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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第三章 闇に沈む天才
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ひとすじの希望

 翌日、条万学園の須藤は、昼休みになると早弥香を職員室に呼び出す。


 早弥香が来ると、きのうの正也との一件を、やるせない想いで彼女に話した。かわいそうだが、仕方がない。

 早弥香は、須藤が事の顛末(てんまつ)を話すのを、見守るようにじっときき入っている。そして須藤の話が終わったときに、思いきって訴えた。


「先生、わたしと弓友くんの二人で話し合うことは、できませんか?」


 須藤は早弥香の言葉に唖然となる。早弥香は正也のことを、まだあきらめてはいなかった。

 しかし、須藤は困惑する。正也の連絡先がわからない。


 これは閃葉高校に問い合わせたところで、そういう個人情報は絶対に教えてはくれないだろう。

 かといって、職員室の電話を利用して、生徒同士で話をさせるわけにもいかない。


 ──どうしたものか


 須藤が頭を悩ませていると、そこへ背の高い紳士が近よってくる。須藤と早弥香の顔がひきしまり、身体を固くする。


 紳士は「楽にして」というように、微笑みながら右手を軽く上げた。

 メガネをかけて白髪をオールバックにした彼は、条万学園の久川教頭である。


 チャコールグレーのスーツが細身の身体によく似合う。彼はとても温厚な性格で、いつも優しい表情を崩さない。生徒からも教師からも親しまれ、尊敬されている。


 そんな彼が、須藤に声をかけた。


「なにかあったのですか?」

「はい、教頭先生。実は……」


 須藤は久川教頭に事情を話すと、彼は大きくうなずいた。


「なるほど、そうですか」


 教頭の久川にしても、早弥香の不調はやはり気になるところだ。須藤の話をきき終えた久川教頭は、しばらく思案すると須藤に問いかける。


「皆崎さんと、閃葉高校の弓友くんという生徒が、二人で話しあえればよいのですね」

「はい、そうです」


 須藤は、打つ手がないという想いを顔にあらわしながら、返事をする。

 久川教頭は、彼女たちに優しく伝える。


「わかりました。わたしが、なんとかしましょう」

「きょ、教頭先生がですか?」


 須藤も早弥香もびっくりして、目を丸くする。


「はい。のちほど、須藤先生に連絡しますね」


 久川教頭はそういうと、教頭室に向かって行った。


 ──教頭先生に、なにか良い考えがあるのかしら?


 須藤も早弥香もそう思うのだが、彼女たちにはまったく見当がつかない。

 そして、この日はふだんどおりに一日が過ぎてゆくのだった。



 次の日、閃葉高校では、この日の授業がすべて終了する。

 放課後を迎えるまえに、正也のクラスでは担任の岩木教師が、生徒に連絡事項を伝える。


 正也がそれをききながら「ああ、今日も終わったな」と思ったときだった。

 岩木教師が、いきなり正也の名を呼んだ。


「弓友」


 クラスのみんなが、正也の方をふり向いた。


「教頭先生から『放課後に、教頭室に来るように』とのことだ」


 一瞬、クラスが静まり返る。そして次の瞬間、みんながザワッとざわめいた。

 教頭先生に呼び出されるなど、ふつうではない。


 正也は混乱するどころではない。青天の霹靂もいいとこだ。


 ──俺、なにかやったか?


 先生たちに目をつけられるような事をした記憶は、まったくない。


 ──なぜ、俺が?


