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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第一章 才能を秘める天才
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弓友正也

「まるで、夢のようだ」


 今年の春に高校三年生になった弓友正也(ゆみともまさや)は、ドイツのケーテン宮殿で、またとないひとときを過ごしていた。


 鏡の間では、楽器を手にした演奏者たちが、バッハの管弦楽組曲を披露している。アンティークな椅子に座ってそれを聴いている正也は、感激にうち震える。


 正也のとなりに座るレオポルト候が、微笑みながら声をかけた。


「いかがかな、わが楽団の演奏は?」


 正也は満面に笑みをたたえ、興奮するのを抑えきれない声で彼に答えた。


「素晴らしいっ。もう、最高です!」


 レオポルト候は、喜びの眼差(まなざし)しを正也に向ける。


「それは良かった」


 ドイツでも選りすぐりの名手をそろえた楽団は、優れた演奏を聴かせてくれる。また、室内の空気は、彼らが奏でる音を伝えるためだけに存在するのではないかと思うほど、澄みきった純粋さを感じさせる。


 宮殿にふさわしくレオポルト候を称賛するような音楽は、正也をも歓迎するかのように、彼の全身を包んでゆく。


 ──これが、十八世紀の音楽なのか


 十八世紀当時の音楽に、直に触れている正也は、これ以上の幸せはないと思った。まるで夢の中にいるような体験であり、夢なら覚めないでくれと正也は思う。


 だが、夢であるなら目覚めるときが必ずやってくる。それは、なんの予告もなく突然おとずれた。

 ドンッ、ドンッという、楽団には似つかわしくない音が、正也が見ている夢を一気にぶち壊す。


「お兄ちゃん、朝だよ。起きてよう」


 二つ年下の妹の声が、正也を日常の世界へひきもどす。

 目覚まし時計を見ると、アラームのスイッチを知らない間に止めており、ふだん起きる時間を五分ほど過ぎている。


 ──まだ、大丈夫……


 そう思いながら、二度寝しようとした正也だったが、それは叶わなかった。妹のルミがドアをガンッ、ガンッと、うるさく叩く。


 ──たまらんなあ


 正也は観念したように、ゆっくりとベッドから起き上がると、フラフラしながらドアまで歩いた。

 ガチャッとドアを開けると、自分の目の前にルミがいる。今年の春から、正也と同じ高校へ通うことになったルミは、すでにセーラー服に着替えていた。


 一四二センチのルミが、一七六センチの正也を見上げる。


「お兄ちゃん、パンが焼けてるよ」


 ルミの言葉に、低血圧の正也は黙ったままうなずいた。寝起きの正也を見たルミは、ひと仕事やり終えたという感じで、ツインテールの髪をゆらしながら階段を下りて行く。


 そんなルミを見て、正也は思う。


 ──セーラー服が似合わないな


 正也にすれば、ルミはブレザーの制服を着ていた中学生時代の印象が強いのだ。


 ──まあ、まだ入学式から、十日ぐらいしか経ってないからな


 正也はそう思いながら、パジャマ姿で階下に向かう。

 一階の洗面所で顔を洗うと、キッチンに入る。髪はバサバサで、まだ眠たそうな目をしたまま食卓の椅子に座った。


 寝起きとはいえ、見るからになんとも締まりのないこの青年が、天才的な音楽の才能をその身に秘めているなどとは、誰もが予想できないにちがいない。

 人は見かけで判断できないという言葉は、この青年のためにあるようなものだ。


 母親の小百合(さゆり)が、ぬぼーっとしている正也に声をかける。


「おはよう、正也」


 小百合は年齢のわりに、見た目も声も若々しい。


「おはよう」


 低血圧の正也は、声を出すにも苦労する。


 食卓には、正也の食べるパンとサラダに牛乳がならんでいる。正也はパンをかじると、牛乳を飲んでいるルミにたずねた。


「ルミ、学校は慣れたか?」

「うん、ちょっとね」


 正也は「ちょっとかよ」と、口に出さずに思う。そして「まあ、まだ入学式から十日ぐらいしか……」と、先ほどと同じことを考えるのだった。


 朝食をすませ、学生服に着替えた正也は玄関で靴を履く。そして、リビングでテレビを見ているルミをそっちのけで学校へ行こうとするのだった。


「あ、お兄ちゃん、待ってよう」


 ルミがあわててかばんを手にし、玄関に向かう。焦るように靴を履きながら、正也に叫ぶようにいった。


「お兄ちゃんのいじわるっ」

「俺が、なにかやったか?」

「もうっ」


 小百合が二人のやりとりを見て笑っている。


「行ってきまーす!」


 ルミの大きな声が、玄関に響く。


 ──朝から元気だね、おまえは


 ルミのそういうエネルギッシュなところが、非常にうらやましいと思う正也である。



 まだ半分眠っているような正也と、朝から元気なルミが、二人いっしょに学校へ歩を進める。


