須藤は、懸命に記憶の糸を探り出す。しかし、彼女の記憶のなかには「弓友」という名前のピアニストは、どこにも存在しない。
──わたしの記憶が、間違っているのか?
須藤はそう思ったが、彼女の記憶に間違いがあるわけではなかった。
だが、あくまでもピアノにこだわる須藤は、どうしても思い出すことができなかった。
二十年ほど前──「孤高のサムライ」と呼ばれ、ソリストとして世界中にその名を馳せた、若き天才バイオリニスト。
正也の父、弓友正人の存在を。
翌日、正也はふだんと変わらず登校する。教室に入って席に着くなり、クラスメートたちが正也のまわりに群がってくる。
──やっぱりな
他校の女子生徒や教頭先生にまじり、校内を歩く姿は、目立たない方がおかしいといえるだろう。
放課後だったため、校内にのこっていた生徒が少なかったとはいえ、やはり見ていた生徒はいたのである。
正也は、事の顛末をクラスメートに話す。だが、ありのままを正直に話すのではない。
正也は自分がピアノを弾くことを、クラスメートには絶対に明かさない。
正也の話は、まず音楽科の学校から、閃葉高校と親睦をはかりたいという話があったと切り出す。
もちろん嘘だ。その親善大使として、自分に白羽の矢が立ったのだと説明する。
これまで音楽教師の五十嵐が、しつこいほどに正也を呼び出していたのは、いまの話で上手く説明がつく。
本当は、親善大使の役割は萌美のはずなのだが、正也はみごとに自分とすり替える。
そして、音楽学校の生徒たちが来ると、彼女たちといっしょに音楽室に入ったのだと、みんなに話す正也だった。
「彼女たちがピアノを弾いている間に、俺はさっさと音楽室を抜け出して帰ったんだ」
誰も正也の話を疑わない。実際、正也が先に音楽室を出て帰ろうとするところを、他の生徒たちが目撃している。
正也の話をきく限り、おかしいところはなにもなかった。
正也は、自分がピアノを弾けるという秘密がみんなに知れわたりそうになる危機を、どうにかぶじにのり越えるのだった。
ほどなく、学校は夏休みを迎える。
早弥香が全国大会で優勝したという噂が、正也の耳にも入ってくる。
夏の暑さが続くなかで、若者たちはその胸に夢を描き、人生の輪郭を徐々に形成してゆくのだった。