 身に覚えがなさすぎる。


 正也の表情は、ぬぼーっとしたまま変わらない。だが、心の中では困惑と不安がごちゃ混ぜになり、それがどこまでも広がってゆく。


 クラスメートたちが、次々と正也に話しかける。


「弓友、おまえ、なにやったんだよ」

「ひょっとして、停学じゃないのか」

「いや、退学か?」


 みんなの視線が正也に集中し、クラスが一気に騒がしくなる。


 そんなみんなを岩木が大人しくさせる。


「こら、静かにしろ!」


 生徒たちが誤解しないよう、つけくわえる。


「別に、悪いことで呼び出すのではないようだ」


 岩木はそういうが、正也は全然しっくりこない。教頭先生に呼び出される理由が、さっぱりわからない。

 岩木は正也に念をおす。


「とにかく弓友、放課後に教頭室に行くように」


 かくして、いわれたとおりに教頭室に向かう正也だが、イヤな予感しかしない。


「わからん……なんで、呼び出されるんだろう?」


 混乱する想いを胸に教頭室に到着すると、ドアの前で足を止める。


 コンコンッと、ドアをノックする。室内から「どうぞ」という声がした。


 ──やっぱり、いたか


 教頭先生がいないことを期待した正也だが、はかない望みはあっさりと崩れた。正也は、仕方なく教頭室に足をふみ入れる。


 教頭室には、小太りの山坂教頭が、ハゲた頭を輝かせている。山坂教頭は、電話で誰かと話をしている最中だった。


「ああ、いま来たよ。彼と替わるから、ちょっと待ってて」


 山坂教頭は正也をそばへ呼び、電話の受話器を渡そうとする。


 ──誰だ?


 正也は不審に思いながら、受話器を手にとる。ニコニコしている山坂教頭を前にして、電話の向こうの相手に話しかける。


「もしもし」

「あ、もしもし、弓友くんですか?」


 きこえてくるのは、女の子の声だ。


「そうですが」

「わたし、条万学園の皆崎といいます」


 正也は絶句する。


 ──とうとう、教頭先生まで巻き込んだのかよ


 正也は「そこまでやるか?」と怪訝(けげん)に思うのだが、これは条万学園の久川教頭のはからいだった。


 久川教頭と山坂教頭は、中学生時代からの親友である。

 先日、久川は山坂へ連絡を入れ、事情を説明した。そこで、おたがいの教頭室の電話を利用する考えを伝える。これなら、他の教師たちに気兼ねすることもなく、正也と早弥香が二人で話し合うことができる。


 久川が山坂にそのことを頼むと、山坂は二つ返事で了解したのである。

 本来、教頭室の電話を使って、生徒同士で話をさせるなど、ふつうなら絶対に許されない。だが、今回は特例中の特例ということで、特別に認めようと二人は判断する。


 とはいっても、これが校長や理事長の知ることになれば、大きな問題になるだろう。ゆえに、二人とも校長と理事長には内緒であった。


 早弥香は教頭先生のおかげで、なんとか正也と話をする機会を与えてもらった。しかし、正也と会話を続けても、話がまったく先へ進まない。

 どんなに正也に頼んでも、正也はひたすら拒否を繰り返す。だが、早弥香もなかなかひき下がらない。


 もし、萌美の素晴らしい演奏に正也が絡んでいるとすれば、正也は必ず、自分の演奏をとりもどす重要な存在となるはずだ。早弥香自身は、そう感じている。 いや、信じている。


 なんとしてでも、本来の自分に立ち返らねばならない早弥香は、この機を逃すわけにはいかない。

 早弥香はなぜだかわからないが、一度も聴いたことのない正也の演奏に、自分の求めるものがあるような気がする。


 いまの早弥香には、正也しかいない。それは、須藤にしても同じだった。

 もはや、ふつうのやり方でスランプを克復しようとしても、全国大会には間に合わないだろう。


 一方、正也はうんざりしていた。ただでさえ、ピアノが大きらいな正也である。

 これは萌美のときと同じパターンであり、須藤も早弥香もしつこいほどに、どこまでも食い下がってくる。


 ──女って、みんなこうなのか?


