結果発表
今回のコンクールは、萌美と早弥香の一騎打ちといえる。他の出場者は、この二人には遠く及ばない。
優勝は、萌美か早弥香のどちらかに決まるだろうと、会場のみんなは思っている。
だが、結果発表の予定時刻になっても、審査員は誰もその姿を見せない。そのまま時間だけが、ひとり歩きするように過ぎてゆく。
正也は視線を腕時計に移した。
──えらく長いな
当初の予定時刻から、二〇分が過ぎようとしている。
おそらく、審査員たちは萌美と早弥香のどちらを優勝させるかで、白熱した議論が続いているのだろう。会場にいる人々が、そういう話をあちこちで囁いている。
実際、そのとおりだった。しかし正也は、過ぎゆく時間のなかで不穏な空気の流れを感じている。
審査員たちが、もめるほどに議論している内容は、観客たちの思惑とはズレていた。
彼らの争点となっているのは、萌美と早弥香の演奏における評価ではなかった。いや、もちろんそれもあるのだが、議論の中心となっているのは別のことだ。
二人のうち、どちらを全国大会に出場させれば確実に優勝できるのか。そのことで、伯仲した議論が続いているのである。
萌美と早弥香の演奏は、今年の全国大会でも優勝が狙えるほどの完成度である。審査員たちは、全国大会で優勝することしか考えていない。
二人の演奏の評価はないがしろにされたまま、意見が真っ二つに割れ、どちらも譲らない。
それは、自分が選んだ出場者が全国大会で優勝すれば、己の肩書きに「箔」がつくからか。
あるいは、なんらかの利益に携わることが関係しているからか。
──大人の事情というやつか
正也は鋭くそう思う。
萌美と早弥香は、その演奏のスタイルがまったく異なる。
観客の心に自然に浸透し、感動の芽を呼び起こすと同時に、観客と一体となるような萌美の演奏。
かたや、天才的な才能で観客を圧倒するほどに魅了し、みんなをぐいぐい引き込んでゆく、安定感抜群の早弥香の演奏。
どちらが優勝しても、おかしくはない。会場のみんなは、結果が発表されるのをまだかまだかと待ち焦がれている。
予定された時刻から三〇分が過ぎたとき、審査員たちが、ようやくその姿をステージにあらわすのだった。
いよいよ、コンクール本選の結果が発表される。
会場が静まり、マイクをもった審査員に注目が集まる。会場の人々は、息をのみながら審査結果を待っている。
審査員がマイクを通して結果を発表する。優勝者を告げるのは、発表の最後だ。
そのまえに、準優勝者の名前が会場に響く。
「準優勝は、仲田萌美さん!」
このあと告げられた優勝者は、やはり皆崎早弥香だった。惜しみない拍手が、会場を埋めつくす。
もし、正也が審査員であれば、萌美を優勝させていただろう。だが、本当にどちらが優勝しても異論はないと、正也は思うのだった。
正也の横で、ルミがブスッとしている。かわいい顔が台無しだ。
そんなルミに、正也が呆れたように声をかける。
「ルミ、なんて顔してんだよ」
「だってえ」
ルミは、拗ねたように口を尖らせる。正也にはルミの気持ちがわかる。
音楽の演奏において、技術的なことよりも曲に対する感性を重視するこの兄妹は、早弥香より萌美の演奏に軍配が上がると考える。
しかし、正也は思う。
──これが、コンクールというものなんだろう
正也は、ふと思いついたようにルミの方へ顔を向ける。
「ルミ、仲田のところへ行ってみるか?」
「うん!」
ルミが元気に返事をする。機嫌が悪かったのがコロッと陽気に変わるのは、幼い子供のようだ。
弓友兄妹は会場を出て、ちょっと離れたところで萌美を待つ。
しばらくすると、萌美が二人の女性といっしょに歩いてくるのが、彼らの目に映る。一人は萌美の母親であり、もう一人はピアノ講師の前川だった。
前川は、優勝できなかった萌美にどういう言葉をかければ良いのかわからないまま、ハラハラしながら萌美に会いに行った。
その萌美は、落ち込むことなくさっぱりしていて、笑顔さえ見せていた。
前川は、自分の予想とはかけ離れた萌美の様子に唖然となった。萌美は人間的にも成長したことがうかがえ、前川は嬉しく思うのだった。
萌美を見つけたルミが、大きな声をあげる。
「先輩!」
手をふりながら萌美のそばまで駆けよって行ったルミは、残念そうにいうのだった。
「先輩、惜しかったですね。わたし、悔しいですっ」
ルミは、自分のことのように悔しがっている。
だが、ルミ以上に悔しそうにしているのは、萌美の横にいる彼女の母親だ。その表情は、ちょっと近づき難いほど恐い。
おそらく、審査結果に腹わたが煮えくり返っているにちがいない。
ところが、当の萌美はルミに優しく微笑み、これっぽっちも悔しさを感じさる様子はないのだった。
「まあ、皆崎さんは優勝候補だからね。とても上手だったし」
他人事のように話す萌美はケロッとしていて、コンクールの結果などまったく気にしていない感じである。
萌美は、ルミの口から飛び出した次のひと言に、一瞬心臓が止まりそうになった。
「きょうは、お兄ちゃんも来てますよ」
萌美が視線をルミから離して顔を上げると、正也がすぐそこにいる。
来てくれるとは思っていなかった正也は、白いポロシャツと青いジーパンという姿で、相変わらず、ぬぼーっとしている。
萌美は正也を意識しているせいか、心臓の鼓動がはやくなる。
そんな萌美に、正也が声をかけた。
「惜しかったな」
「は、はい」
「俺が審査員だったら、おまえを優勝させていただろうな」
正也の言葉に、萌美の胸がキュンとうずいた。
──ほ、褒めてくれた?
