困惑のトライアングル
授業が終わり、放課後を迎えた閃葉高校では、正也が一階の職員室に向かっている。
正也を呼び出したのは、音楽教師の五十嵐有己だ。彼女は三年前に、閃葉高校に赴任してきた教師である。
五十嵐はその豪快な名前とは裏腹に、小柄でとてもかわいい顔をしている。
幼い子供のような雰囲気を全身から発散させている彼女は、学校の先生という気がしない。学生服を着せれば、生徒として通用するかもしれない。
そんな彼女は、生徒たちから「ゆうりん」と呼ばれ、親しまれている。
正也は、五十嵐がなぜ自分を呼び出すのか腑に落ちない。呼び出される理由が、全然わからない。
──いったい俺に、なんの用だろう?
困惑する想いをかかえながら職員室にたどり着いた正也は、ドアを開けて「失礼します」というと、五十嵐のところまで足を進める。
正也に気づいた五十嵐が、かわいらしい声をだす。
「あ、弓友くん」
五十嵐は席を立ち、自分のそばまできた正也と向き合う。
彼女が問いかける次の言葉が、正也の全身を硬直させるのだった。
「弓友くん。あなた、ピアノが弾けるの?」
一瞬、正也の顔がひきつる。二人が、おたがいをじっと見つめる。
──な、なぜ、ゆうりんが?
正也は焦った。ごく限られた人間しか知らない正也の秘密を、部外者の五十嵐が知っている。
沈黙が二人を包み込む。その沈黙は、五十嵐の言葉によって破られた。
「弓友くん、あのね、条万学園のピアノ科の須藤先生が……」
正也は、自分が五十嵐から呼び出された理由を知らされる。
ひととおり話をきいた正也だが、まったくわけがわからなかった。しばらくして、正也は五十嵐に向かって口をひらいた。
「なにかの間違いでしょう。自分は、ピアノなんか弾きません」
正也は五十嵐にそう告げると、職員室のドアに向かってスタスタと歩き出すのだった。
「ちょ、ちょっと、弓友くん!」
正也は、五十嵐が止めようとするのもきかず、職員室から出て行ってしまった。
この日、昼休みに条万学園の須藤から、五十嵐に電話がかかってきた。その電話は、正也に早弥香のためにピアノを演奏してほしいという頼みだった。
しかし、全然とりあってくれない正也の態度に、五十嵐は須藤に対して立つ瀬がない。五十嵐は須藤に申しわけないと思いつつ、正直に結果を報告するのだった。
一方、自宅に向かって歩を進める正也は、ひどく混乱していた。
──なぜ、他校の先生が俺のことを……
正也は、条万学園の須藤教師をまったく知らない。その須藤が、どうして自分のことを知っているのか、見当もつかない。
ただ、五十嵐の話に、覚えのある名前が出てきた。
──条万学園の皆崎って、確かコンクールで優勝したあの子だよな
それだけは、わかる。マッシュの頭とともに、才能あふれた演奏が思い出される。
しかし正也は、早弥香と言葉を交わしたことは一度もない。
いったい、どこからどのようにして、正也のことが漏れたのか。
正也がピアノを弾けるのを知っているのは、正也の家族と二人の親友、そして萌美だけである。彼らが正也のことを、ホイホイと話すとは思えない。
翌日、彼らに一応きいてみるのだが、その返答は自分の思ったとおりだった。
「まあ、そうだろうな」
考えれば考えるほど、なにがどうなっているのか、わからなくなってくる。
「俺の秘密を知っているヤツが、他にいる。誰だ?」
正也は、まだ皆崎世梨香という女子生徒を知らない。
須藤から五十嵐への連絡は、その後も続いた。連絡がくるたびに正也は職員室に呼び出され、まったく相手にしない感じで、五十嵐にことわり続ける。
五十嵐にとって、条万学園の須藤は、もっとも尊敬する音楽教師である。その須藤の頼みを正也がことわるごとに、五十嵐は須藤に対して非常に胸を痛めるのだった。
同時に、なぜ須藤がそこまで正也にこだわるのか、彼女は全然、理解できないでいる。
五十嵐は、正也がピアノを演奏できるとは夢にも思っていなかった。彼はピアノを弾けないからこそ、須藤の頼みをことわっているとしか思えない。
正也は正也で、困惑していた。このままでは、いままで隠してきた自分の秘密が、みんなに知れ渡ってしまう恐れがある。
くわえて、変な噂がクラスに流れている。「弓友とゆうりんは、恋人同士じゃないか?」と、あちこちで囁かれているようだ。
まあ、そういう噂が立つのも無理はない状況ではある。しかし、こういう状態は、正也にとっては鬱陶しい以外のなんでもない。
ある日の放課後、また五十嵐から呼び出しがかかってくる。
──片をつけよう
正也は、らちがあかない問題をみずから片付けるべく、職員室に足をはこぶのだった。
一方、条万学園では、須藤もほとほと弱っていた。
「こんなに難しい子だったのか?」
こちらの事情を正也に話せば、彼は快く引き受けてくれるのではないかと期待していた。………が、実に甘かった。
彼女の希望的観測は、もののみごとに打ち砕かれた。
──直接、話をしたい
須藤はそう思いながら五十嵐に連絡をとり続けるのだが、肝心の正也は、こちらの呼びかけにはこれっぽっちも応じない。
弱ったと思う須藤だが、正也にことわられるたびに、徐々に確信することがあった。
──おそらく、彼は本当にピアノが弾ける
須藤の頼みを、正也は歯牙にもかけずに拒否している。電話口にも出ないことわり方は、明らかにふつうではない。
それは、正也がピアノを弾けるということを、逆に訴えているように須藤には感じられた。
閃葉高校には、仲田萌美以外にもピアノを演奏できる生徒がいる。だとすると、正也が萌美以上の実力者という話も、あながち信用できない話とはいい切れない。
──やはり彼は、皆崎さん復活のカギとなるのでは?