 正也がそう思うのも、無理はないかもしれない。

 しかし、彼女たちも必死である。彼女たちの抱える悩みは、本人にとっては、それほど深刻なものなのだ。


 だが正也は、彼女たちの抱くひとすじの希望を、くみ取ることはなかった。

 次に放つ正也の言葉が、早弥香を沈黙させる。


「ここは、君とコンクールの優勝を争った仲田のいる学校だぞ」

「………」


 それをいわれると、早弥香はなにもいえなくなってしまう。


「仲田が俺に相談にくるというのなら、まだ話はわかるが」


 正也のいうことは、もっともだ。さらに正也は、早弥香を冷たく突きはなす。


「俺は、君とは無関係だ。悪いけど、君の力にはなれない」

「あ、あの……」

「話は終わりだ。それじゃ」


 正也はそう告げて、山坂教頭に電話の受話器をあずけようとする。

 山坂教頭は眉をよせ、沈痛な面持ちで正也を見た。


「弓友くん、彼女を助けてやってはどうかね」

「自分には関係のないことです」


 正也は、山坂教頭の頼みでも頑としてことわる。山坂教頭は、仕方なく正也から受話器を受けとった。

 話に片をつけた正也は「失礼します」といって、教頭室から出て行ってしまった。


 山坂教頭は、電話の向こうにいる早弥香に話す。


「すまないが、そちらの久川教頭先生と替わってくれないかね」


 その言葉は、早弥香の抱く希望の光が、無残にも闇に消え去ったことを意味する。

 早弥香の近くにいた須藤は、早弥香を慰めたかったが、彼女にかける言葉が見つからない。


 正也との話し合いが終わった早弥香は、すっかり明るさを失った顔で、帰途につくのだった。



 帰宅した早弥香は、自分の部屋に入ると、かばんを置くなり机にふさぎ込む。


「どうしよう……どうすれば……」


 いまの早弥香には、落ち込む心を立て直す力も尽き果てていた。

 そこへ、部屋のドアをノックする音がきこえる。妹の世梨香が、いつものように顔を出す。


 最近、姉の顔色が良くないのが気がかりだが、今日はふだんにもまして、ひどいように見える。


「お姉ちゃん、なにかあったの?」


 世梨香が姉のベッドに座るなり、心配そうに早弥香の顔をのぞきこんだ。

 早弥香は、つくり笑顔で世梨香に答える。


「今日、弓友くんと話ができたんだけど」


 声に元気がない。


「協力してくれるよう頼んだんだけど、ことわられちゃった」


 できるだけ笑顔を見せようとしている早弥香だが、妹の世梨香には、姉の悲痛な想いが伝わってくるようだ。

 今回は世梨香もあまり話さず、早々に姉の部屋からひき上げるのだった。


 ひとりになった早弥香は、無理につくった笑顔を崩すと、深い絶望感にみまわれる。


「時間がないのに、どうしよう」


 すでに七月にはいっている。


 早弥香には、正也に賭けるしかなかった。正也だけが、すべてだった。早弥香は両手で顔をおおい、声を出さないようにして泣き出した。


 世梨香は、わずかに開いたドアの隙間から、その様子を見ていた。


 ──お姉ちゃん……


 世梨香は、音もなくドアを閉める。とたんに、彼女の表情が厳しくなる。世梨香の胸のうちに、正也に対する怒りの炎が燃え上がる。


 ──弓友先輩、絶対に許さない!


 正也の天敵といえる存在がここにいることを、正也は知るよしもなかった。




 ところ変わって、すでに自宅に帰っている正也は、自分の部屋のベッドでくつろいでいた。


「やれやれだ」


 まさか教頭先生に呼ばれて、早弥香の相手をすることになるとは夢にも思わなかった正也である。

 ただ、早弥香が切羽詰まった状態であることが、電話で話していて、ひしひしと感じられた正也ではあった。


 確かに、かわいそうだという気もする。早弥香がそのような事態に陥ったのは、彼女自身に原因があるとは思えない。


 しかし、早弥香の深刻な不調は、正也に原因があるわけでもない。正也は、自分とは関係のない早弥香のために、大きらいなピアノを弾いてやる気にはなれない。


 早弥香に同情しそうになる想いを、正也は心の奥底へ強引に沈ませる。


 ──ああいうことになるのが、彼女の運命なのだろう


 心の中で、そう断じた。


「どのみち、もう終わったんだ」


 もう終わった……正也にすれば、この一件は決着がついたはずだった。


 ところが──本当は終わったのではなく、これからはじまるのだった。




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