天敵・世梨香
一夜明けた朝は、雲が見当たらないほどの快晴だった。
正也は晴れやかに学校へ向かう。このところ悩まされていた鬱陶しい問題が片付いたせいか、とても機嫌がよさそうだ。
妹のルミは、なにか良いことでもあったのかと、正也のそばにいて思う。
この時期、生徒たちは夏服で登校している。青い空の下、白いカッターシャツが清々しい。
正也は、いつになく気分よく校舎のなかへ入ってゆく。しかし、この日はとんでもない出来事が、正也を待っているのだった。
午前中の授業が終わり、昼休みになる。すでに昼食をすませた正也は、いつものようにクラスメートたちと談笑していた。
そのとき、教室の扉のところから、男子の誰かが正也を呼ぶ声がきこえた。
「おーい、弓友」
「ん?」
正也が声のする方へ顔を向ける。
「おまえに話があるっていう子が、来てるぞ」
「話?」
正也は、たぶんルミか萌美のどちらかだろうと思いながら、扉の方へ歩いて行く。扉の前で足を止めると、どちらが来たのかと顔をのぞかせる。
そこには、正也の知らない女子生徒が立っていた。
──誰だ?
正也は、一度も会ったことがないその生徒に、ちょっと戸惑う。下級生であろうその子は、萌美より背が高い。
一六〇センチを超える身長は、女子のなかでは高い方だろう。ガッチリとした体格に、バッサリ切ったショートの髪が、いかにもスポーツが得意そうな印象を与えている。
見た目からして、正也とはまったく縁がなさそうだが、彼女は正也を鋭い眼でにらんでいる。
正也は、とりあえず廊下に出る。そして、女子生徒と話す場所を変えようと思った。
正也は廊下の突き当たりを指差して、彼女に伝える。
「あっちで話そう」
すると、その女子生徒はキッパリといいきった。
「ここで、いいです」
予想外の返事に、正也はちょっとたじろぐ。女子生徒が、自分のことを名のった。
「わたし、二年の皆崎といいます」
正也の思考が、過去の記憶へ走りゆく。
──みなさき?
世梨香である。世梨香は恐い目で正也を見すえながら、さらに言葉を続ける。
「きのう、お姉ちゃんの頼みをことわったそうですね」
前日のことをふり返った正也は、早弥香のことを思い出す。
──この子は……きのう、電話で話した彼女の……
正也は、世梨香をまじまじと見て思った。
──親戚なのか?
妹とは思わない。いや、思えない。世梨香と早弥香は、姉妹というには信じられないほど似ていない。
また、親戚の場合でも、歳が自分より上であれば「お姉ちゃん」と呼ぶことがある。
とにかく、早弥香との一件は、もう片がついたことだ。
──そのことで、俺に会いにきたのか
正也はやれやれといった感じで、世梨香に説明しようとする。
──君のお姉さんのことは……
正也が言葉を口に出そうとしたときだった。正也より先に、世梨香が切ない表情で正也に告げる。
「お姉ちゃん、泣いてたんですよ」
その直後、二人の様子を窓越しに見ていたクラスメートたちがザワッとざわめき、教室内の空気を揺らす。
教室のなかにいるみんなは「なんだなんだ?」と野次馬根性まる出しで、扉や窓際に押しよってくる。
──な、なんてこというんだよ!
