喪失する自信
早弥香は、六歳からピアノに触れはじめる。
身体の成長にともない、音楽の才能が徐々に開花してゆく。
県内で行われる数々のコンクールに出場し、一度も負けたことがない。
圧巻だったのは、中学ニ年生のときに、リストの『ラ・カンパネラ』を演奏したときだった。演奏を聴いていた人たちは、その完成度に誰もが驚かされた。
早弥香は高校へ進学する際、迷わず条万学園を受験する。語学に不安があったものの、それ以外は実技をはじめ、他の学科でも抜群の成績を修め、みごとに合格を果たしたのだった。
条万学園に入学した早弥香は、ますます実力を身につけてゆく。
二年生の春、つまり昨年であるが、コンクール地区大会に出場し、優勝を果たす。
その後に行われた全国大会では、体調を崩して三位に終わったのであるが、体調を崩すことがなければ優勝していた可能性は十分にあった。
早弥香は、学園でも稀にみる逸材である。
学園では常にトップの成績を維持している早弥香だが、コンクールが終わって以降、ちょっと様子がおかしい。
彼女は、明らかに調子を崩していた。
早弥香は、コンクール本選での萌美の演奏が、頭から離れない。観客と一体化するような萌美の素晴らしい演奏が、早弥香の心を大きく揺さぶっている。
──彼女は、わたしにはないものを持っている
それは、音楽を演奏する者にとって、非常に大切なもののような気がする。音楽の神に愛された者だけが手にすることを許される大切なものを、萌美はすでに……。
早弥香のそういう想いが、彼女自身を混迷の泥沼へ沈ませる。
コンクールで優勝したのは自分なのに、全然勝った気がしない。いいしれぬ敗北感が、音もなく早弥香を包み込んでゆく。
コンクールで優勝を争った早弥香の演奏は、全身全霊をかけた渾身の一発勝負といえる。
自分の実力を十分に発揮できる早弥香であっても、あのような演奏をもう一度やれといわれた場合、さすがに自信がない。まさしく精も根も尽きはたすような、己のすべてを注ぎこんだ演奏だった。
──でも、仲田さんは
演奏が終わったあとの、満面に笑みをたたえた萌美の顔が、胸に浮かぶ。自分とくらべて、萌美の方はまだ余裕があると早弥香は思う。
萌美はコンクールのときと同じ演奏を、何度でも当たり前のように奏でることができるだろう。
さらに、萌美は演奏を重ねるごとに、誰も追いつけないほどの進化を遂げるのではないか。
この一年での、萌美の変貌ぶりを目にした早弥香は、そう思わずにはいられない。早弥香にまとわりつく敗北感は、じわじわと早弥香を締めあげる。
──本当は、優勝すべきは仲田さんだったのでは?
早弥香は、考えなくていいことまで考えてしまう。
また、早弥香がとらわれる悩みは、それだけではなかった。早弥香がもっとも気になるのは、世梨香からきいた、萌美より上手だという閃葉高校の生徒である。
早弥香は妹の話を疑うわけではない。だが、なかなか信じられない。世梨香がいうほどの実力者であれば、コンクールに出場するのがふつうだろう。
どんな演奏をするのか聴いてみたい。実際に聴いて、確かめてみたい。
しかし、早弥香にはそうする術がない。
世梨香の話が本当だとすれば、自分が手にした優勝は、本来優勝すべき人にとどけられなかった偽りの優勝ではないのか?
早弥香の心は、暗闇にどんどん沈んでゆく。まったく面識がなく、名前すら知らない正也の影が、早弥香を日に日に苦しめる。
早弥香のなかで渦を巻いている不安は、早弥香を闇の底へ、ずるずると引きずり込んでゆくのだった。
音楽教師の須藤は、早弥香の様子がいつもとちがうことに気がついた。しかし、このときの須藤は、あまり深くは考えていなかった。
スランプに陥ることは誰でもあることだ。それは早弥香も例外ではない。
早弥香は調子を崩すことがあっても、冷静に己を見つめ、早期にいつもの自分をとりもどしていたのである。
須藤は、今回もたいして問題はないだろうと思っていた。
──ちょっと、疲れているのかもしれない
そう思った彼女は、早弥香にあまり無理をしないようにいいわたす。須藤は、このときの自分の甘さを、あとあと思い知らされることになる。
コンクールで優勝してから一週間、十日と、日々は過ぎてゆく。
早弥香は全国大会に向けて、己の演奏に磨きをかけなければならない。だが、その早弥香はどういうわけか、すっかり自信を失っているのだった。
──これは、おかしい
須藤は、早弥香がただならぬ状態に陥っていることを、ようやく理解する。
その日の放課後、須藤は早弥香を職員室に呼び出した。椅子に座っている須藤は、不安がにじみ出ている早弥香の顔をのぞきながら言葉をかける。
「皆崎さん、どうしたのですか。最近のあなたは、いつもとちがいますよ」
うつむいて話をきく早弥香に、須藤は問いただす。
「いったい、なにがあったのですか?」
「先生、実は……」
声からして自信のなさそうな早弥香の話に、須藤は顔から血の気がひくほど愕然となる。
──しまった!