須藤は、早弥香の完全復活の糸口が見えてきたように思えた。だが、そうはいっても、正也の態度がこれほど頑なに拒否を貫いていると、須藤としてはお手上げである。
なにせ、電話で話すこともできない。せめて、なんとか電話に出てほしい。
須藤はそう思いながら粘るしかなかった。
正也と五十嵐、そして須藤の三人が困惑のトライアングルをガッチリと固めているなかで、正也が己の態度に変化を見せる。
閃葉高校の放課後の職員室に、またしても呼び出された正也が入ってくる。いつものように、ぬぼーっとした顔で五十嵐のところへ歩みよる。
彼女は、電話の受話器をもっている。
「弓友くん、あの……」
五十嵐がいい終わらないうちに、正也が左手を差し出した。
五十嵐が目をみはる。いままで全然とりあってくれなかった正也が、須藤からの電話に応えようとしているのだ。五十嵐は思わず微笑んだ。
彼女から笑顔で受話器を渡された正也が、電話に出る。
「もしもし」
正也の声に、一瞬びっくりした須藤だが、彼女はすぐさま落ち着いて正也に応じる。
「あ、わたしは条万学園の須藤といいますが、弓友くんですか?」
「そうですが」
ようやく、正也と話すことができる。
「実は、あなたにお願いがあるのですが……」
須藤の声をきいていた正也は、彼女の話が終わると、ぶっきらぼうにいい放った。
「自分には関係ないことです」
横にいる五十嵐の顔が、ピキッとひきつる。
「他校の生徒のために、なんで僕が?」
「そういわずに、お願いできませんか」
須藤は、簡単にはあきらめない。須藤にしてみれば、やっと捕まえた正也を安々と手離すわけにはいかない。
話していて、すぐにわかった。正也は、自分の実力をまわりにひけらかすことを極度にきらうタイプだ。そういう人間にこそ、早弥香復活のために協力してほしい。
二人の話し合いは続く。だが須藤も正也も、折れることはなかった。
正也の隣にいながら、なにもできずにハラハラしている五十嵐は、正也をじっと見つめることしかできない。
やがて、正也が話を終結にもってゆく。正也は冷静な声色で、須藤に語った。
「その皆崎という生徒が、不調に陥ったのは」
正也の次の言葉が、須藤を驚愕させる。
「コンクールの審査に、演奏以外の別の要素が絡んでいたからじゃないですか?」
「!」
言葉を失う須藤に、正也は追い打ちをかける。
「どんな大人の事情があるのか、知らないけど」
電話の向こうにいる須藤は、声も出ず唖然としている。
「その歪みが、彼女にあらわれたということでしょう」
「………」
いまのいままで考えたこともなかったが、彼のいうことは確かにあり得る話だ。正也の鋭い指摘に、須藤は沈黙を余儀なくされる。
正也は話を断ち切るがごとく、須藤に冷たくいい放った。
「自分には関係ありません。それじゃあ、失礼します」
「あ、待って、あの……」
正也には、これ以上、話を続ける意思はなかった。
正也は須藤の話をきこうともせず、電話の受話器を五十嵐にあずけようとする。五十嵐は呆然となったまま、正也から無言で受話器を受けとった。
そして正也は、さっさと職員室の出口に向かって行く。
不意に、われに返った五十嵐は、電話の向こうの須藤に必死であやまるのだった。
須藤は、こちらこそ無理なお願いを頼んで申しわけなかったと、丁寧に詫びをいれる。
彼女は受話器を置くと、自分のなかで混沌とする想いを静かに整理しようとする。
──あの子は、コンクールに来ていたのか……
それは、正也がピアノとは無関係ではないことを証明する。おそらく、彼は萌美の応援に来ていたのだろう。
やはり、萌美の素晴らしい演奏の裏には、正也が関係しているにちがいない。正也には萌美と同等の、いや、萌美以上の実力がある。
須藤は確信するように、そう思うのだった。
だが、自分の考えが正しかったとしても、正也本人が協力することをこれほど拒んでいては、須藤にはどうしようもなかった。
早弥香復活の望みは、そのカギをにぎるであろう正也が拒否することで、潰れてしまった。
無力な自分が、イヤになる。
須藤が酷だと思うのは、この事実を早弥香に伝えなければらならいことだった。