正也は焦った。これでは、まるで正也が、世梨香の姉をいじめて泣かせたようにきこえるではないか。
さらに世梨香は、正也にたたみかける。
「このまえは、仲田さんも泣かせてましたよね」
正也の顔が青くなる。
──お、ま、待て、おいっ
ますます焦る正也は、冷や汗を流しながら、うろたえる。
萌美のことは、とっくにケリがついている。また、萌美が泣いていたといっても、正也がいじめたわけではない。
──仲田のことは、すでに……
正也が口をひらくまえに、世梨香は正也に向かってトドメをさすがごとく、冷ややかにいい捨てた。
「ひどい人」
沈黙が、二人のまわりの空気を支配する。
静まり返った空間のなかで、世梨香は正也の横をすり抜けるようにして、廊下の向こう側の突き当たりに向かって歩いてゆく。
しばし呆然となっていた正也は、ハッとして後ろをふり返り、世梨香を追いかける。
「ま、待てよっ」
そして世梨香の前にまわりこみ、誤解をとこうと話しかけるのだった。
「仲田のことは、もうすでに……」
すると世梨香は「きく耳もたん!」というように、無言のまま、ぷいっと横を向く。
その仕草が、なんともかわいい。だが、正也には世梨香の仕草をかわいいと思う余裕など、まったくない。
──きけよ、人の話を!
正也にすれば、早弥香のことはもう完全に片がついている。
それ以前に、萌美のことは彼女の望みどおりに、その願いを叶えてやっている。
正也は、自分の知る事実を世梨香に説明したいのだが、話の主導権を世梨香ににぎられたまま、どうすることもできない。
世梨香の口から出てくる言葉は、そのひとつひとつが強力な爆弾だ。正也が受ける精神的なダメージは、はかりしれない。
正也は次々と女の子を泣かせるような、どうしようもない男だと思われ、最後は「ひどい人」で終わろうとしている。
困ったことに、正也から世梨香に話しかけようとしても、世梨香はまったく相手にしてくれない。
他のクラスの生徒たちも、正也と世梨香を見ている。気のせいか、女子たちの正也に向けられる視線が、突き刺すような感じで痛い。
正也がいままで生きてきたなかで、最大のピンチである。
このまま、廊下の真ん中にいるのは危険だ。世梨香から、またどんな爆弾が飛び出すかわからない。
正也は、一刻もはやく世梨香と二人で、この場を離れたかった。
──どうする、俺
精神的に追いつめられた正也は、頭で考えるよりも身体の方が先に行動に走るのだった。
正也は、その場でいきなり世梨香を抱き上げる。俗にいう「お姫様だっこ」だ。
世梨香をだっこしたまま廊下の突き当たりに向かい、さらに四階へ続く階段をかけ上がる。
これには世梨香も驚いた。世梨香は声も出ず、正也にされるがままに、わが身をあずける。
正也は階段をのぼると、踊り場で世梨香を降ろした。必死で廊下を走り階段をかけ上がった正也は、両手を膝について、ゼェ、ゼェと荒い呼吸を繰り返す。
世梨香は、苦しそうな呼吸がおさまらない正也を、ただただじっと見つめるのだった。
やがて呼吸が落ち着いてきた正也は、世梨香の両肩にガシッと手をのせる。
一瞬、世梨香の身体がビクッと硬直する。ドキドキしている世梨香に、正也は首をうなだれて観念したようにいうのだった。
「君の、姉さんの……ゲホッ……いうとおりに……ガハッ……しよう」
「え?」
「ピアノ……弾いてやるよ」
まだ完全には呼吸が整わない正也は、咳き込みながら話を続ける。
「日にちと……ゴホッ、時間と場所を、そっちで指定してくれ。ただし……グハッ、曲は、俺が決める」
世梨香にはかなわないことを、身体の芯まで悟った正也だった。
「先輩……」
世梨香はキョトンとしながら、無意識につぶやいた。
その直後、正也が思い出したように言葉を継ぎたす。
「いっておくが、俺の家にピアノはないぞ」
正也はいうべきことを告げると、ゆっくりと階段を下りて自分の教室に帰ってゆく。
世梨香はうっとりした目で、正也の後ろ姿を見送っていた。
──お姫様だっこ……うふっ
踊り場に立ちつくしている世梨香は、顔を赤く染め、乙女心をときめかせているのだった。
教室にもどった正也が、クラスのみんなから揉みくちゃにあったのは、いうまでもない。
学校の授業が終わって自宅に帰った正也は、自分の部屋へ入るなり、ごろんとベッドに寝転がる。
「あー、えらい目にあった」
世梨香のせいで、ぐったりだ。
「なんであの子は、仲田のことまで知ってるんだ?」
抜け目のない世梨香である。おかげで、ふたたびピアノを弾くことになろうとは、青天の霹靂もいいとこだ。
「かなわんなあ」
夢なら覚めてくれと思う正也だが、当然そんなわけはなかった。
翌朝、体のあちこちが筋肉痛の状態で登校する正也だった。
正也が世梨香とひと騒ぎしてから、二日が過ぎた。
いま、閃葉高校は昼休みに入っている。正也のクラスの女子生徒が、教室の扉のところで正也を呼んだ。
「弓友くん、彼女が来てるわよう」
正也の顔が、ピキッと固くなる。
──彼女?
