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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第三章 闇に沈む天才
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天敵・世梨香

 一夜明けた朝は、雲が見当たらないほどの快晴だった。


 正也は晴れやかに学校へ向かう。このところ悩まされていた鬱陶しい問題が片付いたせいか、とても機嫌がよさそうだ。

 妹のルミは、なにか良いことでもあったのかと、正也のそばにいて思う。


 この時期、生徒たちは夏服で登校している。青い空の下、白いカッターシャツが清々しい。

 正也は、いつになく気分よく校舎のなかへ入ってゆく。しかし、この日はとんでもない出来事が、正也を待っているのだった。



 午前中の授業が終わり、昼休みになる。すでに昼食をすませた正也は、いつものようにクラスメートたちと談笑していた。

 そのとき、教室の扉のところから、男子の誰かが正也を呼ぶ声がきこえた。


「おーい、弓友」

「ん?」


 正也が声のする方へ顔を向ける。


「おまえに話があるっていう子が、来てるぞ」

「話?」


 正也は、たぶんルミか萌美のどちらかだろうと思いながら、扉の方へ歩いて行く。扉の前で足を止めると、どちらが来たのかと顔をのぞかせる。

 そこには、正也の知らない女子生徒が立っていた。


 ──誰だ?


 正也は、一度も会ったことがないその生徒に、ちょっと戸惑う。下級生であろうその子は、萌美より背が高い。


 一六〇センチを超える身長は、女子のなかでは高い方だろう。ガッチリとした体格に、バッサリ切ったショートの髪が、いかにもスポーツが得意そうな印象を与えている。

 見た目からして、正也とはまったく縁がなさそうだが、彼女は正也を鋭い眼でにらんでいる。


 正也は、とりあえず廊下に出る。そして、女子生徒と話す場所を変えようと思った。

 正也は廊下の突き当たりを指差して、彼女に伝える。


「あっちで話そう」


 すると、その女子生徒はキッパリといいきった。


「ここで、いいです」


 予想外の返事に、正也はちょっとたじろぐ。女子生徒が、自分のことを名のった。


「わたし、二年の皆崎といいます」


 正也の思考が、過去の記憶へ走りゆく。


 ──みなさき?


 世梨香である。世梨香は恐い目で正也を見すえながら、さらに言葉を続ける。


「きのう、お姉ちゃんの頼みをことわったそうですね」


 前日のことをふり返った正也は、早弥香のことを思い出す。


 ──この子は……きのう、電話で話した彼女の……


 正也は、世梨香をまじまじと見て思った。


 ──親戚なのか?


 妹とは思わない。いや、思えない。世梨香と早弥香は、姉妹というには信じられないほど似ていない。

 また、親戚の場合でも、歳が自分より上であれば「お姉ちゃん」と呼ぶことがある。


 とにかく、早弥香との一件は、もう片がついたことだ。


 ──そのことで、俺に会いにきたのか


 正也はやれやれといった感じで、世梨香に説明しようとする。


 ──君のお姉さんのことは……


 正也が言葉を口に出そうとしたときだった。正也より先に、世梨香が切ない表情で正也に告げる。


「お姉ちゃん、泣いてたんですよ」


 その直後、二人の様子を窓越しに見ていたクラスメートたちがザワッとざわめき、教室内の空気を揺らす。

 教室のなかにいるみんなは「なんだなんだ?」と野次馬根性まる出しで、扉や窓際に押しよってくる。


 ──な、なんてこというんだよ!