瞬時に、そう思った。うかつだった。早弥香は天才的な音楽の才能を備えているとはいえ、やはりまだ子供なのだ。
早弥香が悩んでいるのは、ただの悩み事ではない。放っておくと、早弥香の人生を大きく狂わせてしまうような、それほど深刻な問題をはらんでいるのだ。
一刻も早く、事に対処せねばならない状態であった。
──なぜ、もっとはやく気づいてやれなかったのかっ
須藤は自分を呪うほど後悔する。早弥香は、完全に自分を見失っている。早弥香のなかで渦巻く不安が、新たな不安をどんどん引きよせてくる。
まったく気にする必要のないことに心を奪われ、悪い方へ、悪い方へと考えてしまう。
コンクールでの萌美の演奏と、存在がわからぬ実力者の影が、早弥香の心を立ち直れないほどに蝕んでいる。
須藤に危機感が走る。
──このままでは、この子が潰れてしまう!
そう思った須藤は、安易に早弥香を励ますことも、また優しい言葉で慰めることもしなかった。
突然、須藤は椅子からガタンッと立ち上がると、叫ぶような声で早弥香を叱咤する。
「しっかりしなさい!」
思わぬ大声に、早弥香はビクッと身体を震わせる。早弥香以上に驚いたのは、まわりにいる教師たちだ。
須藤の指導は確かに厳しいが、これほど大声をあげて生徒を叱ったことは、いままでに一度もないのだ。
「仲田さんが、あなたの持っていないものを持っていても、そんなことは気にしなくていいのですっ」
須藤は声をはりあげる。とにかく、いまの早弥香から、一刻もはやく萌美の幻影を叩き出さなければならない。
須藤は、きつくいい放った。
「あなたには、他の人たちが羨ましく思うほどの素晴らしい才能があるのですよっ」
早弥香には、早弥香しか持っていないものがある。誰もが欲しがるそれは、早弥香だけが手にしているのだ。
萌美は、確かに優勝を脅かすほどの存在だった。 しかし、優勝したのは早弥香である。
その事実は変わらない。
須藤は、早弥香が優勝した現実を、彼女の心の芯まで理解させる。
一五〇センチそこそこの身長しかない須藤だが、いまの早弥香には、須藤の姿が山のように大きく見える。
他の教師たちは、ハラハラしながら彼女たちの様子を見守っている。
──す、須藤先生、もう少し穏便に……
教師たちは須藤にそういいたいのだが、とても声をかけられる雰囲気ではない。
早弥香は、その目を涙で潤ませる。しかし、須藤はいわねばならない。
「全国大会の代表になった、あなたは」
須藤は心を鬼にして、語気を強めた。
「優勝できなかった人たちの想いと努力を、背負って行かなければならないのですよ!」
早弥香は、須藤の言葉に目が覚めたように、ハッとする。
全国大会の代表になるということは、どういうことか。それは、地区大会で敗れた彼らの優勝を目指した「想い」と、そのためにがんばってきた彼らの「努力」の上に立つ、ということである。
代表になった者は、敗れた彼らの想いと努力を背負いながら、全国大会に挑むのである。これは、音楽に限ったことではない。
早弥香は思う。
──もし、全国大会で、これっぽっちも実力を出せないままに、不甲斐ない結果に終わってしまったら……
それは、地区大会で敗れたみんなの想いと努力を、無残にもふみにじったといえるのではないか。
もちろん、自分を応援してくれる人たちの期待に応えることは、いうまでもなく大事なことだ。ただ、「代表」として事に挑む人間は、ふみにじってはならないものを自分は背負っていることを、忘れてはならないのだ。
須藤は、早弥香のなかにある大切なものを育むように、こんこんと説明するのだった。
「今後、悩みがあったら、必ずわたしにいいなさい。いいですね」
「はい」
こうして須藤の話は、最後は穏やかな口調で終わる。非常に厳しくも、愛の込められた須藤の指導だった。
須藤と早弥香が落ち着いたところで、まわりにいる教師たちも、ホッと胸をなでおろす。
須藤の厳しい指導に涙を流した早弥香だったが、イヤだとは思わなかった。自分を想ってくれる須藤の愛情を感じたからである。
須藤は、職員室を出て行こうとする早弥香を静かに見守る。
──これで、立ち直ってくれれば良いのだが……
須藤は早弥香のことが心配だが、もうひとつ非常に気になることがあった。それは、萌美よりもピアノが上手だという、閃葉高校の生徒のことである。
須藤にしてみれば、にわかには信じられない。話にきくほどの実力者であれば、必ず自分の耳に入ってくると須藤は思うのだ。
ところが、そういう生徒の名前も噂も、まったくきいたことがない。しかも、閃葉高校は音楽学校ではなく、普通科で統一された学校である。
須藤は、名前も知らない実力者の詳細を調べてみたい思いにかられる。
だが、いまはそれどころではない。いまの自分にとってもっとも大事なのは、なによりも早弥香を立ち直らせることだ。
──わたしは、己のやるべきことに集中しなければ
須藤は、横道に逸れかけた自分の考えを瞬時に改めるのだった。