萌美がそう思いながらドキドキしていると、正也がひとり言をいうようにつぶやいた。
「みんな、けっこう地味な服装で演奏するんだな。ちょっと、びっくりしたよ」
どこかできいたセリフに、萌美はプッと吹き出す。やっぱり兄妹だと思った。
正也は、てっきり萌美が落ち込んでいるものだと思っていたが、彼女は予想に反して意外に明るい。
「仲田、優勝できなくて悔しくないのか?」
「いえ、全然」
萌美は、きっぱりと答えた。正也は萌美の予想外の返事に、ちょっと唖然となる。
萌美は、ストレートにいいきった。
「だって、正也先輩やルミちゃんが出場していれば、わたしは絶対に優勝できませんから」
萌美はコンクールへのこだわりを、完全に自分から切り離していたのだった。
正也は、他にはなにも話すことはないと思い、萌美とルミに「じゃあ、先に帰るからな」と告げて自宅へ足を向けようとする。
そのとき、不意に早弥香の姿が正也の目にはいった。
早弥香は、自分の母親と音楽教師の須藤とともに、多くの人たちに囲まれていた。
正也は、早弥香のことがどうも気になる。
今回のコンクールで、早弥香が優勝したことに異論はない。しかし、それが演奏以外の、別の要素が絡んだために「作られた」結果であれば、どうなるか。
あとになって、必ず歪みが生じるだろうと正也は思うのだ。その歪みがどこにあらわれるかというと、優勝を手にした早弥香だと正也は考える。
──彼女は、あとあと悩むようなことに、ならなきゃいいけどな……
そんなことを気にするのは、正也ぐらいなものだろう。
だが──正也の予感は的中する。
早弥香は、母親といっしょにコンクールの会場から自宅に帰ってくる。
自分の部屋に入ると普段着に着替え、机の前に座ると、思わずため息をついた。
いつもとちがう感覚におおわれる。ふつうなら優勝した喜びが、とっくにわきあがっているはずである。
しかし、この日はちがっていた。いま、早弥香の心を埋めつくそうとしているのは、いいしれぬ敗北感である。
──優勝したのに、なぜ?
得体のしれない不安が、早弥香のなかで渦を巻きはじめている。そこへ、部屋のドアをノックする音がきこえてくる。
妹の世梨香だ。
早弥香が「はい」というやいなや、世梨香は部屋のなかに入ってくる。ジャージ姿で姉のベッドに転がりこむのは、相変わらずだ。
今日の世梨香は、ソフトボール部の試合にひっぱられて五番でライトを守り、二本の二塁打でチームの勝利に貢献した。正式部員顔負けの大活躍だった。
爽やかな顔をした世梨香が、姉の早弥香にコンクールの結果を訊いてくる。
「お姉ちゃん、どうだった?」
「どうにか、優勝できたわ」
妹に答える早弥香の声は、いつもとちがって元気がない。
世梨香は、姉の様子が妙におかしいと感じる。めずらしく疲れているように見える。
世梨香がそう思っていると、早弥香の方から彼女に話しかけてきた。
「世梨香ちゃんのいってた仲田さん、本当に上手だったわ」
「え?」
世梨香は、姉がなんのことを話しているのかわからない。
「ほら、このまえ世梨香ちゃんの学校で、ピアノが上手な人がいるって」
「あ、あれは仲田さんじゃないよ」
「え?」
「女じゃなくて、男だし」
「!」
早弥香は言葉を失い、愕然となる。
──ど、どういうこと?
早弥香は、混乱する頭で必死に考えを巡らす。妹の世梨香が通っている閃葉高校には、萌美と同じくらいの実力者が、他にいるというのか。
いや、それなら、なぜコンクールに出場しないのか?
──仲田さんに近い実力があれば、必ずコンクールに……
抱く疑問に自分なりに答を導き、心の安定をはかろうとする早弥香。
だが、それを打ち砕くのは、あろうことか妹の世梨香の言葉だった。
「その人、たぶん仲田さんより上手だよ。本当に、すごかったもん」
「………」
早弥香のなかで、なにかが崩れてゆく。