 正也たちの通う学校は、私立閃葉高校である。閃葉は「せんよう」と読む。閃葉高校は、普通科で統一された四階建ての学校だ。

 名のある進学校というわけではないが、特に問題がある学校でもない。また、熱心にスポーツに力を入れているわけでもない。


 ただ、退学者が非常に少ない学校である。そのせいか、進学校ではないわりには人気が高い。

 また、県内では校則が厳しいことで知られている。実際はそれほどでもないのだが、これは学生服のイメージからくるのかもしれない。


 同じ地域の学校が、すべてブレザータイプの制服なのに対して閃葉高校の制服は男子は黒の学ランタイプであり、女子は紺のセーラー服である。

 閃葉高校の制服は、昭和の時代を思わせるようだ。生徒たちは、とても地味な感じで古臭いと不服に思っている。しかし彼らの親たちには、おおむね評判は良いようだ。


 学校自体は平成の時代になってから建立(こんりゅう)された、わりと新しい学校である。

 学校に通う生徒たちの家庭は、どちらかというと裕福な家庭が多い。母親が働いている家庭もあるが、生活が苦しくて働いているわけではないようで、父親の稼ぎだけで生活していける家庭がほとんどだ。


 正也の家庭は、かなり裕福な部類にはいる。その自宅は、防音設備が施された大きな一戸建てである。

 正也の父親は海外で働いているのだが、その父親の稼ぎで、正也たちは特に不自由なく生活している。ちなみに、母親の小百合は専業主婦だ。



 弓友兄妹が閃葉高校の校門をくぐって校舎に向かっていると、正也の親友の二人が、後ろから声をかける。

 二人とも正也よりも背が高い。


「よう、マサ」

「マサ、おはよう」


 正也が、その声にふり向いた。


「ああ、おはよう」


 ルミも大きな声であいさつを交わす。


「おはようございます!」


 親友たちが、ルミに微笑んだ。


「ルミちゃん、朝から元気だね」


 長髪で身体が細い彼の言葉に、正也が応える。


「それしか取り柄がないんだよ」

「もうっ」


 ルミが恐い目で正也を見るのを、二人の親友は笑うのだった。


 正也と親友たちの間にルミが入っているのを見ると、身長差がありすぎるせいか、異様な感じがする。

 背の低いルミが、ものすごく目立つ。


 もう一人の親友が、ルミに話しかける。


「ルミちゃん」

「はい」

「中学校は、あっちだよ」


 角刈りでガッチリとした体格の彼は、中学校のある方を指さして、そういった。


「中学生じゃないもんっ」


 ルミはプリプリ怒っているが、二人の会話を耳にしたまわりのみんなは大笑いだ。


 ──朝っぱらから、笑いを提供してくれるヤツだ


 正也はルミを見ながら、そのように思うのだった。


 正也たちは校舎に入ると、上履きにはきかえて、おのおの自分たちの教室に向かう。


 正也と親友たちは、三人とも別のクラスだ。三年生の教室は、すべて三階にある。三階まで上がるのは、正也にすれば授業がはじまるまえから苦行が待ちかまえているに等しい。


「あー、しんど」


 教室までの階段は、朝に弱い正也にはこたえるのだった。


 階段をのぼりきり、正也は自分の教室に入る。一七六センチの身長は、クラスでは高い方だ。痩せても太ってもいない、締まりのない身体が、窓際後方の自分の席に向かって行く。


 正也が席に着くなり、クラスメートが次々によってくる。あっという間に、正也のまわりに人だかりができる。といっても、男子だけなのが妙に寂しい。


「お、きたか弓友」

「相変わらず、眠たそうだな」


 半分眠っているような正也の、ぬぼーっとした表情は、なにを考えているのかよくわからない。正也は感情が表に出ることが、めったにないのだ。


 その顔つきから全然やる気がなさそうで、勉強ができない印象を受ける。特に、クラスの女子の多くは本当にそう思っているのだが、実際は彼らが思っているほど頭は悪くない。


 長くも短くもなく、ちょっとバサバサな髪が、やる気のなさそうな顔に実によくマッチしている。

 決してイケメンではない正也だが、彼のまわりには、いつもクラスメートが集まってくる。正也には、人をひきつけるなにかがあるのだろう。


 だが、それは正也に限ったことではない。美男美女だけが人気があるとは限らないのは、どこの学校でもいえることだ。


 ただ、クラスメートたちは、正也の天才的な音楽の才能については、まったく知らないのだった。

 正也の秘める音楽の才能について、知っている人間は限られている。正也の家族と、二人の親友だけである。


 正也は、なぜか自分の才能をひたすら隠そうとする。彼自身は、平穏ぶじに毎日を過ごせれば、それで良いのだ。

 正也は、このまま何事もなく高校生活を過ごし、そして当たり前のように学校を卒業するものと思っている。


 だが──これから、正也のまったく予期せぬことが、その身にふりかかろうとしているのだった。



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