 正也は焦った。これでは、まるで正也が、世梨香の姉をいじめて泣かせたようにきこえるではないか。

 さらに世梨香は、正也にたたみかける。


「このまえは、仲田さんも泣かせてましたよね」


 正也の顔が青くなる。


 ──お、ま、待て、おいっ


 ますます焦る正也は、冷や汗を流しながら、うろたえる。

 萌美のことは、とっくにケリがついている。また、萌美が泣いていたといっても、正也がいじめたわけではない。


 ──仲田のことは、すでに……


 正也が口をひらくまえに、世梨香は正也に向かってトドメをさすがごとく、冷ややかにいい捨てた。


「ひどい人」


 沈黙が、二人のまわりの空気を支配する。


 静まり返った空間のなかで、世梨香は正也の横をすり抜けるようにして、廊下の向こう側の突き当たりに向かって歩いてゆく。

 しばし呆然となっていた正也は、ハッとして後ろをふり返り、世梨香を追いかける。


「ま、待てよっ」


 そして世梨香の前にまわりこみ、誤解をとこうと話しかけるのだった。


「仲田のことは、もうすでに……」


 すると世梨香は「きく耳もたん!」というように、無言のまま、ぷいっと横を向く。

 その仕草が、なんともかわいい。だが、正也には世梨香の仕草をかわいいと思う余裕など、まったくない。


 ──きけよ、人の話を!