正也はイヤな予感を抱きながら、扉のところまで歩みよる。扉からゆっくりと廊下をのぞいてみると、そこには世梨香が立っていた。
正也は、自分を呼び出した女子生徒に頼んだ。
「『弓友は、今日は休んでいる』と、あの子にいってくれ」
そういう正也の声は、しっかりと世梨香にとどいていた。
「先輩、なにいってるんですか!」
行動力旺盛な世梨香は、正也の教室に足をふみ入れ、正也の腕をつかんで廊下に引きずり出そうとする。
「お、おい、引っぱるな」
世梨香は正也の腕をとりながら、廊下の突き当たりまで正也を引きずって行く。
「なんだよ」
「お姉ちゃんから、日取りが決まったって知らせに来たんですよ」
こんなにはやく決まるとは思わなかった。正也は世梨香といっしょに階段を上り、踊り場へと向かう。
そして世梨香と向き合い、くわしい説明をきくのだった。
世梨香が、姉の早弥香からの伝言を告げる。
「『来週の月曜日の放課後に、閃葉高校の音楽室でお願いしたい』だそうです」
正也は、ちょっとびっくりした。てっきり、自分が早弥香の指定した場所に行くものだと思っていたのだ。
──彼女の方から、ここへ来るのか?
まったくの予想外である。今日は金曜日なので、早弥香が来るのは三日後ということになる。
この件については、おそらく今日中に、条万学園から閃葉高校に正式な連絡が入るだろう。
「放課後か……」
正也は世梨香にたずねる。
「おまえのお姉さんの学校からここまで、どのくらい時間がかかるんだ?」
「車で一時間もあれば行けるみたいよって、いってたなあ」
世梨香が、思い出しながら答えた。
──放課後、一時間ぐらい待たなきゃならんのか
そんなことを考える正也は、続けて話す世梨香の言葉に驚いた。
「お姉ちゃん、学校の授業を一時限きり上げて、こっちへ来るっていってましたよ」
「マジか?」
正也は、目が点になる。
──学校の授業より、俺の演奏の方が大事ってか?
信じられない正也だった。
世梨香からきくべき話をきいた正也は、教室に帰ろうとする。
だが、そのまえに世梨香にいうことがあった。
「俺がピアノを弾くことを、絶対に誰にもいうなよ」
「なぜですか?」
「限られた人間しか、知らないことなんだよ」
正也は世梨香にそう伝えると、階段を下りて行く。
「先輩っ」
世梨香が正也を呼び止める。正也がふり向くと、彼女はもじもじしながら恥ずかしそうに正也に話しかける。
「あの、今度もう一度、お姫様だっこ……」
世梨香がまだいい終わらないうちに、正也が口をはさんだ。
「もう二度と、俺に関わらないでね。頼むから」
カチーン……という音が、世梨香の頭の中で鳴り響く。
世梨香は、正也をにらみながら叫んだ。
「憑とりついてやるう!」
正也がいい返す。
「悪霊か、おまえはっ」
二人とも、なんて会話をしてんだよと思いながら、それぞれの教室に帰って行くのだった。