 正也にすれば、早弥香のことはもう完全に片がついている。

 それ以前に、萌美のことは彼女の望みどおりに、その願いを叶えてやっている。


 正也は、自分の知る事実を世梨香に説明したいのだが、話の主導権を世梨香ににぎられたまま、どうすることもできない。

 世梨香の口から出てくる言葉は、そのひとつひとつが強力な爆弾だ。正也が受ける精神的なダメージは、はかりしれない。


 正也は次々と女の子を泣かせるような、どうしようもない男だと思われ、最後は「ひどい人」で終わろうとしている。

 困ったことに、正也から世梨香に話しかけようとしても、世梨香はまったく相手にしてくれない。


 他のクラスの生徒たちも、正也と世梨香を見ている。気のせいか、女子たちの正也に向けられる視線が、突き刺すような感じで痛い。

 正也がいままで生きてきたなかで、最大のピンチである。


 このまま、廊下の真ん中にいるのは危険だ。世梨香から、またどんな爆弾が飛び出すかわからない。

 正也は、一刻もはやく世梨香と二人で、この場を離れたかった。


 ──どうする、俺


 精神的に追いつめられた正也は、頭で考えるよりも身体の方が先に行動に走るのだった。


 正也は、その場でいきなり世梨香を抱き上げる。俗にいう「お姫様だっこ」だ。

 世梨香をだっこしたまま廊下の突き当たりに向かい、さらに四階へ続く階段をかけ上がる。


 これには世梨香も驚いた。世梨香は声も出ず、正也にされるがままに、わが身をあずける。


 正也は階段をのぼると、踊り場で世梨香を降ろした。必死で廊下を走り階段をかけ上がった正也は、両手を膝について、ゼェ、ゼェと荒い呼吸を繰り返す。

 世梨香は、苦しそうな呼吸がおさまらない正也を、ただただじっと見つめるのだった。


 やがて呼吸が落ち着いてきた正也は、世梨香の両肩にガシッと手をのせる。

 一瞬、世梨香の身体がビクッと硬直する。ドキドキしている世梨香に、正也は首をうなだれて観念したようにいうのだった。


「君の、姉さんの……ゲホッ……いうとおりに……ガハッ……しよう」

「え?」

「ピアノ……弾いてやるよ」


 まだ完全には呼吸が整わない正也は、咳き込みながら話を続ける。


「日にちと……ゴホッ、時間と場所を、そっちで指定してくれ。ただし……グハッ、曲は、俺が決める」


 世梨香にはかなわないことを、身体の芯まで悟った正也だった。


「先輩……」


 世梨香はキョトンとしながら、無意識につぶやいた。


 その直後、正也が思い出したように言葉を継ぎたす。


「いっておくが、俺の家にピアノはないぞ」


 正也はいうべきことを告げると、ゆっくりと階段を下りて自分の教室に帰ってゆく。

 世梨香はうっとりした目で、正也の後ろ姿を見送っていた。


 ──お姫様だっこ……うふっ


 踊り場に立ちつくしている世梨香は、顔を赤く染め、乙女心をときめかせているのだった。


 教室にもどった正也が、クラスのみんなから揉みくちゃにあったのは、いうまでもない。



 学校の授業が終わって自宅に帰った正也は、自分の部屋へ入るなり、ごろんとベッドに寝転がる。


「あー、えらい目にあった」


 世梨香のせいで、ぐったりだ。


「なんであの子は、仲田のことまで知ってるんだ?」


 抜け目のない世梨香である。おかげで、ふたたびピアノを弾くことになろうとは、青天の霹靂(へきれき)もいいとこだ。


「かなわんなあ」


 夢なら覚めてくれと思う正也だが、当然そんなわけはなかった。

 翌朝、体のあちこちが筋肉痛の状態で登校する正也だった。



 正也が世梨香とひと騒ぎしてから、二日が過ぎた。


 いま、閃葉高校は昼休みに入っている。正也のクラスの女子生徒が、教室の扉のところで正也を呼んだ。


「弓友くん、彼女が来てるわよう」


 正也の顔が、ピキッと固くなる。


 ──彼女?


 正也はイヤな予感を抱きながら、扉のところまで歩みよる。扉からゆっくりと廊下をのぞいてみると、そこには世梨香が立っていた。


 正也は、自分を呼び出した女子生徒に頼んだ。


「『弓友は、今日は休んでいる』と、あの子にいってくれ」


 そういう正也の声は、しっかりと世梨香にとどいていた。


「先輩、なにいってるんですか!」


 行動力旺盛な世梨香は、正也の教室に足をふみ入れ、正也の腕をつかんで廊下に引きずり出そうとする。


「お、おい、引っぱるな」


 世梨香は正也の腕をとりながら、廊下の突き当たりまで正也を引きずって行く。


「なんだよ」

「お姉ちゃんから、日取りが決まったって知らせに来たんですよ」


 こんなにはやく決まるとは思わなかった。正也は世梨香といっしょに階段を上り、踊り場へと向かう。

 そして世梨香と向き合い、くわしい説明をきくのだった。


 世梨香が、姉の早弥香からの伝言を告げる。


「『来週の月曜日の放課後に、閃葉高校の音楽室でお願いしたい』だそうです」


 正也は、ちょっとびっくりした。てっきり、自分が早弥香の指定した場所に行くものだと思っていたのだ。


 ──彼女の方から、ここへ来るのか?


 まったくの予想外である。今日は金曜日なので、早弥香が来るのは三日後ということになる。

 この件については、おそらく今日中に、条万学園から閃葉高校に正式な連絡が入るだろう。


「放課後か……」


 正也は世梨香にたずねる。


「おまえのお姉さんの学校からここまで、どのくらい時間がかかるんだ?」

「車で一時間もあれば行けるみたいよって、いってたなあ」


 世梨香が、思い出しながら答えた。


 ──放課後、一時間ぐらい待たなきゃならんのか


 そんなことを考える正也は、続けて話す世梨香の言葉に驚いた。


「お姉ちゃん、学校の授業を一時限きり上げて、こっちへ来るっていってましたよ」

「マジか?」


 正也は、目が点になる。


 ──学校の授業より、俺の演奏の方が大事ってか?


 信じられない正也だった。



 世梨香からきくべき話をきいた正也は、教室に帰ろうとする。

 だが、そのまえに世梨香にいうことがあった。


「俺がピアノを弾くことを、絶対に誰にもいうなよ」

「なぜですか?」

「限られた人間しか、知らないことなんだよ」


 正也は世梨香にそう伝えると、階段を下りて行く。


「先輩っ」


 世梨香が正也を呼び止める。正也がふり向くと、彼女はもじもじしながら恥ずかしそうに正也に話しかける。


「あの、今度もう一度、お姫様だっこ……」


 世梨香がまだいい終わらないうちに、正也が口をはさんだ。


「もう二度と、俺に関わらないでね。頼むから」


 カチーン……という音が、世梨香の頭の中で鳴り響く。

 世梨香は、正也をにらみながら叫んだ。


()とりついてやるう!」


 正也がいい返す。


「悪霊か、おまえはっ」


 二人とも、なんて会話をしてんだよと思いながら、それぞれの教室に帰って行くのだった。




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